MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

ウクライナの邂逅

2010-10-17 00:00:00 | 私の室内楽仲間たち

10/17 私の音楽仲間 (221) ~ 私の室内楽仲間たち (195)

             ウクライナの邂逅




   この集いは、すでに何度かお読みいただいているグループです。

         これまでの 『私の室内楽仲間たち』



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               ④ "6" の魔力
               ⑤ 血を吐く苦しみ
               ⑥ 作曲者にも慰めを…
               ⑦ 劇場と激情の間
               ⑧ 信頼の結実
               ⑨ 理性と魂
               ⑩ フィレンツェの密会?
               ⑪ ウクライナの邂逅
               ⑫ 鋭敏な魂
               ⑬ 躍動と沈潜
               ⑭ 大船に乗った気分で




     親愛なる友よ、あなたは

          私たちが出会ったことを

               詫びていらっしゃいます。

         けれども私はこの偶然の出会いに

              天にものぼる気もちでおります。



              (『音楽家の恋文』、クルト・バーレン著、
                    池内紀訳、1996年西村書店
)




 1879年8月8日、39歳の(ャ)ィコーフスキィは、ブラーィロフ
の駅に降り立ちました。



 ブラーィロフ (Браїлів)ウクライナ中央部に位置し、
現在は人口 6,300という農村です。 村の中にはシマキと
いう小さな集落があり、その別荘に滞在する予定でした。

 手配してくれたのは、すべてフォン・メック夫人です。



 ブラーィロフには、少し離れたところに夫人の豪華な別荘が
あり、これまでにも何度か滞在したことがあります。

 と言ってもそれは、夫人がそこに居合わせないときに限って
のことでした。 二人の間には、「生涯顔を合わせない」という
約束があったからです。




 初めて招待を受けたのは前年のことです。 ニ―ナとの離婚
騒動がまだ尾を引いていましたが、弟モヂェーストや、フォン・
メック夫人の力添えもあり、何とか治まった直後のことでした。
傷心の彼に、別荘での療養を薦めてくれたのも夫人です。



 その恩恵の地が、このブラ―ィロフです。 別荘にはピアノも
書庫も完備しており、彼にとってはまたとない環境でした。

 このときに生まれた美しい作品が、Violin と Piano のための
"Souvenir d'un lieu cher"、『なつかしい土地の思い出』です。




 ところで、夫人の夫はロシアの大鉄道王。 ブラ―ィロフには
1871年に、すでにキ―ェフから鉄道が開通していました。

 大富豪の夫が亡くなったのは、1876年のことです。 音楽を
愛して止まない、当時45歳の夫人を慰めてくれたのは、彼女
の屋敷でニコライ・ルビンスタインが弾いた、あるピアノ曲。
それが、36歳のチ(ャ)ィコーフスキィの作品だったのです。



 夫人が資金援助を控えめに申し出たのは、その年の12月。
こうして二人の1,400通を越える文通が始まりました。




 ところで、今回シマキの別荘に落ち着いた作曲家は、ただ
静養に来たのではありません。 歌劇『オルレアンの少女
(ジャンヌ・ダルク)』のオーケストレーションが、"あともう少しで
完成" という段階だったのです。



 数日後、夫人から手紙が届きました。 別荘への招待です。
「自分の家族に逢ってやってほしい、もちろん自分は不在だ」
とのことです。

 これまでにも、"留守中の招待" は何度もありました。 それ
どころか、モスクヴァの大邸宅へ招かれ、自由に寝泊まりした
ことさえあります。

 それに、6歳になる末娘のミロ―チュカとは、大の仲良し!
今回の招待を断る理由など、何もありません。




 それは1879年8月26日のことでした。 別荘に到着して馬車
を降り、美しい庭を歩いているときのことです。

 すぐそこに、6歳の少女が見えました。

 「ピョートル・イリイ―チのおじちゃん!」

 「やあ、ミロ―チュカ! 元気かい!?」



 ところが、そのすぐ隣りに、もう一人女性が。 それは紛れも
無く、フォン・メック夫人その人だったのです。

 それはほんの数秒間のこと。 言葉を交わすことはなかった
ようです。



 夫人の顔を、彼が知っていたのか? 大鉄道王の未亡人
ですから、新聞に写真が載ることも珍しくなかったでしょう。

 一方、彼も有名人。 それに夫人の方では、彼の写真を
撮って送るように、何度か依頼しています。

 状況からしても、互いに分ったことは間違い無いでしょう。




 シマキの滞在先に戻ると、彼はすぐ詫びの手紙を書きます。
夫人宅の到着時間が、予定より遅れてしまったからです。

 「本当に申し訳ありません。 時間を間違えてお宅に向かって
しまいました…。 (1879年8月26日 午後8時)」



 そして、これに対する夫人の返事が、冒頭の文章でした。
「8月29日 木曜日、ブラ―ィロフにて」と記された手紙が、
今日現存していると言われます。




 これは運命の悪戯だったのでしょうか? 作曲家の方は、
かなりショックを受けてしまったようです。 少なくとも、「彼が
計画的に遅刻をした」とは、私には想像できませんし。



 そのためかどうかは解りませんが、彼は翌々日にシマキを
発ち、ペチェルブルクへ向かってしまいます。 やるべき仕事
が、すでに済んだからでしょうか?

 『オルレアンの少女』のオーケストレーションは、確かに無事
に終わっていました。 でもその他にも、「こまごました作業が
たくさん残っている」と、作曲家自身が記しているのですが…。




 以上は、ウクライナでの出来事でした。



 ところが、これと同じようなことが、一度すでに
起きていたというのです。

 フィレンツェで。 おそらく前年の1878年に。



 (情景の細かい描写はフィクションです。)



  (続く)




"Souvenir d'un lieu cher" 『なつかしい土地の思い出』 音源ページ