
今日は、親戚の法事であった。
行った先は、我が家と同じ浄土真宗だが、お寺は違う。
行った先のお寺は、先日紅葉を撮りに行ったところで、
今日は跡継ぎの息子さんが見えられた。
彼は、40代半ば、非常に歯切れの良い物言いをする方であった。
浄土真宗の場合、お参りの最後に、お寺さんが説教をする。
今日の説教はナカナカ面白かったので紹介する。
お葬式のお悔やみの話であったが、お悔やみと言うのは、お葬式の時には
一度に物いりに成るため、参列する方々がお金を持ち寄って、一種の講みたいな
ものであった。
始まった頃は、お返しは参列された方々の家に不幸があったとき。
それがいつの間にか、万中陰の時にお返しをするようになった。
これは、贈答屋の戦略と言うものであった。
確かに、よく考えると、もらったものを返すだけの方が合理的だ。
万中陰の時の贈り物で徳をするのは贈答屋だけである。
たしかに、このあたりの贈答屋を見ても何れも儲かっている風に見える。
画像は、旭昇の一週間前の根。
さすがに今日見ると、止まりかけているが、いまだ動いていた。
行った先は、我が家と同じ浄土真宗だが、お寺は違う。
行った先のお寺は、先日紅葉を撮りに行ったところで、
今日は跡継ぎの息子さんが見えられた。
彼は、40代半ば、非常に歯切れの良い物言いをする方であった。
浄土真宗の場合、お参りの最後に、お寺さんが説教をする。
今日の説教はナカナカ面白かったので紹介する。
お葬式のお悔やみの話であったが、お悔やみと言うのは、お葬式の時には
一度に物いりに成るため、参列する方々がお金を持ち寄って、一種の講みたいな
ものであった。
始まった頃は、お返しは参列された方々の家に不幸があったとき。
それがいつの間にか、万中陰の時にお返しをするようになった。
これは、贈答屋の戦略と言うものであった。
確かに、よく考えると、もらったものを返すだけの方が合理的だ。
万中陰の時の贈り物で徳をするのは贈答屋だけである。
たしかに、このあたりの贈答屋を見ても何れも儲かっている風に見える。
画像は、旭昇の一週間前の根。
さすがに今日見ると、止まりかけているが、いまだ動いていた。