MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

青りんごのタネ

2009-04-05 00:01:19 | その他の音楽記事

04/05  チ(ャ)ィコーフスキィ と 『カマーリンスカヤ』

           (3) 青りんごのタネ





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   (ャ)ィコーフスキィ と 『カマーリンスカヤ』

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    (2) (ャ)ィコーフスキィ 弦楽セレナーデ ~ ピョートル君の青りんご

    (3) (ャ)ィコーフスキィ 交響曲第1番、第2番 ~ 青りんごのタネ




 前回の弦楽セレナーデ ハ長調 作品48 (1880年)

では、第Ⅰ楽章の主要主題が、終楽章の "Tema russo"

(ロシアの主題)、『青いりんごの木の下で』 と、ほとんど同一

のものであることを見てきました。




 また、交響曲第4番ヘ短調作品36 (1877年) でも、

やはりロシア民謡の『野に立つ白樺 (白樺は野に立てり)』が

使われていましたが、こちらは大変手の込んだものでした。




 この民謡も、単純な下降する音階が主役でしたが、どの
楽章の主要モティーフも、これと深い関係を持っていました。

 そして、終楽章に近づけば近づくほど、主要モティーフは
この原形のテーマにそっくりになっていきます。




        ここで思い出していただきたいのは、

   グリンカの『カマーリンスカヤ』をご一緒に見てきた

            ときのことです。




 そこでは、軽快な踊りの歌、"カマーリンスカヤ" が何度となく
繰り返されますが、それには "合いの手" が一緒に登場して
いました。

 ところが、最初は単純な合いの手にすぎないと思っていたの
が、繰り返されるたびごとに形を変えていき、だいぶ経ってから、
やっと最初の主題であったことが聴き取れるのです。 

 それは、『高い山々のかなたから (おぐらい森かげ)』という、
寂しげな婚礼歌でした。 これは、曲の冒頭で提示された
後は形が変えられ、ほとんど "合いの手" としてのみ、扱わ
れます。

 そして後になればなるほど原形に近づき、聴く者が徐々に
それと気付くように書かれていました。




 この手法が、チ(ャ)ィコーフスキィの第4交響曲に受け継が
れているのです。 全楽章に亘って。



 その第Ⅰ楽章では、元となるテーマの変形の度合い
著しく
、終楽章の "白樺" との関連は、ちょっと聞いただけ
では想像することさえ不可能でしょう。

 それがまた作曲者の狙いでもありました。 元のテーマが
別にあるのかどうかさえ、聴く者には最初はまったく判らない
のです。




 グリンカが7分足らずの幻想曲で試みた手法は、ここでは
40分間以上に亘って生かされ、"四楽章の交響曲" になって
しまいました。



 『カマーリンスカヤ』で植えられた "ヤープラチカ" (小さなりんご)
タネから、こんなに大きな白樺が生えることになるなんて、
一体誰が想像したでしょう。

 グリンカが『カマーリンスカヤ』を作曲した頃は、まだ八歳に
すぎなかったピョートル坊やに立派に育てられて。 作曲家
37歳のときのことでした。

 彼は当時新聞の音楽評欄に論文を掲載して、グリンカの
作品の意義を強調し、その路線を尊重しようと呼びかけて
いるそうです。 もちろん "民謡" は重要な役割を担うもの
でした。




 それでは、ほかに民謡を扱った交響曲は、この作曲家
には無いのでしょうか。



 交響曲第1番ト短調『冬の日の幻想』 (1866年作曲、
1874年改定) では終楽章に、『花が咲いた』、あるいは
『咲け、小さな花』と呼ばれる民謡が登場します。

 序奏部では重苦しく、切れ切れだった断片が、やがて
立派な第二主題として、装いも新たに登場します。

 その直前のホルンの "連呼" は、何か重大なものの
出現を告げ知らせるかのようです。 これは第4交響曲
終楽章で、『白樺』が登場する際にも聞かれます。

 第二主題は一貫して重要な扱いを受け、終結部では
短調から長調へ変わるとともに、全体の雰囲気を一変
させ、全曲はト長調で終わります。

 なおこの民謡、作曲当時は『若い私は種を蒔く』という
名で知られていたといいます。 作曲者26歳当時の作品
ですが、題名はまことに意味深です。



 交響曲第2番 (1872年) は、作曲当時は『小ロシア』、
また今日では『ウクライナ』とも呼ばれていて、やはり
民謡を何曲か用いています。 民謡ですから、当然そこ
には音階という要素も豊富に含まれています。

 ハ長調の終楽章で、序奏部に堂々と登場するのが
『鶴』です。 主部に入ると軽やかに滑空し、他のテーマ
以上に重要な扱いを受け、変奏、展開を繰り返して興奮
を盛り上げます。

 この曲は、グリンカの後継者たちから絶賛されています。



 しかしこの第1、第2交響曲は、今回見てきたこの二曲
のように、一つの民謡から全曲の基本的な素材を得ている
わけではありません。 手法にはそれぞれ差があります。



 民謡を素材とする、グリンカの姿勢。 チ(ャ)ィコーフスキィ
は、それを様々な形で継承、発展させようとしています。




 音楽は、分解してみれば、所詮「"音階" と "分散和音" に
尽きる」とも言えます。 音階はどこにでも出てくるものです
から、全曲を通じてそこら中に転がっていても、取り立てて
珍しいことではありません。

 しかし、音階なら音階を、作品の中で作曲者がどう扱って
いるのか? また、その前後関係は、違いは、…?



 そのように見ていくと、単なる偶然としては片づけにくい
場合もあります。 特に、作曲家の基本的アイディアや、
また創作への熱い思いが感じられてしまうときには。

 それも、音階に限った話ではありません。

 メロディー・ライン、アルぺッジョ、リズム…。




 その上、この弦楽セレナーデの終楽章のように、作曲家
ご本人がこれほど明快にタネ明かしをしている例は、そう
頻繁にあるわけではありません。

 「もうそろそろ解ってくれてるだろうね、さもないと曲は
終わっちゃうよ」と言いながら。



 ちなみに作曲者はこの曲について、フォン・メック夫人に、
「心の感じるままに作曲され、芸術的価値を失わないものと
信じている」と述べたそうです。

    [妊娠したいネット]より
    [おすすめクラッシック音楽Vol.1


 もしそうならば、この曲は「単に耳触りがいいだけではない」
という作曲者の自負が、そこには込められているのではない
でしょうか。




 第4交響曲の終楽章にしても、開始後、わずか10小節に
して『白樺は野に立てり』が、何も手を加えられない原形の
まま、突如として登場します。

 これは一種の挑発的タネ明かしでしょう。 その直後には、
再び冒頭の主題が現われ、交互に並べて "陳列" されて
いるのですから。



 これらのタネ明かしには、真剣さのみならず、余裕とユーモア
さえ感じられます。




 出来上がった楽譜を睨んでいると、ちょっとした推理小説
ではないかと思えるときすらあります。



 ねえ、あなたも挑戦してみない? 刑事の古畑さん

 第4交響曲では、やはり白樺くんが黒幕なんでしょ?
何とか落しちゃいたいんだけど、口もなかなか堅そう
なんです…。

 え、すぐ落ちるの? ひと皮むけば。 面白い!



 でも白樺くん、たぶん "シラ" を切ると思いますよ…。

 「チ(ャ)ィコーフスキィ ? シラぬ、存ぜぬ、私はシロ。
りんごに知り合い、いたかシラ。」



 あなたが "白ハタフル畑さん" にならないようにね?
         ↑
    雑学事典の小部屋]より




 ところで作曲者さん、きっと今頃二ヤニヤしていること
でしょう。 ヴォトカの壜でも片手に。



 「どうかね、りんごのタネの話はどうでもいいが、ワシの
タネ明かしの方は、すぐに分かったのかね?」

なんて呟きながら。



 「いえいえ、なかなか…。 チ(ャ)ィコーフスキィさん… 。」

 偉大な作曲家には、私たち演奏家など、逆立ちしても
(かな) いません。



 なんなら、今度ご一緒にいかがですか? リンゴ酒でも…。




 ロシアで "りんご" と言ったら、普通は青りんごで、サイズも
小ぶりだそうです。



 赤りんごの好きな方、ごめんなさい。

 「なんだ、グリーンカ…」なんて言わないでね。




 [ロシア雑貨専門販売店



 [Humorous cartoons and drawings by the Sugai family
          
 [ロシアのリンゴが小さいわけ]