まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

お葬式がかるくなってきた日々

2023年12月17日 | 読経の日々

新型コロナの蔓延以来、字田舎で濃厚に暮らしてきたじいさん、ばあさんがなくなっても、「家族葬で行いますのでご会葬はご遠慮いたします」、なんて、寂しい事態が起こり、コロナが弱体化した今も、それが定着してしまった。

今年に入ってからは、田舎ながらの『野辺の送り』はないものの、お通夜や告別式の日程、いわゆる訃報は、『いいつぎ』で回ってくるようになったので、子供の頃お世話になった方々には、お通夜で訪問し、最後の挨拶をして、自分にけじめをつけている。

昨今は、土着の住人以外にも、田畑を潰した土地に新しく定住される方も少なくないし、土着の子孫たちでさえ、若い頃から農業を離れ、サラリーマンとして、外で暮らしていた人が多いから、この地に生きてきた方の弔いを、苦楽を共にしてきた地域の人たちで送る『野辺の送り』という古い風習がなくなり、面倒がなくなっていい、新型コロナのおかげで助かる、と言われる人も多い。

確かに、施主の経済的な負担もなくなり、地域の役員さんなどと関わる必要もない。役員さんの負担もない。

でも、お葬式って、ほんとうにこんな軽くなっていいのかな、とも思う。

房総の字田舎でも、年寄りを自宅で最後まで看取るというお宅はほぼない。

みな、病院にかかり、施設に入り、自宅を離れて亡くなっていく。
家、地域とは別のところで旅立っていく。

家族、親族で葬儀をし、埋葬してしまう。

だから、亡くなったということさえ、集落で暮らすメンバーにはわからないこともある。

貧しかった昭和の時代から生きてきた自分には、血縁はなくても、地縁で、家族のようにお世話になった人もあり、最期のお別れもできないのでは、自身にけじめがつかない。

今年も子供の頃自分に関わりのあった父母世代のいく人かが亡くなったけれど、昨今は、かなり近い親族の場合でも、葬儀、初七日後の法事の連絡をいただけない。

自身の不徳のいたすところということもあるけれど、一回忌、三回忌、七回忌・・。

人を集めれば、お金もかかる。

便利な社会になり、親族も遠方に散っている場合が多く、声をかけた人にもそうとうな負担がかかる。

そんな配慮が定着してしまったのでは、とも思う。

自分の身内を見回してみても、長寿社会となり、施主自身も、関係者のみなさんも、定年後&年金主生活状態だから、父母に対するご供養の気持ちはもちろんあっても、自分の家計を考えれば、関係者のみなさんの事も慮って、内々でやろうということになるということは予想できる。

実際、自身も母の葬儀に際しては、その後の法要は、故人の子世代にのみ声をかけて行なってきた。

お葬式がかるくなってきた日々は、言い換えれば、人の死が軽くなってきた、人間関係が薄くなってきた日々ということであり、もっと言えば、生きる意味を深く考えるとか、感じる機会がなくなってきたとも言えるわけで、これでいいのかな、との思いも。

もちろん、葬儀屋さんを入れて、お坊さんを何人も頼み、盛大にお別れをするお葬式をすべきだとは思わない。

人それぞれ、身の丈のお葬式でいいのだけれど、できるだけお知らせはし、式は家族葬でするにしても、お通夜や納骨の折でも、家族、親族以外にもお別れをする機会があっていいように思う。

故人と私の関係性というのは、施主が私をどう思っているかではなく、生きている私が故人に対しどんな思いをもっているのか、生前故人からどんな思いを受け取ったかの方に意味があると思うのだ。

90歳半ばで、1月に亡くなった叔父の一周忌が近づいてきた。
なんの沙汰もない。

従兄弟(喪主)も、もう70歳をこえた。
身内もすくない家だから、家族で法事をするつもりなのかもしれない。

お香典だけでも送って、法事に役立ててもらい、子供のころからずっとお世話になった叔父の冥福を祈りたい。

南無釈迦牟尼仏

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