05/25 私の音楽仲間 (267) ~ 私の室内楽仲間たち (241)
61歳の試練
これまでの 『私の室内楽仲間たち』
『ラズモーフスキィ』第1番
素通りする音
音楽すきィ伯爵
誰が縁結び?
厳しさと重圧
涙する長調
無骨さなら任せて…
61歳の試練
半拍の差
読者も踊る
忠ならんと欲すれば
ここにもロシア
悲しみよ こんにちは
ロシアと張り合う Beethoven
音の濃淡とアンサンブル
謎の美女 出現
規律違反の癒し?
美女の素姓?
喪服の美女
[音源ページ ①] [音源ページ ②]
ご存じのとおり、ラズモーフスキィ伯爵はロシア帝国の
大使。 ヴィーンに駐在し、政治家として実績を上げた
だけでなく、美術、音楽など、芸術の保護者として、大変
功績が大きかった人物です。
そのイメージからすると、いかめしい、辣腕の人間像を、
私などは想像してしまいます。 しかし [Wikipedia]に
見られるこの肖像画からは、むしろ柔和な印象を受けま
せんか。 その眼差しは、虚ろと言わないまでも、どこか
寂しげにさえ見えます。

これは市の美術史博物館に収蔵されているものだそう
です。 伯爵は以後、終生ヴィーンに住み続けたと伝えら
れますが、この肖像はいつの年代のものなのでしょうか?
残念ながら、私の手元の資料からは不明ですが、とても
気になるのです。
どなたかご存知の方がおられたら、ぜひご教示くださる
よう、お願いいたします。
こちらの画像の方が、ずっと元気に見えます。

今回ご紹介するのは、[Mad about Beethoven]
(『Beethoven に首ったけ』) というサイトです。
その中の[Beethoven's Patrons] というページ
には、興味深い一節がありました。 以下は、すべて
そのページからの転載です。
原文 (英語) は、このページ末にあります。
なお、以前ご紹介した [Andrey Razumovsky]にも、
一部同様の記述があります。
Beethoven との関連もあって、今日その名が広く伝え
られている、ラズモーフスキィ伯爵。 余生をヴィーンで
送った、その心境は、おそらく凡人の察する域を超える
ものだったのではないでしょうか。
[ラズモーフスキィ家]には、"アンドリー・ロズモーヴ
シクィイ" の名で記載があります。
また、「オーストリア・ロズモーヴシクィイ家の流れは
現在に至るまで絶えておらず、ロズモーヴシクィイの姓
を名乗る数人はオーストリアの美術・芸術界において
活躍している。」とも記述されています。
ラズモーフスキィ王子 (1752 - 1836)
ロシアの駐ヴィーン大使で、芸術の保護者としても、大きな
役割を果たしました。
1806年、Beethoven に作曲を依頼した3曲の弦楽四重奏
曲は、今日ラズモーフスキィ四重奏曲 作品59 として知られ
ています。
3曲のうち2曲に、Beethoven はロシアの主題を取り入れ、
この庇護者を喜ばせました。 第1番と第2番です。
ラズモーフスキィは巨額の金を投じて、新たに豪華な大使館
を建設しました。 すべて自費です。 場所は市の城壁の外で、
ドナウ河を見下ろす高台でした。
1814年を迎える大晦日に、彼は皇帝アレクサンドルを
主賓として招き、きらびやかな舞踏会を開催します。
これはヴィーン会議が成功裏に終わったのを祝うためで、
ラズモーフスキィ伯爵はこの功績により、王子に昇格する
ことになります。 これに先立って連合国は、ナポレオンを
ライプツィヒの戦いで敗退させていました。 舞踏会には
Beethoven も招かれましたが、出席はしていません。
ラズモーフスキィは賓客全員を収容するため、臨時に施設を
建設し、隣接する宮殿本館から、暖房用の熱風を通す配管を
引き込んでいました。
客がすべていなくなった深夜になって、この配管から火災が
発生し、火はまたたく間に宮殿本館に燃え移りました。
ラズモーフスキィ自身も、延焼を食い止めようと作業に加わり
ましたが、ほとんど為す術がありませんでした。 宮殿の部屋
は多数が壊滅し、同時に、ラズモーフスキィが収集した古典、
新古典派の彫刻作品も、多くが破壊されてしまいます。
火災と戦っているうちに、ラズモーフスキィは視力を損ない
ました。 さらに重大なことに、彼は精神を患ってしまったの
です。 暁の薄明かりのもと、かつて豪華な宮殿のあった
廃墟を、彷徨い歩く彼の姿が見られました。
彼は隠遁して、そのままヴィーンに住み続けます。 その
同じ場所には、今日も子孫が住んでおられます。 宮殿は
まだ建っていますが、かつての壮大な庭園は雑草に覆われ、
威容も失せ果てています。 1990年代後半には、国際海洋
研究所の本部となりましたが、宮殿は売りに出される寸前の
状態でした。
この稿の執筆以来、私はラズモーフスキィ王子の直系の
子孫、グレゴール・ラズモーフスキィ氏の知遇を得ました。
すると氏は、驚くべき情報を提供してくれたのです。
宮殿が火災に遭うと、アレクサンドル皇帝は「宮殿の再建
に尽力する」と口にしましたが、その約束は守られなかった
とか。 皇帝は実は、彼に強い憎しみを抱いており、「自分の
父パーヴェル皇帝の暗殺に、消極的ながら関与した」として、
ラズモーフスキィ王子に疑いの目を向けていたからです。
この情報の提供に対して、ラズモーフスキィ氏に深い感謝
を捧げるものです。
(拙訳)
関連記事 『師に誘われた人生の旅』
なお、古山和男著 『秘密諜報員ベートーヴェン』 には、
以下の記述があります。
「1814年、ベートーヴェンの後援者でロシアの外交官である
ラズモフスキーのウィーンの居館は猛火に包まれ、廃墟に
なった。 そのうえ本人も、スウェーデンのグスタフⅢ世暗殺
(1792年) と、ロシアのパーヴェルⅠ世の暗殺 (1801年) に
関わった嫌疑で爵位を剥奪され、家名は断絶した。」
(167~168ページ)
(ウィーン会議後) 「ウィーンでは、検閲と密告による言論の
取り締まりが特に厳しく、秘密警察による諜報、謀略、拉致、
暗殺までもが横行した。」
「自由主義者サロンの女主人であったエルデーディは、
ウィーンを追われ、国外を転々とした。 (中略) 本人も
犯罪の関与を追及された。 この時期の彼女の不幸は、
ラズモフスキーが10年以上前の暗殺の嫌疑を受けた
のと同様、秘密警察の謀略が疑われている。」
(179ページ)
[Mad about Beethoven]の、[Beethoven's Patrons]
から、以下は原文をそのまま転載したものです。
Prince Razumovsky (1752 - 1836)
Prince Razumovsky was Russian ambassador in Vienna, as well as great patron of the arts.
In 1806 he commissioned three String Quartets from Beethoven, known today as the Razumovsky Quartets, Opus 59.
In two of the three, numbers one and two, Beethoven incorporated Russian themes to please his patron.
Razumovsky spent a vast amount of money ? all from his own pocket ? on building a sumptuous new embassy outside the city wall on a rise overlooking the Danube.
On New Year's Eve 1814 he held a glittering ball there with Tsar Alexander as guest of honour.
This was to celebrate the successful conclusion of the Congress of Vienna ? for which the then Count Razumovsky was elevated to Prince ? following the allies’ defeat of Napoleon at the Battle of Leipzig. Beethoven, who was certainly invited, did not attend.
To accommodate all the guests, Razumovsky had had a temporary extension built onto the palace, heated from the main building by a flue.
Some time in the early hours of the morning - after all the guests had left - a fire started in the flue. It rapidly spread to the main house.
Razumovsky joined the efforts to stop the flames spreading. But little could be done. Many rooms in the palace were destroyed, along with the many classical and neo-classical sculptures Razumovsky had collected.
In fighting the fire Razumovsky's sight was damaged. More significantly his spirit was broken. He was found in the dim light of dawn wandering among the ruins of his once-splendid palace.
He continued to live in Vienna - in seclusion. His descendants live there today. His palace still stands, its once magnificent gardens overgrown and its grandeur faded. In the late 1990's it was the headquarters of the International Oceanographic Institute, which was about to put it up for sale.
Since writing this page, I have been contacted by Prince Razumovsky’s direct descendant, Gregor Razumovsky, who has provided me with the fascinating and intriguing information that after the palace fire, Tsar Alexander promised to contribute to the reconstruction of the palace. But he never kept his word since he had a strong hatred of Prince Razumovsky, suspecting him of having passively supporting the murder of his father, Tsar Paul. I am most grateful to Herr Razumovsky for providing me with this information.