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小島教育研究所

教育関連ブログです。数学を筆頭に学問全般に渡る有用な情報を提供致します。
東海生、名高生、半高生に最も読まれています。

貴方は野菜を栽培したことはありますか。

2011-10-13 | 日記

このところ、色々なことを思い出します。年をとったのだろうか。

我が家には、野菜用の農地があった。歩いて10分ほどの山の中腹で多種類の野菜を栽培した。

思い出すだけで、以下の野菜を作った。

トマト、きゅうり、白菜、大根、ジャガイモ、えんどう豆、大豆、ほうれん草、人参、スイカ、メロン、イチゴ、かぼちゃ、サツマイモ、落花生

ソラマメ、インゲン、とうもろこし、小松菜、キャベツ、ねぎ,なすび等。

種をまくもの、種芋をつくるもの、手入れも様々で、今でいう有機農法を実践していた。

この畑仕事を任されるようになったのは、小学校の5年生から中学校の2年生までだった。

朝夕の水遣り、肥料の散布と毎日けっこう忙しかった。収穫は一家が食べるには豊富すぎて、ご近所やら親戚の家やらにお配りすることが多かった。

畑仕事をやって、身につけたことは、野菜の日々の生長をじっくり観察する能力だった。肥料は多すぎても、少なすぎてもいけないこと。種を密集してまかないこと。害虫はすぐに取り除く事など、多くの学びがあった。

以上の体験は後年の教師としての仕事に多少なりと役立ったように思う。

どんな野菜でも、草花でおよいので、貴方も植物を育ててみては如何でしょうか。

 

 


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なぜに貴方は京都に行くの? 「たきじー」と「たち吉」

2011-10-12 | 日記

あなたは京都が好きですか。物心がついたころ、気が付くと父に連れられて京都に行くことが多かった。記憶にあるのは、京都駅につくとお迎えの車が待っていて、「立ち吉」に必ず立ち寄った。番頭さんが案内をしてくださって、数々の陶磁器を見せていただいた。モダンな陶磁器と、伝統的な陶磁器(唐津焼、志野、織部)を拝見した。見学が終わると、茶室に招待されお抹茶をいただくのが大抵のお決まりコースだった。昼食をいただき、その後はまたタクシーで京都の親戚に立ち寄ることが多かった。

いつもではないが、そこには私が「たきじー」と呼んでいた、お爺さんか来ていた。優しいおじいさんで、自宅にいる祖父と同じくらいに好きだった。またそこには、自分同い年の女の子がいて、遊びには事欠かなかった。

その「たきじー」と気安く呼んでいたお爺さんの名前を、日本史の教科書で発見したときは、その場で、飛び上がるほど驚いた。

滝川事件の当事者、元京都大学総長の法学者、滝川幸辰(タキグァユキトキ)が「たきじー」だったのだ。

滝川幸辰氏の蔵書(約18,000冊)は、現在名古屋大学法学部に寄贈されている。

 


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核融合研究所と土岐プレミアムアウトレット。

2011-10-11 | 日記

筆者が小学校にまだ通っていた頃、よく自宅に政治家の先生方が出入りしていた。選挙のときばかりか、常日頃から頻繁に顔を見た記憶である。あるとき、父から「あの丘陵地帯にサファリパークが出来たとしたら、どう思う?」と質問された。「このあたりは冬、結構寒いから、南方の暖かい地域に生息する動物にとっては、つらいだろうな。また、もし寅やライオンなどの猛禽類が逃げ出したら、周辺住民が大変なことになる。」と答えた記憶がある。時を隔てて、大学生の頃また同じ質問を受けた。「出来れば国の研究所とか、文化施設とか、何がしか文化の香りのする施設の誘致かな?」とそのとき答えた。社会人となってしばらくすると、そこは文部科学省管轄の核融合研究所となった。全施設棟、60前後、東京ドーム50個分の敷地を擁する研究所。国内の核融合研究の共同利用施設である。名古屋大学のプラズマ研究所を中核に国立大学理学系の研究員が約1,000人集っている。核融合炉はヘリカル型である。初代所長は慶應工学部機械科出身で、後に京都大学理学部教授となられた飯吉先生だった。

さらに、時代は下り、研究所の近隣に、土岐プレミアムアウトレットが出来、中部地区各地より、来場者は耐えない。高速道路(東海環状)も整備され、土岐南インターを出れば、5分以内に両施設に到着する。

上沼美恵子流の大風呂敷にならえば、「核融合研究所も土岐プレミアムアウトレットも私、マリオのうちの庭を貸しているんです。」となるが、ここまで言うと、誰も信じませんね。貴方は、信じますか?

 


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スティーブ・ジョブス氏(アップルコンピュータ)死去。

2011-10-07 | コンピュータよもやま話

サンフランシスコ国際空港から車で50分ほどのことろに、パロアルトは位置する。そう、シリコンバレーの真っ只中にアップル本社はある。抜けるような青さが印象的いなパロアルト。ハイテク産業が密集する地域だ。

以前に、のブログに記載したアップルコンピュータ創業者のスティーブ・ジョブス氏が10月5日死去した。

心より、哀悼の意をささげます。

人間にとっての便利さ、快適さを終生にわたり探求し続けたスティーブ・ジョブス氏。以前は日本語で、スティーブン・ジョブスと表記されたが、最近は、スティーブ・ジョブスと表記される。すい臓がんのための死去とされる。

彼の非凡なところは、そのプレゼンテーションである。商品を企画立案し、製品化。更にその発表から出荷までを常に鳥瞰する鷹の目を持っていたことだ。どこまでも妥協を許さず、とことん考え抜いた商品群に、彼の非凡さがそのまま現れている。

マックはゲームソフトも豊富であった。作者は忘れてしまったが、筆者が「これには参った。」とうならせるソフトがあった。内容は、いたって単純な、スマートボール。といって、具体的なイメージがわかぬ人には、次の説明が分かりやすい。よく温泉などに行くと、ゲームコーナーにある遊具で、パチンコ台を大きくして、斜めにしたもの。お金を投入すると、白球が何個か出てくる。そして、スロットでボールを打ち出し、後は左右のボタンで、ボールを上方に打ち返す。打ち返すたびに得点が加算されるという、いたって単純なゲーム。しかし、そのソフトのすごいところは、打ち返す部分が部品化されており、ゲームの開始時に、マウスで設定できる。つまり自分専用のスマートボールができるというものであった。これに度肝を抜かれた。

また、マック用に新たに開発されえたのが、キャノンのレーザー・ライターだった。これは世界初のレーザープリンターであり、今日のレーザープリンターの始祖だった。マック+レーザーライターによりDTP(デスクトップパブリッシング)環境が整った。

マックは内部構造が非公開であり、日本語処理もままならなかったが、一部熱狂的なファンにより、コトエリ、コトダマという日本語処理環境が整えられた。

日本のテイジン、キャノンの協力があり、すくすくとアップル社は成長した。

途中、自ら招聘したジョン・スカリー氏(元ペプシコCEO)により、アップル社を追放されたスティーブ。

NEXT社を創業し巻き返しを図るが、しばらく苦しいときを過ごす。

アップル社の業績不振を前にして、創業会社に無給の役員として勤め、以後死に際するまで無給を通した。(正確には年収1ドル)

彼のような生き方は、だれも真似の出来ないものであり、彼が手がけた多くの製品と同じく、無双(むそう)のものであった。

第2、第3のスティーブが、今後も出現し、人類の能力伸長に、大いに役立って欲しいと思います。

 


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いよいよ10月に入り、センター試験、二次試験が近づいてきました。仕上がりをチェックする段階です。

2011-10-06 | X君へのアドバイス

一年が経つのは早いもので、今年も残すところあと3ヶ月。現役諸君もそして浪人生諸君もこれからが剣が峰。後悔ることの無いように、今一度、基礎の点検をしてください。

センター試験はあくまでも基礎力の確認が主体です。ここでのほころびは、二次試験で失態を招きます。模試などで二次試験の成績が今一歩伸びない人の大半が、基礎力における欠陥です。

物理、科学にしろ、生物にしろ、簡単な分数計算においても差がつきます。一気に掛け算をするのではなく、必ず約分を全ての計算に先立ち、実行してください。京都大学二次試験(化学)以外は、すべて定数が上手に設定されており、約分が楽にできるように問題が作成してあります。また有効数字の考えも、今一度確認して置いてください。

大学入試で成功するには、センター試験で高得点をあげ、先行逃げ切り、これにつきます。たとえ、二次試験重視型の大学であっても、二次試験との総合できまる入試の特性上、センター試験の1,2点が最後に利いてきます。(例えば、東大などでは、少数以下2桁の争いになることがあります。)

また、センター試験に気をとられて、二次試験の準備が疎かになってはいけません。

過去門研究は、早めに行ってください。実際に時間を設定して、自己採点してください。その際、採点が自分で出来ない(英文解釈、英作文)科目では、教科担当の先生にお願いして採点していただくことも、時に必要です。

また、自分では出来たと思っていても、数学の答案などでは、思はぬ減点をされることがありますので、答案点検を数学担当の先生にお願いすることも大切です。

つまり、センター試験が終われば、二次試験の対応をするのですが、二次試験では答案作成のチェックが重要なのです。

そして二次試験では、最高のパフォーマンスが出来るよう、戦略を練ることがより重要となります。

 


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涙のトッカータ(ポールモーリア)

2011-10-06 | 音楽の楽しみ

イージーリスニングで有名な、ポールモーリア楽団による「涙のトッカータ」は思い出の曲です。クラシカルギタークラブの定期演奏会において、定番の合奏曲でした。2年生以上の上級合奏曲でした。編曲は指揮者のS先輩が担当。3部合奏+コントラバスの構成で、原曲に忠実でありながら、ギターの特性をうまく引き出した名編曲だと思いました。当時、楽譜は市販されておらず、すべてレコードコピーしたものを記譜し、その上での編曲でした。原曲では、トリルが入っていても、ギターでやるとイヤミに聞こえる箇所は、はずしてありました。

年に一度の定期演奏会の定番かつアンコール曲であった「涙のトッカータ」。是非貴方も、一度お聴きください。

なお、司会をしてくださったのは、短波放送アナウンサーの大橋照子アナウンサーでした。現役時代から、そしてアナウンサーとなっても、司会をしてくださいました。彼女もKCGC(慶應義塾大学クラシカルギタークラブ)のOGでした。

今年も定期演奏会が12月10日に予定されています。ご都合の付く方は入場無料ですので、一度定期演奏会にお越しください。

詳細は、インターネット「慶應義塾大学クラシカルギタークラブ」で検索ください。

 


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各人のキャリアパスについて。(私の場合)

2011-10-05 | 進路について

将来の職業について、どの段階で決定するかについては、各人各様です。大雑把に自分を振り返ってみると、以下の通りです。

1.小学校のころ、医者に命を救っていただいたという意識がとても強く、卒業文集には「自分の夢として、医者になること。」を記載している。

2.中学生の頃、美術、数学、理科が得意で、中学3年卒業時には、建築家になることを第一希望としていた。

3.高校2年生で物理、数学のいづれかの研究者になろうとしていた。量子力学を調べると、これは全く数学ではないかと判断し、数学の学習を重点的に行うことにした。また、高校2年生の担任(英語担当)は1年間を当して、大学の各学部の学習内容から卒業後の進路までを毎ホームルームの時間ごとに分厚い資料を生徒に配布し、事細かに解説してくださった。その配布資料は、前年度の慶應義塾大学の学部紹介から、卒業後の具体的な具体的な進路が克明に記載されていた。なぜ慶應なのかとの質問に対し、担任は「どこの大学でもよかったのだが、日本を代表する大学の中で、就職状況の良い慶應義塾大学を選んだ。」と返答していた。

 そのガイダンスが効を奏してか、クラス45名中、二人が慶應義塾大学に進学した。(理系1名、文系1名。もちろん理系はこの私です。)

4.慶應義塾大学に入学。当時は現在のように学門に分かれておらず、初めの2年間は教養の2年であり、3年次から所属学科に配属しされた。5つあった学科のうち選んだのは数理工学科であった。2年次の夏休み後に、希望学科調査が行われ、第1希望から第3希望まで記入した。定員40名に対して、若干増の人数であったが、第一希望の数理工学科に入れた。ここで数学とコンピュータを徹底的に鍛えられ、4年次からは、数学コースとコンピュータコースの二つに分かれて研究室に配属された。この研究室への配属は、学生のの希望が最優先されるが、希望者多数の場合、研究室の指導教官から、条件がしめされた。私の希望したK教授は15名の学生が第一希望とした。K教授の出された条件は3年次の実解析の後期試験の出来と、1対1の口頭試問の二つを選考基準とし、定員は2名とするという、かなりきつめの条件でした。実解析の後期試験は2問のみ証明問題。ほぼ完璧な答案を書き上げ、口頭試問に臨んだ。口頭試問は実解析の後期試験に関連する内容の質問であったが、その場である不等式の証明ができるか。その評価の基準は何か、についての質問であった。無事口頭試問も終わり、結果は合格だった。

数学の研究者、教員になる目標のため、教職課程を履修し、4年次の5月に2週間の予定で教育実習を受ける。実習校は日吉の慶應高校だった。2年生に配属され、指導教官は普通部部長(慶應義塾普通部)のY先生だった。蛇足であるが、Y先生は後に東京理科大学の教授となられた。

2週間の実習予定が、結局3週間強の実習となった。このとき、数学の教師になろうと決意した。

 

 


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わが指のオーケストラ。(高橋 潔の生涯 山本おさむ 秋田書店)

2011-10-04 | 日記

聴覚障害者教育で適正教育を提唱した、高橋潔の半生を描いた劇画である「わが指のオーケストラ」を最近拝見しました。全4巻の内、2巻を拝読しました。

手話を否定して、口話法のみを使おうとした時期もありましたが、現在では手話を否定的に捕らえる人は、少なくなってきました。

私の友人に聴覚障害者(片耳が難聴)がいます。それと気付かないと、聞きづらいことがあったと思います。あるときそのことに気付いた私は、それ以降彼と話すときはいつも彼の右側に立つようにしました。

最近は、人口内耳の発達、デジタル補聴器の長足の進歩があげられますが、音が聞こえれば、はい、おしまいにはならないところに、聴覚障害者教育の難しさがあります。

新生児スクリーニング検査を実施すると、新生児の約0.1~0.2%には聴覚に何らか欠陥をもって生まれてくるという。

その発見が早く、その後の療育が重視されてきて、聴覚障害者教育のありようも劇的な変化を遂げつつあります。

現在たとえ健聴であっても、加齢によて、聴力が落ちることは十分に考えられます。

明日はわが身、と常に危機感を持って暮らしたいと思う。

 


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