トロのエンジョイ! チャレンジライフ

「人生で重要なことはたった3つ。どれだけ愛したか。どれだけ優しかったか。どれだけ手放したか」ブッダ

連載小説「あなたの騎士(ナイト)になりたい」最終回

2018-06-22 19:00:44 | 小説・あなたの騎士(ナイト)になりたい
「井上さーん」
 僕を見つけた梓が、遠くから手を振った。芽衣が調べていたとおり、僕は梓とたびたび会うようになっていた。
 梓は、今は受験勉強の真っ最中だ。それで、勉強を見てやったり、進路の相談に乗ったりしている。まあ、要するに付き合っているわけだが、本当に男女の仲になってしまうと、僕は犯罪者に、梓は学校を退学になりかねないので、会うのは昼間だけ、それも勉強に支障がないように、と決めている。
「お姉ちゃんたちに会ってきたんですね」
「うん、元気そうだった。快く取材を受けてくれて助かったよ」
 梓は真面目で、挨拶や敬語もしっかりしていて、姉の美鈴とは対称的だ。そのぶんガードが固いというか、なかなか心を開かないところがあったが、僕のような節操のない男には、それくらいがちょうどいいのかもしれない。
 僕らは公園のベンチに座った。
「今日は井上さんに相談があって」
 梓が切り出してきた。
「……なんだい?」
 僕はほんの少し不安を感じていた。最近の梓の様子から、なにか悩み事でもあるのだろうか、と思ってはいたのだ。
「あたし、臨床心理士になりたかったんですけど……」
「そう言ってたね」
「別の選択肢もあるんじゃないかと思って」
「……そうかい?」
「つまり、あたしは、誰かの役に立てる仕事をしたいんですが、それと、臨床心理士になることとは、必ずしも一致しないんじゃないかって、思うようになったんです」
「……」
 梓の言うことには、思い当たるところがあった。
 臨床心理士になることは、簡単ではない。心理学全般のエキスパートとも言える職業であり、エリートである。しかし、エリートであるがゆえに、彼らの多くは「臨床」の心理士ではなくなっている。それは僕も大学で心理学専攻だったから、よくわかる。
 彼らに人助けの意志がないという意味ではない。臨床とつく以上、実際の彼らの仕事は、接客業といっていい。しかし、彼らは接客がやりたくて臨床心理士を目指したのではない。彼らは学者でもあるのだ。
 そのあたりのギャップに悩み、辞めてしまう者もいると聞いた。職場を辞めるのではなく、資格そのものを失効させてしまうのだ。
 つまり、人助けのためなら、必ずしも臨床心理士でなくてもいい、という梓の気持ちはよくわかる。彼女はまだ大学にすら入っていないが、これから学問の道を進むにつれ、その気持ちはよけい強まっていくかもしれない。
「……そうだね」
 生返事みたいな答え方しか出来ない自分が情けないが、これはとても難しい問題だ。梓は自分ひとりで、そんなことを考えられるようになるほど、成長した。
 そして、梓の僕への気持ちが、微妙に変化してきていることを、僕は感じていた。

「……そりゃ、どういう事かな?」
 昼休みの、職場の屋上にて。僕は先輩の坂口さんに、相談を持ちかけた。
「梓が以前のように、僕のことを頼れる存在だと見てくれているのかどうか……」
 坂口さんはふーっと煙を吹き出すと、
「そりゃ、キミのほうが自信がなくなってきたんじゃないの?」
「……それも、あるかもです」
「若い恋は移ろいやすいものではあるけどね、あんまり頭の中ばっかりで考えるのはやめた方がいいよ」
「……」
「恋はチェスとは違うんだからね、頭の中だけでするものではない」
「そうですか?」
「梓ちゃんはキミのこと、好きなんだろ?」
「そう信じたいです……」
「だったらキミはそれに応えてあげなくちゃね。キミも梓ちゃんのことが好きなら」
「……」
「なんか煮え切らないな。梓ちゃんの気持ちが変わったなら、もう一度変え直せばいい。それぐらいの強さというか、図々しさがなくてどうする」
 坂口さんはやや強い調子で、僕の肩を叩いた。
 さすが、人生の先輩だ。チェスは僕よりヘボなのだが。
「いっそのこと、子供つくっちゃうかい?」
「……冗談きついっすよ」

 アパートに帰り、僕は梓に電話した。

「おやすみなさい、井上さん」
「ああ、おやすみ」
 いつもの会話。電話を切った後、今日も言えなかったな、と、僕は自分自身に歯がゆい思いを抱く。
 いつか、僕の気持ちを伝えよう。

 あなたの騎士(ナイト)になりたい。
 坂口さんは、恋はチェスとは違う、と言った。
 でも僕は、盤面を縦横無尽に飛び回り、クイーンを守護する、あのナイトのような存在になりたい。
 いつまでも、ずっと……

 頼りない僕だけど、それは正直な気持ちだった。



(完)



最後までお読みいただき、ありがとうございました! 拙作ではありますが、最高に楽しい連載でした。
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

連載小説「あなたの騎士(ナイト)になりたい」第14回

2018-06-21 19:04:34 | 小説・あなたの騎士(ナイト)になりたい
 やがて、日が陰ってきた。
「今日はありがとう」
 すっかり長居してしまい、僕は美鈴に礼を言った。
「どういたしまして。あたしも楽しかったし」
「変なこと訊くけど、これからのプランは何かあるのかい」
「んー、仕事とか? しばらくは何もしないで、2人の時間を楽しもうって決めたの」
「そうか」
「いよいよ食いっぱぐれたら、お母さんの店で雇ってもらおうかな」
 美鈴は冗談めかして言った。
 今までの2人の収入を考えると、当分は仕事をしなくても、生活が成り立つだけの余裕はあるだろう。
 芽衣とラルフが、向こうの部屋で何やら話し込んでいた。すっかり打ち解けたようだ。
「井上さんと、芽衣さんって、付き合ってるの?」
 美鈴が訊いてきた。
「はは……昔ね」

 帰りの新幹線の中で……
「マサヒロ、今日はどうもありがとう」
 芽衣が言った。
「いやいや」
「すっかり遅くなっちゃった。旦那に連絡しとかないと」
 ……ダンナ?

 結婚してたのか……。

「はいこれ」
 別れ際に、芽衣は名刺をくれた。

 友談社『ウィズダム』編集部 小池芽衣

「なにかあったら、いつでも会社に訪ねてきてね」
「ああ」
「それじゃ、マサヒロ」
 芽衣は夜の街並みを、歩いていった。
 僕は複雑な気持ちのまま、帰宅の途についた。

 スナック『ポル・ファボール』にて。
「美鈴とラルフのところへ? わざわざすいません」
 洋子さんが言った。
「2人で暮らすって言い出したとき、私、反対はしたんですけどね。でも、言い出したらきかない子ですから……」
「まあ、あの2人なら大丈夫ですよ」
 僕は水割りのグラスをあおった。
「ところで葵さん」
「はあい?」
 隣で飲んでいた葵さんが、とろんとした表情で答えた。
「賢一くんはどうしてるんです?」
「ああ、あの子、もう12歳だからね。親なんて留守のほうが喜んでるわよ」
 そんなもんだろうか?
「それよりさ、ラルフか美鈴ちゃんに、チェス愛好会の名誉顧問になってほしいなあ」
「あの2人じゃ、ケタが違いすぎますよ」
「だから名誉顧問だってば。会報誌にほんのちょっと寄稿してくれればいいんだけど」
 頑張りすぎない、というか、いい意味の放任主義で、賢一くんは健全に、たくましく成長しているようだ。結局のところ、子供がどうなるかは、親の人格しだいなのだな、と僕は思う。

 それから1週間後、雑誌『ウィズダム』に、「チェスと私」という小さな記事が載った。
 元世界チャンピオンのラルフへのインタビューを簡単にまとめたもので、記事の最後に、担当者の名前として「小池」とあった。
 控えめな報道だったが、日本でのチェスへの関心度を考えると、まあこれくらいが適当なのだろう。「チェス・エイリアン」と呼ばれた美鈴のことも、世間はいずれ忘れる。そのほうが、あの2人にとってもいいのではないか。
 約束どおり節度ある記事を書いてくれた芽衣に、僕は感謝した。



(つづく)


コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

連載小説「あなたの騎士(ナイト)になりたい」第13回

2018-06-20 19:43:24 | 小説・あなたの騎士(ナイト)になりたい
「はじめまして」
 僕と芽衣は、応接間に通された。ラルフと美鈴が向かいに座った。
「ミスター・ガーラント……」
 芽衣は流暢な英語で、まずラルフに話しかけたが、
「日本語でだいじょうぶです」
 ラルフは手を振って、人なつこい笑みを見せた。
「あなたが知りたいことは、わたしたちが、なぜチェスをやめてしまったかということですね」
 芽衣は眼を丸くして、
「日本語、お上手なんですね。ええ、そうです」
 ラルフは傍らの美鈴を振り返ると、
「2人で話し合って決めたのです。ただ、わたしたちはチェスが嫌いになったわけではありません」
 ラルフが話し始めると、美鈴は席を立った。台所と思われる方から、物音が聞こえてきた。お茶でも淹れてくれるつもりなのだろう。
「チェスは素晴らしいコミュニケーション・ツールであり、単なるゲームを超えたものです。その道を求める者にとっては、学問でさえあります。その考えは変わっていません。わたしも、ミスズもです。ただ……」
 ラルフはいったん言葉を切った。
「なんと言うべきか……他のマスターたちとは、別な道を行こうと、わたしたちは決心したのです」
「それは、どういうことでしょう?」
「チェスは、勝負でもあります。いえチェスに限らず、日本のショウギや、イゴ、ジャンケンですらそうですが、誰かが勝てば誰かが負けます。それが当たり前だと思っていましたが……」
「……」
 芽衣は緊張した表情で、じっと聴き入っている。僕も、ラルフの口からこういうことを聞くのは初めてだ。
「わたしたちがそれに疑問を感じたのは、2人でオーストラリアに旅行したときでした。アボリジニの文化に触れる機会を、持つことができました」
 アボリジニ……オーストラリアの先住民か。
「彼らもゲームという文化を持ってはいます。でも、どちらかが勝ってどちらかが負けるということを好みません。いえ、そもそもそういう概念がない、とも言えます」
「……」
「勝負とは結局、文明の産物なのかもしれません。プレイヤーだったころのわたしは、勝つことがすべてでした。ミスズも、父親から、勝つ方法だけを教え込まれてきたのです。それを、わたしたちは捨てたのです。そして、わたしたちは今とても心穏やかです。誰にも勝たなくていいのだ、と思うとね。それに、ここはとてもいい環境です。銃もドラッグもない。わたしが生まれた街とは違いますね」
 さすがに、頂点を極めた人間の言うことには、重みがあった。
 美鈴が4人ぶんの紅茶を運んできた。いい香りが部屋を満たした。
「さあ、どうぞ」
 僕たち4人は、和やかで充実した時を過ごしたのだった。


(つづく)


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

連載小説「あなたの騎士(ナイト)になりたい」第12回

2018-06-19 19:04:23 | 小説・あなたの騎士(ナイト)になりたい
 やがて、約束の土曜日が来た。
 3年ぶりに会う芽衣は、だいぶ印象が変わっていた。
 長かった髪はショートになっていたし、以前、好んではいていた脚を見せつけるようなスカートではなく、グレーのタイトスカートに白のブラウスという、シンプルな服装だった。
 僕は、いつも会社へ着ていくものよりは、ちょっといい背広を着ていった。元カノとはいえビジネスで会うのだから、それが当然と思ったのだ。
「なんか固いわねえ。もっとラフな格好のほうが、あなたらしいのに」
「そんなことはいいから、本題に入ろう」
 芽衣は口を尖らせて、
「はいはい、つまんないの。久しぶりのデートなのに」
「何が訊きたいんだい?」
「まあその前に、なにか注文しましょうよ。ここのお薦めはね……」
 手短に済ませたかったが、まあ、食事くらいはいいだろう。

「美鈴ちゃんとラルフは、どうしてチェスをやめちゃったのかしら」
 芽衣は世間話のような口調で言った。
「お前が知りたいのはそこだろうと、うすうす察してはいたけどね。残念ながら僕も知らないんだよ」
「そっか……他の雑誌社が取材を申し込んだけど、断られたっていう話だもんね」
「個人的に親しい僕からなら、なんとかなると思ったんだろうけど、あいにくだったな」
「なんとか聞き出せないかしら」
「まあ並大抵のことじゃないだろうな。あの2人の頭脳では、普通の人間が馬鹿に見えるのかもしれない」
 芽衣はミネラルウォーターを一口含んだ。
「あの2人、いま、一緒に暮らしてるの?」
「そうだよ」
「どこに住んでるの?」
「聞いてどうするんだよ」
「取材に行くわ」
「やめてくれないか、できれば」
「どうして?」
「あの2人は、どちらもあまり幸せな生い立ちとはいえない。チェスのためにあらゆるものを犠牲にしてきたんだから当然かもしれないが、そんな2人がようやく掴んだ幸せなんだ。そこへ土足で踏み込むようなことはしないでもらいたいんだ」
「……」
 芽衣は黙り込んでしまった。
「でも、まあ……」
 僕は言った。
「興味本位ではなく、ちゃんと人間どうしの礼儀をわきまえたうえで、話を聴きたいというなら、僕も協力しないこともない」
「取材ということは抜きで、ってこと?」
「そうだな」
「うーん……」
「出来ないのならあきらめるんだな」
 芽衣は考え込んでいたが、
「わかった」
「……うん?」
「あたし、2人に会いたい。仕事じゃなくて、個人的に」
 芽衣にしては珍しく、殊勝な態度を見せた。
 大人になった、ということか。

 芽衣と会ったその日の夜、僕は美鈴に電話をした。
「いいよー、受けるよ、取材」
 美鈴の答は、意外なほどあっけらかんとしていた。
「いいのかい。マスコミ嫌いかと思っていたけど」
「井上さんのお友達なら、信用できるよ」
 美鈴の性格からは、かつての跳ねっ返りの部分がなくなって、少々天然の入った気さくな少女になっていた。
 ろくすっぽ敬語が使えないのが、玉にキズだが。
「ところで、どうだい? 田舎暮らしは」
「うん、快適だよ。ちょっと退屈だけど」
「木下名人はどうしているんだい」
「ラルフがたびたび連絡とってるけど、ダメね。最近は、会いたくないなら会いたくないで、もういいやって」
「そうか」
 僕は苦笑した。
「じゃあ、取材オーケーってことで、伝えるよ」
「うん」

 僕は芽衣に連絡をとった。
「よかった。さすがマサヒロ」
「僕とお前の2人だけで訪問しよう」
「マサヒロがいれば、スムーズに話が進むわね」
「他の報道関係者には、内密に頼むぞ」
「わかってるって」

 そして、次の土曜日、僕と芽衣は新幹線に乗り込み、美鈴とラルフが住む山間の村へと向かった。
 無人駅に降り立ち、徒歩で2人の家に向かう。
「へえ、なんにもないところねー」
 芽衣が言った。都会育ちの彼女は確かに、少々場違いではあった。
 季節は晩秋で、やや肌寒い。空気が澄んでいるだけに、けっこう寒さが身に響くが、慣れれば心地よいかもしれない。少なくとも、都会のビルの谷間を吹き抜ける風の冷たさに比べれば、数段マシだろう。
 雪は降るのだろうか、と、豪雪地帯で生まれた僕は考えていた。
「ああ、あの家だ」
 梓にもらった地図を頼りに、僕らは2人の家にたどり着いた。


(つづく)



 
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

連載小説「あなたの騎士(ナイト)になりたい」第11回

2018-06-18 19:23:55 | 小説・あなたの騎士(ナイト)になりたい
「井上くん、電話だよ。友談社の人だって」
 友談社? どこかで聞いたような気もするが、思い当たらなかった。
「君に訊きたいことがあるって。なんか、女の人だよ」
 葵さんはそう言って、電話を回した。
 僕のデスクの電話が鳴る。いったい何だろう。
「お電話代わりました。井上です」
「マサヒロ……」
「は?」
「久しぶり、マサヒロ……」
「あの、どちら様です?」
「えー、マサヒロってば冷たいんだあ。あたしのこと、忘れちゃったの?」
 マサヒロ、って……僕のことをそう呼ぶのは、両親と、あとは……
 まさか……
「芽衣だよーん。元気だった?」
「なんでここがわかったんだよ!」
 思わず、大きな声が出ていた。
 どうして芽衣(めい)がここに電話してくるんだ? 頭が混乱してくる。
 葵さんをはじめ、みんなの訝るような視線を感じた。
「な、なんの用だい。いまは仕事中なんだよ」
「あたしもだよ、マサヒロ」
「もう関係ないはずだろ? お前とは」
 僕は声を思いっきり小さくして言った。
「あー、そーゆーこと言うんだ」
「とにかく用事を言えよ、用事を!」
「3年前、あなたに捨てられて、あたし泣いたんだからね。一晩中。目が腫れるくらい。おかげで次の日、仕事に遅刻しちゃったんだから。責任とってほしいわね」
「責任って……ちょ、ちょっと待てよ!」
「それなのにあなたは、あたしと別れてすぐに、職場の人と酔った勢いでエッチしちゃうなんて、サイテーだわ」
「なっ……」
 なんで知ってるんだ……?

 友談社とは、中堅どころの出版社だ。芽衣はそこに勤めていたのだ。
「チェス・エイリアンの鳴神美鈴のことを調べていたの。あなたと関係があることがわかったのでね……」
 最初からそう言えよ、まったく……。
「こんなことで、あなたと再会するとはねー、驚いちゃった」
 こっちこそだ。
「チェスの天才少女。グランドマスター級の実力を持ちながら、突如、現役引退を表明。もっと情報が集まれば、面白い記事が書けそうなのよ」
「あのな、悪いけどあんまり面白い情報はないぜ」
「えー、でも、友達なんでしょ?」
「そんなに頻繁には、会ってないからな」
「でも梓ちゃんとは会ってるんでしょ? 妹の」
 げっ、いったいどこから情報が漏れているんだ?
「2人のお母さんが経営してるスナック、ポル・ファボールっていうんだよね。スペイン語で、どうぞよろしく、って意味よね」
 そう言うと芽衣はけらけらと笑った。
 ほんと、昔のまんまだな……。
「近いうちにどこかで会えないかな? いろいろ、積もる話もあるし」
「え? そ、それは……」
「イヤなの? 元カノだから? どうせ気兼ねするような彼女もいないんでしょ?」
「うっ……」
 まずい。完全に芽衣のペースだ……。
「わかったわかった。会えばいいんだろ」
 ここでそっけなく拒否したりしたら、どんな情報を暴露されるか、わかったものではない。
「よかったー、すっごくおしゃれなイタリア料理のお店があるの」
「あのな、あくまで仕事で会うんだからな」
「はいはい。わかってるって。じゃあ今度の土曜日はどう?」
 結局、会う約束をしてしまった。
 電話を切ると、葵さんがニヤニヤしながらこっちを見ていた。
「なんか訳ありのようですなあ、井上氏?」
「そ、そんなんじゃないっす」

 美鈴が突然チェスをやめると言った理由は、いまだにわからない。
 それだけではない。美鈴の恋人、ラルフも、ほどなくしてチャンピオンの座を譲り、引退してしまったのだ。
 まだまだこれから、という頃だったのだが。
 おそらく芽衣も、そのへんの事を僕から聞き出そうとするつもりなのだろう。
 正直、あまり気は進まなかった。きっと2人でよくよく考えたすえ決めたことなのだろう。できることなら、そっとしておいてやりたい。
 しかし、あのマイペース女の芽衣と話していると、どうも調子が狂う。
 確かに、昔はそこが魅力的ではあったのだが。


(つづく)


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする