「葵さんに5000円」
尾崎がヒゲを撫でながら言った。店はどうしたのだろうか。
「バクチじゃないんだから……」
僕は言った。
再びスナック『ポル・ファボール』。チェス盤を挟んで向かい合っているのは……
葵さんと、洋子さん。
「叩きのめしてやるよ」
「やってごらんなさいな」
この世紀の対決(?)は、意外にも洋子さんからの申し出により実現した。
洋子さんと『アンパッサン』のマスターは旧知の仲であり、彼を通じて、葵さんと勝負したいとの知らせがあったのだった。
「私が勝ったら、この店では今後チェスの話は一切しないこと。わかった?」
「おう、わかったよ。そのかわりあたしが勝ったら、飲み食い一切タダにしてもらうからね」
はたして、どちらが勝つか?
葵さんのチェスの実力は相当なものだ。もちろん僕は勝ったことはないし、ネットの対戦でもなかなか相手が見つからないほどだという。
しかし、洋子さんの実力はまったく未知数だ。木下名人の元妻で、エイリアン鳴神美鈴の母親である。しかも自分から勝負を挑んでくるほどだから、大抵の人には勝つ自信があるのかもしれない。
「よーし、始め」
双方、立ち上がって一礼する。
勝負が始まった。
チェスでは、最初はまずポーンを動かすか、ナイトを動かすか、どちらかしかない。大抵は、ポーンの突き合いから始まる。
白は葵さん。黒は洋子さん。
序盤は、オーソドックスな展開だったが、中盤に進むにつれて、白はやや苦しくなってきた。
黒は駒得を重ね、白の駒は少しずつ減っていく。
これは……かなり強い。葵さんの額にうっすらと汗がにじむ。
そして、決定的な瞬間。
黒が、白のクイーンを取った。
やばいぞ……。
「どうします? リザイン(投了)する?」
「……まだまだ」
もはや白陣はスカスカだ。そして黒は、俄然、攻勢に転じた。
「チェック(王手)」
洋子さんは勝利を確信したように言った。僕の目から見ても、もはや葵さんに勝ち目はないことがわかった。
チェック。またチェック。
白のキングは、逃げることしかできない。やがて端に追いやられ、チェックメイトされるのも時間の問題と思われた。
しかし、ここで初めて、洋子さんが手を止め、考え込んだ。
どうしたのだろう。明らかに黒が勝つようだが。
そして、葵さんがルークを動かす。
あ……!
「試合終了だな」
尾崎が言った。
葵さんが大きく息をついた。
「引き分けだ」
「なかなか、やるじゃないの」
洋子さんが言った。勝負のあとは、なごやかに懇親会となった。
葵さんは照れくさそうに、
「へへ……でも、あんたの実力がわかったよ」
「私とやって、スティールメイトに持ち込める人はそうそういないわ」
スティールメイトとは、キングが動けない状態で、なおかつチェックされておらず、他の駒も動かせないことをいう。
この状態になったとき、自動的に勝負は引き分けとなる。圧倒的に不利なとき、スティールメイトに持って行くのも、技術のひとつだ。
「でも、もう私は、チェスはやらないって決めてたのよ」
「あんなに強いのに? もったいないなあ」
「いろいろと失ったからね……チェスのせいで」
「ふうん……」
「まあ昔の話よ。さて、皆さん、今夜は楽しんでいってね。おごりだから」
洋子さんが、初めて心からの笑顔を浮かべたようだった。そうすると、梓のほうに似ているように思えた。
しばらくすると、尾崎は店をバイトに任せてきたとかで、帰っていった。
梓も、明日は学校だそうだ。
僕と、葵さん、洋子さん、坂口さんの4人で盛り上がり、楽しい会話は続いた。
しかし……
電話が鳴った。
携帯ではなく、店の固定電話だった。
時刻は午後10時を回っていた。洋子さんは電話に出て、
「はい、ポル・ファボールでございます」
そのとたん、洋子さんの表情がこわばった。
「……礼治さん?」
え?
「ええ、お久しぶり……どうしたの?」
まさか……
「美鈴が? そんな……!」
電話の相手は木下名人らしかった。いったい何があったのだろう。
「行方不明ってどういうこと? あなた、今どこにいるの?」
どうやら尋常ではない事態のようだ。
(つづく)
尾崎がヒゲを撫でながら言った。店はどうしたのだろうか。
「バクチじゃないんだから……」
僕は言った。
再びスナック『ポル・ファボール』。チェス盤を挟んで向かい合っているのは……
葵さんと、洋子さん。
「叩きのめしてやるよ」
「やってごらんなさいな」
この世紀の対決(?)は、意外にも洋子さんからの申し出により実現した。
洋子さんと『アンパッサン』のマスターは旧知の仲であり、彼を通じて、葵さんと勝負したいとの知らせがあったのだった。
「私が勝ったら、この店では今後チェスの話は一切しないこと。わかった?」
「おう、わかったよ。そのかわりあたしが勝ったら、飲み食い一切タダにしてもらうからね」
はたして、どちらが勝つか?
葵さんのチェスの実力は相当なものだ。もちろん僕は勝ったことはないし、ネットの対戦でもなかなか相手が見つからないほどだという。
しかし、洋子さんの実力はまったく未知数だ。木下名人の元妻で、エイリアン鳴神美鈴の母親である。しかも自分から勝負を挑んでくるほどだから、大抵の人には勝つ自信があるのかもしれない。
「よーし、始め」
双方、立ち上がって一礼する。
勝負が始まった。
チェスでは、最初はまずポーンを動かすか、ナイトを動かすか、どちらかしかない。大抵は、ポーンの突き合いから始まる。
白は葵さん。黒は洋子さん。
序盤は、オーソドックスな展開だったが、中盤に進むにつれて、白はやや苦しくなってきた。
黒は駒得を重ね、白の駒は少しずつ減っていく。
これは……かなり強い。葵さんの額にうっすらと汗がにじむ。
そして、決定的な瞬間。
黒が、白のクイーンを取った。
やばいぞ……。
「どうします? リザイン(投了)する?」
「……まだまだ」
もはや白陣はスカスカだ。そして黒は、俄然、攻勢に転じた。
「チェック(王手)」
洋子さんは勝利を確信したように言った。僕の目から見ても、もはや葵さんに勝ち目はないことがわかった。
チェック。またチェック。
白のキングは、逃げることしかできない。やがて端に追いやられ、チェックメイトされるのも時間の問題と思われた。
しかし、ここで初めて、洋子さんが手を止め、考え込んだ。
どうしたのだろう。明らかに黒が勝つようだが。
そして、葵さんがルークを動かす。
あ……!
「試合終了だな」
尾崎が言った。
葵さんが大きく息をついた。
「引き分けだ」
「なかなか、やるじゃないの」
洋子さんが言った。勝負のあとは、なごやかに懇親会となった。
葵さんは照れくさそうに、
「へへ……でも、あんたの実力がわかったよ」
「私とやって、スティールメイトに持ち込める人はそうそういないわ」
スティールメイトとは、キングが動けない状態で、なおかつチェックされておらず、他の駒も動かせないことをいう。
この状態になったとき、自動的に勝負は引き分けとなる。圧倒的に不利なとき、スティールメイトに持って行くのも、技術のひとつだ。
「でも、もう私は、チェスはやらないって決めてたのよ」
「あんなに強いのに? もったいないなあ」
「いろいろと失ったからね……チェスのせいで」
「ふうん……」
「まあ昔の話よ。さて、皆さん、今夜は楽しんでいってね。おごりだから」
洋子さんが、初めて心からの笑顔を浮かべたようだった。そうすると、梓のほうに似ているように思えた。
しばらくすると、尾崎は店をバイトに任せてきたとかで、帰っていった。
梓も、明日は学校だそうだ。
僕と、葵さん、洋子さん、坂口さんの4人で盛り上がり、楽しい会話は続いた。
しかし……
電話が鳴った。
携帯ではなく、店の固定電話だった。
時刻は午後10時を回っていた。洋子さんは電話に出て、
「はい、ポル・ファボールでございます」
そのとたん、洋子さんの表情がこわばった。
「……礼治さん?」
え?
「ええ、お久しぶり……どうしたの?」
まさか……
「美鈴が? そんな……!」
電話の相手は木下名人らしかった。いったい何があったのだろう。
「行方不明ってどういうこと? あなた、今どこにいるの?」
どうやら尋常ではない事態のようだ。
(つづく)