MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

鋭敏な魂

2010-10-18 00:00:00 | 私の室内楽仲間たち

10/18 私の音楽仲間 (222) ~ 私の室内楽仲間たち (196)

               鋭敏な魂




   この集いは、すでに何度かお読みいただいているグループです。

         これまでの 『私の室内楽仲間たち』



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               ⑧ 信頼の結実
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               ⑩ フィレンツェの密会?
               ⑪ ウクライナの邂逅
               ⑫ 鋭敏な魂
               ⑬ 躍動と沈潜
               ⑭ 大船に乗った気分で




     私は生涯にまだ、

       これほど鋭敏に

         私の考えの一つ一つに、
 
           私の心臓の鼓動一つ一つに

        こたえてくれる魂に
 
          出会ったことはありませんでした。

                   (ャ)ィコーフスキィ



              (『音楽家の恋文』、クルト・バーレン著、
                    池内紀訳、1996年西村書店
)




 前回は、フォン・メック夫人の別荘で、作曲家が思いがけず
夫人に出逢ってしまった様子に触れました。

 そして彼が仰天し、詫びる一方で、夫人の方は、「私はこの
偶然の出会いに天にものぼる気もちでおります。」と返信した
のでした。


 またその中で、「一つ屋根の下にあなたとご一緒にいること
……フィレンツェの劇場でのように」と記しながら、作曲家を
「神話の中の人物としてではなく、生きた人間として感じること
が無上の幸福である」とまで書いています。

 フィレンツェでも顔を合わせていた…!




 では二人がフィレンツェで出逢ったのは、いつのこと? それ
はおそらく前年の、1878年の12月ではないかと思われます。

 同じ時期には夫人の方も、ここにある自分の別荘に逗留して
いました。 もちろん、彼には他の別荘を確保した上で。



 その際の作曲家の手紙が、前々回の冒頭でご覧いただいた
もので、彼は、「あなたのおそばにいるのだという意識を楽しみ
ました」と記しています。 これは、"同じフィレンツェの空の下で"
という意味だったのです。




 しかし異国の地とは言え、同じフィレンツェに滞在しているの
です。 社交の場でもある "劇場" で顔を合わせてしまうのは、
決してあり得ない事ではないでしょう。 どちらかが徹底的に
それを恐れ、警戒していれば別ですが。

 まして翌年は、ウクライナブラーィロフ (Браїлів)
ある夫人の別荘が舞台になり、彼女もそこに滞在していた
のですから、"危険度" はさらに大きかったはずです。



 しかし結果としては、二人がこれ以上近づくことはありません
でした。 距離的に。 肉体的存在としては。




 "生涯顔を合わせない" という最初の約束は、もちろん夫人が
提案したものでしょう。 しかしやがて彼女は、"生きた人間として
感じる無上の幸福" を、上述のように吐露することになります。



 そこからは、夫人が "様々な制約の間で、生涯板挟みになって
いたのでは?" とさえ感じられます。

 また同時に、もしも二人の間の距離がゼロになってしまえば、
"作曲家との関係はすべて崩壊するだろう" と、おそらく敏感に
察知しながら。




 一方で作曲家の側は、"女性に対しては恋愛感情を持てない"
とさえ口にしていました。

 そして、夫人に対しては "財政的な援助" に感謝するとともに、
互いが愛情を注ぎこめる、音楽の世界における "自分の最大
の理解者" であることに、"無上の幸福" を感じていました。

 その素直な告白が、上に引用した一文です。



 さらにこの後には、「わがはるかなる友の愛情と関心が私の
存在の支柱となりました」と記されています。




 二人の関係は、やがて "夫人側からの絶交宣言" で幕を
閉じることになります。 1890年9月のことでした。

 その原因はいまだに不明です。 しかし少なくとも、夫人の
表向きの理由である "財政的破綻" ではないことが判明して
います。



 憶測されている内容としては、"夫人が禁治産者になった"、
"作曲家との関係続行を家族から咎められた"、"作曲家の
同性愛の醜聞に幻滅した" などがあります。 しかしいずれ
も決定的な証拠は無く、永久に判らないかもしれません。




 原因の一つには、「どんな治療も役に立たずに悪化する
自分の手
」という悲劇があるのかもしれません。 もはや
「長い手紙を書けないほどひどい痛み」 については、1882
年の夫人の書簡に最初の言及があります。 以来、両者
の文通の頻度は急速に低下していきます。



 また、作曲家自身が有名になるに連れ、同時に裕福になっ
ていった事実も無関係ではないと思われます。

 もちろん彼の方は、突然の "年金支給停止" をぼやいては
います。 しかし同時に、"自分はもう援助が無くても大丈夫
です。 でも貴女との絶交がそれ以上に辛い理由は、他に
あるのです" と返信し、"これまでどおり、音楽において終生
自分の良き理解者であってほしい" と嘆願するほどでした。

 弟のモヂェーストには、"夫人に会って頼みたい" とまで
書いています。




 ところが、夫人が自分で手紙を書けなくなれば、自己の存在
理由は皆無になってしまいます。 たとえ代筆が可能な内容で
あっても。

 かと言って、"財政的援助を鼻にかけて作曲家を束縛する"
ような態度は、彼女とはまったく無縁なものです。




 私には、彼女は "自ら身を引いた" とさえ思われます。

 作曲家が自分の "所有物" ではないばかりか、"何が彼に
とって幸福であるか" を、折に触れて痛感していたはずです。
"鋭敏な魂" に、それが解らないはずはありません。



 そう言えば、チ(ャ)ィコーフスキィは、別の折にこうも書き送って
います。

 「人生で私の音楽が、私の愛する人々の心をとらえていること
がわかる瞬間ほど幸福なときはありません。 そういう人々が
関心をもってくれることは、私にとりましては名声や成功よりも
ずっと大切なのです。」



 " … 彼の音楽は人々のもの。 自分もその中の一人としての
立場に甘んじる時が来たようだ…。"

 夫人がもしそう感じたなら…。 それはどんなにか苦痛を伴う
瞬間だったことでしょう。




    「」内の引用はすべて『音楽家の恋文』 (クルト・バーレン著、
    池内紀訳、1996年西村書店) からさせていただきました。




  (続く)