MD*DIARY

2024年7月です。
今年は、酷暑になり、残暑も厳しくなるようです。
体調を崩さないよう気を付けたいですね。

あれから15年

2010-01-18 07:20:37 | 日記

1995年1月17日午前5時46分、私は静岡市内で、地震のゆれで
目が覚めました。

静岡市内は震度2か3ぐらいだったのですが、揺れの感じがどこかで
大きな地震が起きたに違いない。たぶん、東京方面だと思い、テレビを
つけました。

そこに映ったのは、近畿地方の地図。

大阪、徳島などが震度5や6を示すのに、神戸の震度が表示されていません。

これは・・・・・・
淡路島の両親に電話をかけました。
2回かけ、やっと母が出ました。
「これは何?真っ暗で何も分からへん。」
「おかあさん?地震やで。大丈夫?けがないんやね。お父さんは?」
「下に見にいっとる。何が起きたかわからへん。お父さんが地震やいうて。
窓をすこしあけて、ふとんにくるまっとる。」
「無事なんやね。よかった。」

それっきり、電話は、静岡から淡路にはつながらなくなってしまいました。両親からかけてくる以外は。

弟は、その1994年の10月に結婚し、1995年のお正月は、にぎやかでした。
妙に父親が、「東京方面は、地震があるかもしれへん。このままおったらどうや。」
なんて言ったのを覚えています。

妹も茨城にいたので、この時、地震を感じ、その直後、両親の無事を
確かめられたのは私だけでした。
親戚の人からも淡路とは電話がつながらず、私のところへ安否を気
遣って連絡をくださる方もいました。
その時、本当に電話がつながってよかったと思いました。

 

その後、テレビでは、私の知っている風景がうつしだされるのですが、
みんなことごとく、信じられない映像ばかりで・・・・・・
なんで、こんなことに・・・・・・

おぼえがき。その時、どこへ行ったか、だれと会ったのか、
ほんとうにメモしか残してないのですが。


これを見ると、当時、長女が小学校3年生。次女は幼稚園の年中
三女は、春から幼稚園に行くことになっていた3歳だったのです。

この三人を連れて、両親のもとに行くことはできない。
テレビの画面を見ながら、ただ、呆然としていました。

 

2010年1月16日。
15年たって、神戸新聞の記者の目を通したドキュメンタリードラマを
見ました。
新聞会館の写真を見ながら、「ここで、ロミオとジュリエットを見たんだよね。」
なんて長女に話しました。長女は、
「お母さんから笑顔が消えて、顔が能面のようになって、しゃべらなく
なって、お母さんが壊れてしまうか、いなくなってしまうのではと心配に
なったのを良く覚えている。」と言います。

三女は、もちろん、何も覚えていません。

 

覚書を見ると、何もできないと思いながら、1月28日~29日で私だ
け淡路に行ってるんですね。
その時は、電車も通ってなくて、大阪の南港から船に乗り、志筑から
バスで行ったんです。
高校時代に通った国道沿いは、いたるところでブルーシートがかけられていました。

幸いにも地震から2週間ほどたっていたので、手伝うこともほとんど
なく、電気が四国から供給され、水も出ていたので、淡路の両親たち
は、それほど困ることなく生活できていました。

時折、地の底からどどーんと突き上げてくるようなものがあり、これが
地震だと言われて、こういう地震があったのかと初めて体験しました。

 

その後、3月の終わりに子どもたちを連れて、実家に帰った時は、
JRが途中復旧されておらず、バスに代替輸送され、4月に静岡に
帰って来る時には、ぎゅうぎゅうのJRに乗り、焼け野が原になった
長田や東灘区あたりを電車から見ました。

ドラマで見る悲惨さをバスに乗り換えに行く途中で見ています。

 

ドラマを見ながら、15年前を思い、この15年間を思いました。
あのころは、パソコンもなく、携帯電話もなく、明石海峡大橋もまだ建設
途中でした。

あっというまの15年だったような気もするし、娘たちを見るとかなりの
時が過ぎてしまった気もします。

ドラマの中で、何が起こったかわからない。最初は起こった悲惨さを
伝えていた新聞が、元気に立ち上がっていく人たちを伝えていく。

ひとりではない。みんなで助け合っていく。

新聞を作る。新聞を配る。
この仕事にこれだけ命をかけていた人たちがいたなんて。

いつ、何が起こるか分からないけれど、必ず生きていれば、立ち上がっていける。

 

人って、忘れるんですね~

つらいことも忘れるから生きていける。
ともいいますが、わすれてはいけないこともある。
伝えられて、その思いに触れて、気持ちを新たにして生きていける。

 

15年目の節目の年。
ちょっとまじめに書き残してみました。