MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

ダイヤの女王も黒?

2010-07-22 00:00:00 | 私の室内楽仲間たち

07/22 私の音楽仲間 (188) ~ 私の室内楽仲間たち (168)




            (ャ)ィコーフスキィ

      弦楽六重奏曲 "Souvenir de Florence"




   この集いは、すでに何度かお読みいただいているグループです。

         これまでの 『私の室内楽仲間たち』




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               ① 見えない六重奏
               ② 交響的な六重奏曲
               ③ ダイヤの女王も黒?
               ④ "6" の魔力
               ⑤ 血を吐く苦しみ
               ⑥ 作曲者にも慰めを…
               ⑦ 劇場と激情の間
               ⑧ 信頼の結実
               ⑨ 理性と魂
               ⑩ フィレンツェの密会?
               ⑪ ウクライナの邂逅
               ⑫ 鋭敏な魂
               ⑬ 躍動と沈潜
               ⑭ 大船に乗った気分で




 1886年、サンクト ペチェルブルク室内楽協会の名誉会員
に選ばれる。

 1887年、返礼として弦楽六重奏曲を計画したものの、作曲
はほとんど進まず。



 1890年1月、慌ただしいモスクヴァを避けてフィレンツェ
に滞在、歌劇『スペードの女王』の作曲に没頭。 その傍ら
六重奏曲の構想を練る。

 1890年6月、『スペードの女王』のオーケストレーションを
終えてロシアに戻り、本格的に六重奏曲に着手。 順調に
筆を進め、夏の休暇中にほぼ完成

 1890年9月、内輪での演奏を聴き、引き続き修正が必要
と判断。

 1890年10月、財政的支援を続けてくれていたフォン・メック
夫人
から、絶交年金の打ち切りを通告される。 この曲の
作曲はまたしても中断。

 1890年12月19日、ペチェルブルクのマリーンスキィ劇場で
『スペードの女王』初演



 1891年末~1892年初頭、六重奏曲の改訂を行う。

 1892年12月、ペチェルブルク室内楽協会で初演、同協会に
献呈される。



 1893年11月6日 (当時のユリウス暦では10月25日)、53歳で死去




 以上は、この六重奏曲が作られた間の事情を、年表風に
纏めたものです。 ご覧のとおり、作曲は必ずしも順調では
なかったことが窺えます。



 とりわけ衝撃的なのは、十数年に亘って多額の援助を
続けてくれたパトロンの夫人から、突如として断絶を通告
されたことです。 彼にとっては、まさに "寝耳に水"…。
そのショックは如何ばかりだったでしょう。

 一説では、この曲を「彼女に献呈しよう」と考えていた時期
もあったといいます。




 この事件が起きたのは、六重奏曲がほとんど出来あがって
からのことでした。 しかし、「今日伝わる曲の内容と、事件と
が、まったく無関係だ」とも言い切れません。

 現に彼は、その後の改訂にも慎重に時間を費やしており、
「曲の構成そのものが変わってしまった」可能性さえ捨て
切れません。

 ましてやハーモニーや強弱記号など、音響そのものに直結
する部分の変更は、おそらく多岐に亘ったことでしょう。



 ナヂェ―ジダ・フォン・メック夫人がこの曲に影を落として
いるとすれば、それは一体どのような部分なのでしょうか?




 なお、歌劇『スペードの女王』には、"近衛士官のゲルマン" と
"伯爵夫人" という人物が登場します。 ゲルマンは最後に破滅
してしまうのですが、それは、考えようによっては "伯爵夫人の
復讐" なのです。



 実は私には、作曲家とパトロン夫人がこの主人公たちに
ダブってしまい、何とも皮肉な思いなのです。 自身の歌劇
の初演を、一体どんな気分で聴いたのでしょうか?

 彼に落ち度は無いようなのですが…。




 私には、もう一つ気になる点があります。 それはペチェル
ブルク室内楽協会との関連です。




 この曲が成立する最初のきっかけとなったのは、室内楽協会
へ返礼が必要になったことです。 したがって献呈される曲目は、
当然 "室内楽" でなくてはなりません。



 しかしそれは、作曲家にとっては "外的な要因" です。 ひょっと
すると、「室内楽を作らにゃいかんのか…。 今はそんな気分にゃ
なれないんだがな…」というのが、名誉会員に推された1886年の
時点での、偽らざる実感だったかもしれません。

 特に "室内楽の典型" とも言える弦楽重奏曲の分野では、
最後の第3番変ホ短調 (完成、初演1876年) 以来、10年間も
遠ざかっています。 「これを機に四重奏曲の世界に戻ろう」
という選択もあったはずですが、そうはなりませんでした。




 彼はなぜ最終的に重奏を選んだのでしょうか。 その原因
を一概に断定することは出来ませんが、ここではまず二点だけ
推測しつつ、挙げてみたいと思います。



 まず、「6は便利な数」であること。

 もう一つは、「音の数が多い」ということです。



 そんなこと、当たり前ですよね…? それが一体
何だというのでしょうか。




  (続く)




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       (2) ピョートル君の青りんご ~ 弦楽セレナーデ
       (3) 青りんごのタネ ~ 交響曲第1番、第2番





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