ささくれ立った心のまま、僕は夕暮れの街を歩いていた。
「井上さん!」
僕を呼ぶ声がする。梓が追いついてきたようだ。
少しだけ頭の冷えた僕は、立ち止まった。梓が息を切らしながら、僕の横に立った。
涙ぐんでいた。
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ」
冷たい声音にならないよう、気を遣った。
「お姉ちゃん、ほんとはああいう子じゃないんです。きっとチェスで、いやなことがあって……それで……」
「……わかってるよ」
「井上さん、お姉ちゃんを叱ってくれて、ありがとうございました」
「……」
「目が覚めたと思います。お姉ちゃん、お父さんに叱られたことがほとんど無いんです。チェスで負けたとき以外は」
「……」
それもまた、悲しいもんだな……
「あの馬鹿娘が。骨休めなど、させるのではなかったか! よりによって、チェスをやめるだと? 寝言もたいがいにしろ」
木下は、せわしなく歩き回りながら、僕らのしらけた視線にも気づかない様子だった。
「世界チャンピオンを狙えるのは20代前半までだ。今、命がけで精進しなければ、なにもかも水の泡だ」
口を開いたのは、洋子さんだった。
「あいかわらずね、礼治さん」
「なんだと?」
「木下名人、とお呼びしたほうがいいかしら。プライドの塊みたいな方だものね」
木下は立ち止まると、
「凡人になにがわかる」
僕は、美鈴が言ったありのままの言葉を、洋子さんと木下に伝えた。その結果がこれだ。
葵さんが怒り出すかと思ったが、彼女はさっきから頬杖をついて、つまらなそうにしていた。やはりいるのだ、葵さんがケンカすらしない人間というのは。
「あなただって凡人じゃないの。美鈴の才能を自分のことみたいに考えて、ふんぞり返っているだけだわ」
「黙れ。お前のような母親が子をダメにするんだ」
「あなたは、我が子を見る目さえ、チェスの才能があるかどうか、それだけ。美鈴はこのままでは、絶対幸せになれないわ」
やれやれ。犬も食わないどころではない。まるっきり責任のなすりつけ合いだ。
「あー、はいはい。お二人とも、それぐらいにしときましょう」
割って入ったのは、さっきからカウンターでグラスを磨いていた尾崎だった。
「とにかく今は、美鈴ちゃんの心と体のことを考えるべきでは? 明日、葵と梓ちゃんが、美鈴ちゃんの泊まってるホテルに行きますから。もしかしたら、体調くずしてるかもしれないわけだし」
尾崎の言葉が終わらないうちに、木下は出て行ってしまった。
翌日は土曜日だった。葵さんと梓が、美鈴の様子を見に行って、帰ってきた。
2人は、僕の部屋に立ち寄った。
「謝ってたよ。立会人さんに申し訳ないことしたって。あんたのことでしょ? 井上くん。ガツンと言ってやったようだね」
僕はなんとなく、くすぐったいような気分を味わった。案外、素直な女の子なのかもしれない。
「それとさあ……」
葵さんはそう言って、梓と顔を見合わせる。
「これ、言っちゃっていいかな?」
「別にかまわないと思います」
なんだ?
「なんでダブルの部屋とってるのか、変だなとは思ったんだけど」
え?
「彼氏といっしょだった。ラルフ・ガーラントさん。チェスの世界王者の。つきあい始めてもう2年になるって」
「……」
「ちょうど部屋にいたから、握手してきたよ。大きくてごつい手だったなー」
「……」
「彼は23歳だって。ちょうどいい、お似合いの相手かもね」
「……」
なにを落ち込んでいるのだ? 僕は。
クイーンには、ふさわしいナイトがすでにそばにいた、というわけだ。
(つづく)
「井上さん!」
僕を呼ぶ声がする。梓が追いついてきたようだ。
少しだけ頭の冷えた僕は、立ち止まった。梓が息を切らしながら、僕の横に立った。
涙ぐんでいた。
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ」
冷たい声音にならないよう、気を遣った。
「お姉ちゃん、ほんとはああいう子じゃないんです。きっとチェスで、いやなことがあって……それで……」
「……わかってるよ」
「井上さん、お姉ちゃんを叱ってくれて、ありがとうございました」
「……」
「目が覚めたと思います。お姉ちゃん、お父さんに叱られたことがほとんど無いんです。チェスで負けたとき以外は」
「……」
それもまた、悲しいもんだな……
「あの馬鹿娘が。骨休めなど、させるのではなかったか! よりによって、チェスをやめるだと? 寝言もたいがいにしろ」
木下は、せわしなく歩き回りながら、僕らのしらけた視線にも気づかない様子だった。
「世界チャンピオンを狙えるのは20代前半までだ。今、命がけで精進しなければ、なにもかも水の泡だ」
口を開いたのは、洋子さんだった。
「あいかわらずね、礼治さん」
「なんだと?」
「木下名人、とお呼びしたほうがいいかしら。プライドの塊みたいな方だものね」
木下は立ち止まると、
「凡人になにがわかる」
僕は、美鈴が言ったありのままの言葉を、洋子さんと木下に伝えた。その結果がこれだ。
葵さんが怒り出すかと思ったが、彼女はさっきから頬杖をついて、つまらなそうにしていた。やはりいるのだ、葵さんがケンカすらしない人間というのは。
「あなただって凡人じゃないの。美鈴の才能を自分のことみたいに考えて、ふんぞり返っているだけだわ」
「黙れ。お前のような母親が子をダメにするんだ」
「あなたは、我が子を見る目さえ、チェスの才能があるかどうか、それだけ。美鈴はこのままでは、絶対幸せになれないわ」
やれやれ。犬も食わないどころではない。まるっきり責任のなすりつけ合いだ。
「あー、はいはい。お二人とも、それぐらいにしときましょう」
割って入ったのは、さっきからカウンターでグラスを磨いていた尾崎だった。
「とにかく今は、美鈴ちゃんの心と体のことを考えるべきでは? 明日、葵と梓ちゃんが、美鈴ちゃんの泊まってるホテルに行きますから。もしかしたら、体調くずしてるかもしれないわけだし」
尾崎の言葉が終わらないうちに、木下は出て行ってしまった。
翌日は土曜日だった。葵さんと梓が、美鈴の様子を見に行って、帰ってきた。
2人は、僕の部屋に立ち寄った。
「謝ってたよ。立会人さんに申し訳ないことしたって。あんたのことでしょ? 井上くん。ガツンと言ってやったようだね」
僕はなんとなく、くすぐったいような気分を味わった。案外、素直な女の子なのかもしれない。
「それとさあ……」
葵さんはそう言って、梓と顔を見合わせる。
「これ、言っちゃっていいかな?」
「別にかまわないと思います」
なんだ?
「なんでダブルの部屋とってるのか、変だなとは思ったんだけど」
え?
「彼氏といっしょだった。ラルフ・ガーラントさん。チェスの世界王者の。つきあい始めてもう2年になるって」
「……」
「ちょうど部屋にいたから、握手してきたよ。大きくてごつい手だったなー」
「……」
「彼は23歳だって。ちょうどいい、お似合いの相手かもね」
「……」
なにを落ち込んでいるのだ? 僕は。
クイーンには、ふさわしいナイトがすでにそばにいた、というわけだ。
(つづく)