MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

12月の記事 ~ 一覧

2008-12-31 05:05:33 | インポート

12/31




      今月の記事の一覧です。




 『今月の記事の一覧』は、毎月末日に掲載しています。




12/01 ピアノ曲集 『四季』 から  12月 『クリスマス』
           ~ チ(ャ)イコーフスキィ



12/02 Y君に逢えない


12/03 小惑星の名 (6)


12/04 忘年会のうぐいす (1) 夜啼きウグイス

12/05 忘年会のうぐいす (2) 目白のウグイ

12/06 忘年会のうぐいす (3) 夜の女王

12/07 忘年会のうぐいす (4) 梅にウグイス


12/08 さんま サンバ


12/09 滑舌 カツレツ … (1)


12/10 小惑星の名 (7)


12/12 カワホネを尋ねて (1) 犬も歩けば

12/13 カワホネを尋ねて (2) デパ地下

12/14 カワホネを尋ねて (3) 謎の犬

12/15 カワホネを尋ねて (4) 水の作ったすり鉢

12/16 カワホネを尋ねて (5) 最後の古地図

12/17 カワホネを尋ねて (6) 名曲の源泉

12/18 カワホネを尋ねて (7) 清流の復活


12/19 老人ホームで (1) 和気あいあい

12/20 老人ホームで (2) 笑顔は表現


12/21 コジ ファ フィガロ


12/22 頭の体操 (2) 漢字クイズ 問題 / 解答


12/23 ボッケリーニの五重奏曲


12/24 小惑星の名 (8)


12/25 シューベルトの五重奏曲


12/26 Lev の想い出 (1) Mozart のニ短調四重奏曲

12/27 Lev の想い出 (2) Brahms のピアノ四重奏曲

12/28 Lev の想い出 (3) Suppe: 「詩人と農夫」序曲

12/29 Lev の想い出 (4) Lev の 愛するチェロ、師弟

12/30 Lev の想い出 (5) Bloch の 「祈り、願いと歌」


12/31 今月の記事 一覧





Bloch の「祈り,願いと歌」~Levの想い出 (5)

2008-12-30 00:00:26 | その他の音楽記事

12/30     Levの "祈り" ~ Levの想い出 (5)




          これまでの 『その他の音楽記事』




    関連記事  Lev の想い出

   (1) Mozart のニ短調四重奏曲
   (2) Brahms のピアノ四重奏曲
   (3) Suppe: 「詩人と農夫」序曲
   (4) Lev の 愛するチェロ、師弟
   (5) Bloch の 「祈り、願いと歌」





 Levと同じユダヤ人の作曲家、Ernest Blochは、

ユダヤ人の生活から』という作品を残しています。


 チェロとピアノのために、アメリカの Cleveland で
1924年に作曲されたものです。




 曲は、『祈り (Andante Modarato)』、

     『嘆願 (Allegro non troppo)』、

     『ユダヤの歌 (Moderato)』

の三つの部分から成っており、Hans Kindler に捧げられました。



 うち、第一曲目の『祈り』は、Levが LP 時代に録音した
記録があるのですが、今回は見つけることが出来ず、
まことに残念です。


 「Lev Aronson (violoncello)、Joyce Jones (organ)

と、確かにあるのですが…。




               当時の新聞の切り抜き





 Levは激しやすい反面、天使のように優しく、子供の
ように純粋な心を持っていました。


 授業中、我々の演奏が気に入ったときには、全身を
揺らしながら、踊り出したものです。 そのにこやかで
柔和な表情が、いまだに忘れられません。




        "Lev, I really miss you."
           (逢えずに寂しい、逢いたい)





 以下は Bloch の『祈り』の音源です。




  [Alba Maloff


  [Dascal


  [Ashley Bathgate





 下記の文、及び前回における文中で、

 Levの経歴に関する部分は、ほとんどが

 http://de.wikipedia.org/wiki/Lev_Aronson

中の "Artikel über Lev Aronson" によるものです。 原文は、

このページの末尾をクリックしてもご覧いただけます。






 チェロ奏者、チェロ教師、作曲家の Lev Aronson

   (1912/2/7、メンヘングラトバッハ ~ 1988/11/12、ダラス)

レフ・アーロンソンは、両親の旅行中に、ドイツで生まれました。




 父親は当時、Berlin で法律を学んでいたのですが、
家族は急遽、故郷の Riga (Latvia) に戻ります。




 しかし、すぐに第一次大戦やロシア革命が勃発し、
情勢に翻弄されながら、一家はロシアと Riga を
あわただしく往復しなければなりませんでした。

 Levがチェロを初めて手にしたのは、この頃のことです。




 若きLevが Berlin へ赴き、Leipzig で Piatigorsky
と親交を深めたことは、前回触れました。




 修行期間を終え、一旦 Riga に戻ったLevは、その後
イタリアを手始めに、ヨーロッパ中で活躍を始めました。

 両親の故郷 Latvia には、リーバウ(Liepoja)・フィル
があり、やがて彼はここでソロ奏者に就任します。




 しかし、1941年にナツィス・ドイツLatvia を占領
すると、一家は悲惨な運命に見舞われます。 Levは
他のユダヤ人音楽家同様、愛器のチェロを没収されて
しまいました。

 両親Riga で処刑されます。 自身は囚われ、
ダンツィヒ強制収容所へ移送されました。

 そこでは妹の Gerda も殺されてしまいます。

 Levは重労働を科された後、アウシュヴィッツ
今度は送られてしまいました。




 終戦を迎えても、Levはまだ自由の身には
なれませんでした。

 ドイツ語とロシア語に堪能だったことが災いして、
スパイの濡れ衣を着せられ、母国側である、ソ連の
収容所に拘禁されてしまったのです。

 ユダヤ人同胞の中には、諜報員として命を繋いだ
者も、実際に多かったからです。




 転機は一年後に訪れました。 アメリカ地区に脱出
することが出来たのです。

 しかし、すぐに状況が好転したわけではありません。
せっかく西ベルリン側に身を置くことが出来たのに、
今度は難民収容所へ送られてしまったのです。





 そして、ついに光明が訪れます。

 Riga でのかつての勉学の友、Geroge Atlas が、
アメリカ軍将校として、Berlin に駐留していたのです。

 Levと再会したこの旧友は、収容所内の待遇改善に
努め、Levが再びチェロを手にすることが出来るように
してくれたのです。




 今やLevは、様々な収容所を訪れ、慰問演奏会を
開く立場になりました。 歌手、指揮者、ピアニストなど、
他の多くの仲間と共に。

 その中には、踊り手の Janina Bukowa もおり、
Levの妻となります。




 またLevの作曲した中の一曲が、Berlin のユダヤ
中央委員会により、この間に出版されています。

 この曲は、自由解放を主題として扱っており、
彼の亡き両親と妹に捧げられました。





 George Atlas の助力により、1948年4月10日、彼は
ついに New York へ上陸し、新天地アメリカへ足を
踏み入れました。

 当地の百貨店、Macy’s で荷造り、包装係として
食いつなぎながら、Levは旧友 Gregor Piatigorsky
に連絡を取ります。 Gregor はほどなくチェロを
一台プレゼントしてくれました。

 Piatigorsky は、1942年にすでに米国市民権を得て、
当時は PhiladelphiaCurtis音楽院でチェロ科の
主任教授を務めていました。




 やがてLevには、Texas 州 Dallas 交響楽団で演奏
する道が開け、そこで20年間、ソロ奏者を務めることに
なります。

 当時の指揮者には、Antal DoratiWalter Hendl
Paul KletzkiDonald Johanos らがいます。





 しかしLevは、重い心臓発作を起こし、ソロ奏者の役職を
捨て去ることを、余儀なくされました。

 以後彼は、後進の教育のために、自己のすべてを捧げる
べく決意します。




 私がLevにお会いできたのは、この間の事情があった
からだ…ということになります。




 Levは確かに心臓に持病を抱えていました。

 室内楽の授業中に、Levが突然沈黙し、自分の胸に
手を当て、口を半開きにして無言でたたずむ姿は、
実際に珍しくありませんでした。 私たちは、そのたびに
息をのみ、Levを見守ったものです。





 強制収容所で拘束されていた間、Levはチェロの演奏を
断念せざるを得なかったわけですが、そのことで却って、

「自分の人生は長いものだ」と、

のちのLevには感じられたようです。




 1988年11月12日、自宅のある Dallas で、Levは76年の
生涯を閉じました。




Sonia Wieder-Atherton plays a Jewish Prayer 他




 (この項終わり)



Lev Aronson

geb. am 7. Febr. 1912 in Mönchengladbach, Deutschland, gest. am 12. Nov. 1988 in Dallas (TX), USA, Cellist, Cellolehrer, Komponist.




Biographie

Lev Aronson wurde während einer Reise in Mönchengladbach geboren. Seine Eltern stammten aus Riga. Sie lebten zum Zeitpunkt seiner Geburt in Berlin, da der Vater dort Jura studierte, kehrten aber bald nach Riga zurück. Während des Ersten Weltkriegs wurden viele lettische Juden nach Russland evakuiert, da das zaristische Russland Kontakte mit den Deutschen befürchtete. Die Familie Aronson gelangte auf diese Weise für einige Zeit nach Woronesch. Dort erhielt Lev Aronson von einem Verwandten seinen ersten Cellounterricht; später wurde er von Aron Rafaelovitsch Rubinstein, einem anderen Flüchtling aus Riga, unterrichtet. Nach der russischen Revolution und der Unabhängigkeit Lettlands kehrte die Familie nach Riga zurück. Lev Aronson erhielt weiterhin Cellounterricht, und mit 13 Jahren hatte er seine ersten Auftritte mit einem Kinoorchester. Nach dem Abitur ging er nach Berlin, um wie sein Vater Jura zu studieren. Nach zwei Semestern brach er das Studium jedoch ab. Der Solocellist des Berliner Ärzteorchesters vermittelte ihn zu Julius Klengel. Regelmäßig pendelte er zum Unterricht nach Leipzig, zunächst zu Julius Klengel, später zu dessen Nachfolgern Alfred von Glehn und Gregor Piatigorsky, mit dem ihn eine lebenslange Freundschaft verband. Nach dem Abschluss seines Musikstudiums ging er zurück nach Riga. Die Bekanntschaft mit dem Dirigenten Vladimir Savitch führte zu Engagements in Italien und später in ganz Europa. Unter anderem trat er gemeinsam mit dem Sänger Joseph Schmidt und der Tänzerin Mia Slavenska auf. Trotz der politischen Entwicklung entschloss er sich, nicht auszuwandern. Er ging noch vor Beginn des Zweiten Weltkriegs zu seiner Familie nach Lettland zurück und nahm eine Stelle als Solocellist bei den Philharmonikern in Libau/Liepoja an.

Nach der Besetzung Lettlands durch die Deutsche Wehrmacht 1941 musste Lev Aronson wie andere jüdische Musiker auch sein Instrument abgeben und war auch sonst der antijüdischen Gesetzgebung ausgesetzt. Seine Eltern wurden bei einer Exekution in Riga getötet und er selbst in das KZ Stutthof bei Danzig deportiert, wo auch seine Schwester Gerda ermordet wurde. Er musste Schwerstarbeit verrichten und wurde später in die KZs Buchenwald, Gottendau[?] und möglicherweise auch Auschwitz deportiert. Nach dem Ende des Zweiten Weltkriegs wurde er, da er Russisch und Deutsch sprach, Jude war und zudem überlebt hatte, als angeblicher Spion in einem sowjetischen Lager inhaftiert. Nach einem Jahr gelang ihm jedoch die Flucht, und er konnte sich bis in die US-amerikanische Zone durchschlagen. In West-Berlin begann erneut eine deprimierende Phase, da er in einem DP-Lager festsaß. Erst nachdem er einen Mitschüler aus Riga, George Atlas, wiedergetroffen hatte, der als US-amerikanischer Offizier in Berlin stationiert war, besserte sich die Lage. Er konnte wieder Cello spielen und gab in verschiedenen DP-Camps, u. a. zusammen mit der Tänzerin Janina Bukowa, die er inzwischen geheiratet hatte, dem Sänger Gregor Shelkan, dem Dirigenten und Pianisten Michael Taube und der Sängerin Elsa Taube, Konzerte. Auch wurden von dem Zentralkomitee der Juden in Berlin einige seiner Kompositionen, in denen er die Befreiung thematisierte und die er seinen Eltern und seiner Schwester widmete, herausgegeben.

Mit Hilfe von George Atlas konnte er schließlich 1948 in die USA ausreisen. Am 10. Apr. 1948 kam er mit dem Schiff Marine Marlin in New York an. Er arbeitete zunächst als Packer bei Macy’s und nahm wieder Kontakt mit Gregor Piatigorsky auf, der ihm ein Cello schenkte. Noch im selben Jahr bewarb er sich erfolgreich beim Dallas Symphony Orchestra. Dort wirkte er 20 Jahre als Solocellist unter Dirigenten wie Antal Dorati, Walter Hendl, Paul Kletzki und Donald Johanos. Nach einem Herzinfarkt entschloss er sich, diese Position aufzugeben. Er widmete sich von da an vor allem dem Unterrichten. Er lehrte an der Baylor University in Waco sowie auch an der Southern Methodist University in Dallas. Zu seinen Schülern zählten eine Reihe von namhaften Cellisten, darunter Lynn Harrell, Ralph Kirshbaum, John Sharp, Adron Ming, Pearce Meisenbach, Christopher Adkins, Alicia Randisi-Hooker, Karen Terbeek, Carol Haski, Philip Taggart, Kevin Dvorak und Mitch Maxwell. Nach seiner Pensionierung unterrichtete er weiterhin Privatschüler. Die Einschränkungen, die er aufgrund seiner KZ-Haft beim Cellospielen hinnehmen musste, empfand Lev Aronson sein Leben lang. Er starb 1988 in Dallas.

Hauptquellen: ChismO 1979

Sophie Fetthauer (2006, aktualisiert am 17. Juli 2009)
http://www.lexm.uni-hamburg.de/object/lexm_lexmperson_00000769

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Haftungsausschluss | Copyright | Empfohlene Zitierweise | Stand: 10.12.2009



この先は maru 用の物置で、未使用の資料ばかりです。あまり参考にはならないので悪しからずお赦しください。

http://homepage3.nifty.com/bloch/works/from_jewish_life.htm

http://jp.youtube.com/results?search_query=bloch+prayer&search_type=


http://cmslib.rrz.uni-hamburg.de:6292/object/lexm_lexmperson_00000769


Levの愛するチェロ、師弟~Lev の想い出 (4)

2008-12-29 00:00:02 | その他の音楽記事

12/29     Levの愛するチェロ、師弟




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   (2) Brahms のピアノ四重奏曲
   (3) Suppe: 「詩人と農夫」序曲
   (4) Lev の 愛するチェロ、師弟
   (5) Bloch の 「祈り、願いと歌」




 Levがチェロを初めて手にした場所は、LatviaRiga
9歳の頃でした。


 Levは急速に上達し、13歳にして、すでに映画伴奏の
楽団で働いています。




 のちにLevは、若き日の父同様、法律の勉強のために
Berlin へ向かいます。


 しかし、その勉学生活はニ学期間しか続きませんでした。
Levの非凡なチェロの才能が、さる楽団のソロ首席を
務めていた人物の、目に留まってしまったからです。


 その推薦を受け、Levは、Julius Klengel に師事する
ために、Leipzig へ移ります。




 ここでLevが出会い、その良き師となったのが、
Gregor Piatigorsky (Biography/YouTube音源付き)
です。

 師弟愛を越えた、二人の交友関係は、
Piatigorsky (Biography/Discography付き)
1976年に Los Angeles で亡くなるまで続きました。




 Piatigorsky の名は、授業中も、また私的な雑談の際
にも、Levの口から極めて頻繁に聞かれました。

 しかしその内容は、私の記憶が今となっては定かでなく、
詳細をお伝えできないのが、まことに残念です。





 Levは後半生を米国で送りました。

 Levの教えを受けた奏者の数は、極めて多数に上るので、
ここでは、ごく一部を挙げるだけに止めます。




 やがて Juliard 音楽院に入学することになる、12歳の
Lynn Harrel の才能に、最も早くから注目したのがLev
でした。

 この生徒の側も、Levの教えを高く評価し、

 「チェロという楽器、そして音楽、また人生に対する情熱を
私に教えてくれたのは、この素晴らしい教師でした」

語っています




 Lynn Harrell

 (①Biography /

  ②YouTube音源 = Chopinのノクターン、他)


 Ralph Kirshbaum


 Kirstin Peltz


 John Sharp


 Mitch Maxwell


 Christopher Adkins




 あるとき、我々の室内楽クラスを訪れた、若いゲストが
いました。 Levのチェロのお弟子さんで、とてもハンサム
な好青年です。

 握手した手が、とても柔らかかったのを覚えていますが、
その名は Kevin Dvorak。 何と、あの大作曲家の曾孫
さんでした。

 現在は Houston を中心に活躍しているとのことです。





 私がLevから教えを受ける機会のほとんどは、週二回
ほどの、室内楽の授業に限られていました。


 あとは、学内のオーケストラだけです。 そこでは、管も、
弦も、打楽器も、担当教授が付き添っていました。

 学生と教授たちが一体となり、一つのアンサンブルを
作るのは、まさに協調作業の見本でした。




 Levから直接受ける教えは、単に外面的な知識に
止まりませんでした。

 音の作り方、作曲家が曲に込めた思いの激しさ、
演奏者に要求される燃焼度、パッション…、それらへ
向ける情熱や献身の度合いは、どれを取っても、
若い我々よりLevの方が、はるかに上回っていました。


 もし自分がチェロを専攻していたら、もっと多くを、
Levから吸収する機会に恵まれたろうに…。

 そう考えると、まことに残念です。





 私が直接知っているのは、60歳を過ぎたばかりの
頃のLevだけ、それもたったの二年間でした。


 次回は、Levのヨーロッパ時代を中心に記したいと
思います。






              当時の発表会プログラム



 (続く)



        以下はKevin Dvorak 氏についての記述を、

           [AIDS Foundation Houston]より、

       リンク切れに備えて転載させていただきました。



Kevin Dvorak cello

Cellist Kevin Dvorak was a student of renowned cello pedagogue, Lev Aronson. Winner of several youth competitions, he appeared as soloist with the Dallas, Fort Worth, and Midland-Odessa Symphony Orchestras. He was Principal Cellist and leader in a cello ensemble and string orchestra that toured Europe and played in festivals in Dubrovnik, Yugoslavia and Tunis, Tunisia. He was artist in residence at the Southern Vermont Arts Festival in Manchester, Vermont with violinist Carol Glenn and her husband/pianist Eugene List.

Mr. Dvorak has been a member of the Houston Symphony since 1978. He appeared on the Houston Symphony's Innova and Mostly Mozart Chamber Music Series, and has performed in concerts for the Da Camera Society and the Greenbriar Consortium. An ardent chamber music lover, he frequently hosts soiree concerts played by members of the Houston Symphony in his home to raise money for various charities.

Mr. Dvorak's recordings include a String Quartet by Bernard Hermann, and a group of Mozart Flute Quartets featuring Houston Symphony Principal Flutist, Aralee Dorough.



Suppe:「詩人と農夫」序曲~Lev の想い出 (3)

2008-12-28 00:49:06 | その他の音楽記事

12/28          Levの想い出 (3)




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   (5) Bloch の 「祈り、願いと歌」




 Levというと、どうしても思い出してしまう曲があります。

 それは、スッペ『詩人と農夫』序曲です。 


 以下はLevが語ってくれた話です。






 昔、オーケストラにいたときのことだがね。 申しわけない
話だが、本番に遅刻してしまったんだ。

 それで、プログラムの頭の曲というのがね、『詩人と農夫』
序曲なんだよ。 ほら、始まるとすぐ、チェロのソロが出てくる
だろ?


 その夜は、会場練習は無かった。 一回の練習で、本番を
何回かやるコンサートだったからね。 だから、本番の時間に
ワシも着いてればよかったんだが…。





 ところが、肝心のワシがいない。

 「Levはどうした! Levはどこだ! 誰か知らないか?

 スタッフは大騒ぎになった。


 そこで喜んだのが、ワシの隣で弾いていた、副首席のヤツだよ。

 「ついに念願のソロが弾けるぞ」とばかり、大喜びさ。

 演奏会直前になっても、ワシが現れないんだからな。


 そうこうするうちに開演時間になり、拍手を浴びて指揮者が
登場した。 ワシの席は、相変わらず空席のままな。





 いよいよ曲が始まった。 ゆったりとした、あのニ長調の
ファンファーレでな。

 さて、問題のソロの箇所に差し掛かった、と、ちょうど
そのとき、ワシが登場したんじゃよ!




 ワシにしてみれば、慌ててステージ裏に着いたら、もう曲が
始まっちゃってたろ? こりゃあ、歩きながら弾き始めないと、
やはりダメかなと思った。 かなりきわどかったからな。


 だが、ステージを歩きながら、ワシは一生懸命に計算して
いた。 あと何小節でソロになるかをな。


 ファンファーレの最中に、おもむろに登場し、それが
鳴り終わって、空いている席に腰を下ろすと、これが
ちょうど間に合ったんだよ。

 ハハハ。

 あとは、ワシの楽器が勝手に弾いてくれた。





 曲が終わると、万雷の拍手だったな。 演奏会に遅刻して、
しかも大喝采を受けたなんて、ワシぐらいしかいないだろう。

 ハッハッハ。


 ところで、その副首席のヤツだが、さぞ悔しかったろうな。

 たぶん、「これはしめた」とばかりに、手ぐすね引いて、
その瞬間を待ち構えていたと思うよ。


 まあ、ワシにとってみれば、あんまり仲がいいヤツじゃ
なかったから、どうでもいいわい。






 以下、音源です。


 この曲ですが、そう、始まってちょうど1分すると
チェロのソロが始まります。 それも、ご存じのとおり
かなり長い、有名なソロです。




  [ショルティ、ヴィーン・フィル、風景画像(固定)付き


  [演奏者不明


  [la Orquesta filarmonica juvenil de Nuevo León








       Aronson 先生。 レコードの宣伝写真から。



 (続く)



Brahms のピアノ四重奏曲~Lev の想い出 (2)

2008-12-27 00:23:34 | その他の音楽記事

12/27          Levの想い出 (2)




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   (2) Brahms のピアノ四重奏曲
   (3) Suppe: 「詩人と農夫」序曲
   (4) Lev の 愛するチェロ、師弟
   (5) Bloch の 「祈り、願いと歌」




 私の米国時代の、室内楽のクラスの話の続きです。



 当時の授業のための曲で、忘れられないものの一つに、
Brahms のピアノ四重奏曲イ長調第2番 Op.26 があります。




 これは、作曲者の30歳前の作品です。

 シェーンベルクの管弦楽用編曲で名高い、
第1番ト短調 op.25、また後の、第3番ハ短調 op.60
の谷間に埋もれ、演奏される機会は少ないようです。


 ピアノ・パートには、まるで協奏曲の一節ではないかと
思われるような部分もあります。



 作曲者の意欲が感じられる作品ではありますが、
ただ、私のような弦楽器の人間が勝手なことを言うと、
とにかく弾きにくいのです。

 音を取る点でも、音量バランスの点でも、また
アンサンブルの面でもです。 二連符と三連符が、
それも、微妙におぼろげに交錯し、弾きにくいだけ
でなく、また弾いていて (休符などを) "数えにくい" のです。



 改めてスコアを眺めると、つくづくそう感じます。
今だって、もし「やれ!」と言われたら、いい音楽を
作り上げる自信がありません。

 あの頃はさらに未熟だったわけですから、こんなに
形にしにくい曲を、よくもまあ手がけたものだと思います。

 もっとも、自分たちで選んだ曲ではなく、指導教授が
与えた課題曲ではありましたが。





 以下は音源です。


    Brahms のピアノ四重奏曲第2番イ長調 Op.26




  [Richter, Borodin四重奏団




      [Ⅰ Allegro non troppo

          Part ①

          Part ② (中途まで)




      [Ⅱ Poco Adagio

          Part ①

          Part ②

          ↑
  第Ⅱ楽章 は②が始まってから 2'00" ぐらいで終わり

すぐ第Ⅲ楽章が始まります。


      [Ⅲ Scherzo : Poco Allegro

          第Ⅲ楽章の続き




      [Ⅳ Finale Allegro





  [全曲] (P)カーゾン ブダペスト弦楽四重奏団

        (1952年4月28~29日録音)





 前回は、このクラスを通してLevと知り合ったこと、
そしてLevの弾くチェロを通して、私が大きな体験の
機会を与えられたことをお話ししました。

 そして、"体験" とは言うものの、それを生かすことが
何十年も出来なかったことも。




 これを私に目撃させてくれたLevというチェリスト、
それは実は、室内楽の指導教授ご本人でした。

 「first name で呼んでいい」と言ってくれていたので、
ここでもつい、そう書いてしまったのですが。





 Levはユダヤ人で、大戦時にはまだドイツにいました。
そして、あの辛い体験を味わい、"拷問" まで受け、
彼の身体には、その傷跡が残っていると聞きます。

 しかしこれは、私が直接聞いた話ではありません。
そのような機会は無かったし、また、私の側から
彼の辛い過去について尋ねることなど、もちろん
出来ませんでした。

 彼は、自らの生まれ育ちも、身の上も経歴も、私に
直接語ってくれることは、ついにありませんでした。


 ちなみに、米国時代の彼は、ひとり暮らしでした。





 英語が母国語でないLevは、ときどき授業中に、
思わぬ単語を口にしました。




 あるとき、
「発表会の宣伝写真撮影のために、正装をするかどうか」
を、みなで話し合ったことがありました。


 それでは、「どんな服装以上なら正装」なのでしょうか。

 そんな話題になったとき、Levは私の隣の女子学生を指して、

 "This girl is undressed" と言ってしまったのです。

 その後も、何度か。


 彼女は驚いて、一瞬私の方を向き、にっこり恥ずかしそうに
笑ってから、顔を伏せました。




 なぜなら、undressed は nude、つまり

"衣服を着けていない" という意味で、決して
"not dressed up" の意味にはならないからです。

 でも、愛すべきLevに対して、教えは厳しいが、誰もが
尊敬するこの教授に対して、笑ったり騒いだりする者など、
もちろん一人もいませんでした。





 Levにはもう 30年以上お会いしてないし、音信も
途切れています。

 それを考えると、「ひょっとして、もう…」と案じてしまう
ほどの、お齢 (とし) のはずです。

 私の若き日の、僅か二年足らずのお付き合いでした。




 Levがあの夜、私を dinner に招待したのは、弦楽器の
弾き方の極意を、私に目撃させるためではなかったか。

 今、考えれば考えるほど、そう思えてなりません。 そう
仮定すると、その前後の色々な状況の辻褄が合うのです。


 「あのときの出会いは、一体何だったのだろう?
今の自分にとって…。」



 時が経てば経つほど、とみに最近になって、私の思いが
行ってしまう、Levはそんな方の一人なのです。



 中央に立っているのが、Lev Aronson 先生です。
                 


当時の発表会用の宣伝写真から。 "正装" している者、いない者、まちまちです。



 (続く)