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北嶋誠のブログ

私の考えていること、言いたいことなどなど。

農業も電力も持続可能なものに

2011年03月22日 14時59分57秒 | Weblog
巨大地震は天災だが、原発の事故は明らかに人災である。11日に発生した東日
本大震
災(他に東北関東大震災とか東北地方太平洋沖地震とかの呼称があるが、最も短
いもの
を使用。)で、福島第一原発が、大事故を起こしてしまった。
 東京電力側の説明では、初めから明らかな事故を状況の変化などと称したり、
爆発し
て吹き飛んだものを崩れたなどと表現したり、事実を矮小化したり覆い隠そうと
する姿
勢が見え見えであった。
 また、巨大地震や巨大津波が「想定外」のようになっているが、福島原発誘致
計画が
浮上した当初から、今回のような事態を含めて、あらゆる危険性を想定して、原
発建設
反対の住民運動が取り組まれていたはずである。
 例えば想定してみれば、阪神大震災のような直下型大地震が全くないという保
証はな
い。また、新潟県中越沖地震の場合には、現実に柏崎刈羽原発が、火災その他の
トラブ
ルを発生し、一時創業停止になったという経験は全く生かされていない。
 このときにも、住民運動側からは、安全対策の強化などの申し入れを受けてい
たにも
関わらず、今回の大失態を招いてしまった。原発の安全神話は完全に吹っ飛んで
しまっ
たことになる。
 ところで、人間の命の源である食糧を生産する農業は、今や地球環境のもとで
の循環
型で、持続可能な農業がもとめられている。
 電力エネルギーについても、化石燃料によるものや原発から切り替えて、風力
、水力
(大型ダムなどを除く)、太陽光、バイオ燃料(副産物や参拝、耕作放棄地など
を活用
した地産地消型)などにシフトして行くべきだと思う。
 ところで東電もまた、地球温暖化防止の低炭素社会を目指すとして、原発はc
o2を
発生しないのだから、クリーンで持続可能な電力エネルギーだなどとして、その
推進の
口実にしてきた。
だが、放射性物質も、二酸化炭素以上に地球環境を汚染するとは認識していない
のだろ
うか。
 今回の大震災でも、福島原発からの放射性物質漏れにより、近隣住民が避難を
余儀な
くされ、一部の農産物や水道水への、放射性物質の含有が報告されるなど、被害
が拡大
している。
 今回の教訓を生かして、市場原理による利潤優先、開発優先、便利さ優先とい
う人間
の生き方や政治の方向を改め、地球環境の保護と人類の生存こそが、持続可能な
方向に
進む契機として行くべきだと思う。そのようなことにこそ、人間の英知や科学の
進歩は
生かしてもらいたい。


未曾有の大地震

2011年03月20日 07時33分08秒 | Weblog
3月11日の大地震は、それに伴う大津波や福島原発の大事故と、言葉には表現
しがた
いほどの、未曾有の大災害となった。
 私は、2月中旬頃から風邪をひいて、思うようには活動が出来てはいなかったの
だが
、今年はマイペースで行こうと決めていたので、そうハヤル気持ちはないのだっ
た。
 それでも、今度の巨大地震では、母屋は何とか潰れなかったものの、長屋門の
瓦が一
部吹っ飛んだり、食器や家具類が一部壊れたりした。
 また、停電、電話が不通、水が出ない、パソコンも使えない、当然だが暖房も
効かな
い、という事態になっては、落ち着いてもいられないのだが、成すすべもないと
いうの
が正直なところである。
 その他、牛乳が出荷できない、墓石が倒伏したなどの被害もあったが、2日後に
は停
電も解消され、通常の生活を回復して行こうという思いになっている。
 そのことよりも、東北地方から茨城県北にかけての地域では、想像を絶する甚
大な被
害を受けているという状況が明らかになるにつれて、このままではいけないとい
う思い
に立ったのである。
 ここは何はさておき、被災者の人名九歳こそが最優先されなければならない。
私ごと
き一障害者には成すすべもないのだが、それでも何かやれることはないだろうか
。と考
えた
 もちろんその頃には、当然の如く我が農民連をはじめ、民間でも、団体や個人
を問わ
ず、いち早く被災地救援活動が始まっている。
 我が家の電話が回復したのは、地震発生から二日後の13日であった。この日は
日曜日
なのだが、ふと気になって、池袋にある農民連本部に電話してみたところ、予想
通りに
役員や事務局員が結集して、災害救援対策本部がすでに始動していた。
 農民連結成以来、阪神大震災や中越地震などの時や、台風による青森のりんご
が大被
害を受けた時、最近では昨年の宮崎での口蹄疫発生の時など、何度も救援活動を
行なっ
てきたという実績がある。
 特に今回のような大地震の場合は、被災者救済のために最も必要なものの一つ
が食料
である。
 阪神大震災のような、都市ぶでの地震はもとより、中越地震や今回の東日本大
震災を
見ても明らかなように、新潟県、宮城県、福島県などの農業県であってすら、田
畑や家
屋、倉庫、納屋に至るまで損壊することにもなれば、当然の如く食糧も損失する

 ここで大事なことは、この国では小規模とはいえ多彩な農業が、まだまだ健在
で頑張
っているということだ。
 新潟県が被害を受ければ、長野や群馬の農業がある。東北地方が巨大地震に遭
遇して
も、関東地方の農業がある。災害は不幸なことだが、近くに農業があればこそ、
機敏な
食糧支援が可能となる。
 パニックが起きて、食料品が買い占められ、それも食べつくした後は、海外か
らの輸
入をあてにしたところで間に合わないのである。
 とにかく今は救済優先。そして、時間はかかるだろうが、物心両面の支援を継
続しつ
つ、被害地域の復興に向けて歩みだすしかないだろう。


食と農を歌う

2011年03月07日 16時54分30秒 | Weblog
今年のヒューマンファーマーズのメインテーマは、結成の動機でもある「食と
農を歌
う」である。
 元来ポリシーとして、危機的状況にある食料と農業を守り、日本農業を再生し
て行く
運動の一環として歌ってきた。
 もちろん、趣味が昂じてここまでフォークソングを続けてきたのではあるが、
この目
的を欠いたヒューマンファーマーズはあり得ない。
 ましてや、ここに来て菅首相によるttp参加発言があって、日本農業の崩壊
だけに
は留まらない亡国政治が推し進められているような時こそ、百姓フォークを歌う
ヒュー
マンファーマーズの望むところなのである。
 菅首相が、6月までにtpp参加を検討するとしているために、それまでの間に
それ
に対抗する学習会やら集会などが各地で企画されている。これらにも積極的に参
加して
行きたい。もちろんお呼びがないこともあるだろうが、その場合は、お呼びがな
くても
現れるようにしなければならないだろう。
 また今年の11月18日から20日にかけて、千葉県でかいさいされる日本のうたご
え祭典
で、ヒューマンファーマーズも参加して食と農をうたうコーナーが企画されてい
る。
 ここに繋げるために、千葉県内何箇所かで、プレ企画を組んで行く予定である

 その手始めとして、3月6日に千葉県市原市のサンプラザ・アイスペースでの、
市原平
和フェスティバル春の企画「tppと日本の未来について考える」に出演した。
 プログラムの第一部はヒューマンファーマーズの演奏、第二部が千葉農民連の
小倉事
務局長による講演という次第であった。
 講演に先駆けての演奏であり、非農かの参加者がほとんどということもあった
ので、
耳慣れないtppと日本農業の現状などについての、多少なりとも理解を深める
一助と
なればと心がけたつもりではある。
 この日の出演メンバーは、北嶋誠佐藤せいごう、久保田秀幸の3名で、さしずめ
キン
グストントリオならぬキングコングトリオかキングすっとんトリオといったとこ
ろだろ
う。それでも、「食糧主権が世界を救う」「ライスボート」「水田」など全8曲を
演奏
して、「よく理解できる」「勉強になった」「さすがだねえ」とのお褒めの言葉
もあっ
て、お世辞半分とはいえ概ね好評であった。
 今後の予定では、6月26日に多古町の旬の味センターでの企画もある。演奏の他
に、
講演会、シンポジウム、交流会などがセットされるとより効果的ではないかとも
思う。

春間近にして風邪をひく

2011年03月05日 00時17分43秒 | Weblog
他愛のない話だが、3月を間近にして風邪をひいてしまった。この冬も例年同様
に大
事な用件が続いていたので、注意はしていたつもりなのだが、3月を間近にしてと
うと
うひいてしまった。
 2月11日の「雪の百里初午まつり」まではなんとか頑張ってきた。初午まつりは
、事
前に雪の予報を聴いていたため、十分な防寒対策をして望んだ。「これでは百里
基地で
はなくアツギ基地だね」などと冗談をとばしてはいたが、たしかに寒く、各界か
らの挨
拶や発言が終了した後は、人影もまばらとなり、一部主催者を残すのみとなって
しまっ
た。
 ヒューマンファーマーズの演奏は、そこは抜け目なく開会直前に行なったため
、関係
者は否応ナシに聴く羽目となった。
 この日は、北嶋誠、佐藤せいごう、久保田秀幸の男性3名で、さしずめフォーク
・ク
ルセイダーズならぬフォーク・クルシイダーズといったところで、新曲「ポスタ
ー」を
含め3曲を、無難とも多難とも言えぬが、何とかこなした。
 寒い一日を終えようとして油断したわけではないが、その晩に晩酌をした後、
居眠り
をしてしまって、その時に風邪をひいてしまったようである。
 その後、約2週間にわたって、風邪が抜け切れなかった。楽しみにしていた佐野
市で
の「田中正造を現代に生かすシンポジウム」をはじめ、幾つかの用件をすっぽか
してし
まった。
 3月に入って、演奏活動も始まり、tpp参加に反対する活動もいよいよ本腰を
入れ
て行こう。


ゆっくり始動

2011年01月28日 23時45分04秒 | Weblog
 今年初の書き込みなので、遅ればせながらも明けましておめでとうと言ってお
こう。

 速いもので、21世紀も10年を経過してしまった。この間、どれだけのことが出
来たかは判らないが、家族や友人恩人などにも、少なからず亡くなる人があったし、確
実に時は流れてゆく。

 だから、これからの10年は、後悔しないように焦点を絞って、効果的に最低限
のやるべきことをやっておきたい。どれだけ生き延びることが出来るのかは判らないの
だが。

 ところで、年頭早々に、菅首相のtpp(環太平洋連携協定)と消費税増税発
言で、オトソ気分が吹っ飛んだ方も多いだろう。

 だが、行き詰まったこの国の政治の流れからすれば、これは十分予想されたこ
となので、昨年のうちから今年はどうすべきか、すでに思いを馳せてはいた。

 農民運動もヒューマンファーマーズも、ここは正念場だ。決して大げさではな
く、このような状況に対応するためにも活動してきたと言える。

 だが今年の場合、そうがむしゃらにということにはならない。がむしゃらとは
言っても、一方で、手を抜いたり、失敗したり、遊んだり、反省したり、居直ったりと
、それを含めてのがむしゃらさではあったのだが。つまりは、こういう生き方が、個人
的にも或いはチームとしても、そろそろ限界に来たようにも思う。

 もちろん「自由を求めて歩き続ける」ことをやめるわけではない。ただこれか
らは、マイペースで、したたかに、出きることを一つ一つこなして行きたい。

 私なりに、毎日の3割は仕事の時間であるし、やや不眠症気味なのか、睡眠時間
は4~5時間程度で、万年睡眠不足で、まだまだ余裕が出来るというほどではないが、
継続のためにはさらに改善の努力が必要かとは思う。

 今年のわがヒューマンファーマーズは、1月19日の農民連全国大会のレセプショ
ンが初ステージであった。大会の中でも、レセプションの中でも、主催者も来賓も、
当然の如く、tpp反対を異口同音に強調する事態となった。

 当面のヒューマンファーマーズとしては、菅首相が、6月までに参加するか否か
を決定するというtpp問題を念頭に置いた活動をちゅうしんに据えながら、食糧主
権、戦争の放棄、障害者の権利と合理的配慮などをテーマにして展開して行く。「食糧
主権が世界を救う」をはじめ、さらに創作も進めながら、tppの中身を知らせ、世論
を喚起させて行く為に、農民連、食健連、うたごえ運動などともタイアップして演奏活
動も展開する時である。ただそれでも、ゆっくり始動しじっくり機動をモットーにして
行きたい。

2010年 第4回北関東in佐野足利憲法フォークジャンボリー

2010年11月23日 22時52分06秒 | Weblog
 昨年の10・12北関東憲法フォークジャンボリーinつくばを終えて、心当たりの仲間
たちに次回の開催を要請してきた。

 この北関東憲法フォークジャンボリーは、もちろん継続がまず大事である。だがいつま
でも続けることだけが目的ということでもない。北関東の各地に、雑草の種を蒔いて歩く
のが第一の目的である。

 その雑草が、発芽し成長し、開花し結実して、そして各地に個性豊かに繁茂し群生して
行くことを望んでいる。

 それによって、平和や人間尊重を唱える表現者たちが、この北関東の土壌の中からも必
ずや誕生してくるだろう。

 そして、私たちの願いや運動が、次の世代に受け継がれて行くことだろう。

 今年のジャンボリーの開催地については、茨城県内での連続開催は避けて、他見に照準
を当てて気長にお願いしてきたところ、栃木県佐野市と足利氏の心ある皆さんが、佐野市
での開催を決定してくれた。

 特にゆいうたの岡野さんと佐野歌声の金子さんの、2人の女性が中心となって、地域の
方々に呼びかけていただき、実行委員会を立ち上げた。

 佐野市ではこれまで、うたごえ、音楽鑑賞会、九条の会、田中正造を現代に生かす会な
ど、文化運動や平和運動も地道に根強く展開されてきた。

 北関東憲法フォークジャンボリーではお馴染みのウッドランド・リンギングをはじめ、
アマチュアの市民バンドやシンガーが多数活動もしている。

 特徴的なのは、10代や20代のシンガーたちの多いことだろう。そのことを証明する
かのように、今回は20代と10代の出演者が5チームほどエントリーしている。

 また笠木透ファンも多く、ぜひ一度は笠木透と雑花塾のコンサートを佐野市で開きたい
という強い要求もあった。


2010年 第4回北関東in佐野足利憲法フォークジャンボリー

 日時  2010年 12月26日 日曜日 12時30分から16時

 会場  栃木県佐野市 佐野市民文化会館小ホール

 出演
  笠木透と雑花塾

  坂入健太             さのっ子
  ヒューマン・ファーマーズ     館林ロストシティーランブラーズ
  いわき雑魚塾           ウッドランド・リンギング
  東京クラブランナーズ       小野操とその仲間たち
  北関東歌声ネットワーク      ゆいうた(足利九条の会)
  佐野ジュニアコーラス       星雅人とピースライブ実行委員会
  はらっぱエイサー隊        lough(ラフ)

 会費  一般 1500円  中高校生・障害者 1000円  小学生以下
 無料

 主催  北関東憲法フォークジャンボリー実行委員会
     連根の会

 お問い合わせ
  実行委員会事務局長 岡野睦子  080-5695-3051
  実行委員長     うね澤良浩 0284-21-5797
  連根の会      北嶋誠   0296-35-0931

 後援  佐野市教育委員会

されどフォークソング

2010年11月08日 23時12分24秒 | Weblog
 音楽も地産地消であるなどと言ってみても、フォークソングも所詮は西洋音楽
じゃないかと逆に反論されるだろう。

 たしかにそうかも知れない。だが、この国の音楽は、その長い歴史の中で、た
くさんの民族や音楽が渡来し、交雑してきた。食文化にしても同様で、例えば食べ物で
は、カレーライス、カツ丼、焼きそばなど、今や和洋中華の判別もつかないのではない
だろうか。言わば、国籍喪失、国籍不明の状態なのである。

 特に文明開化、殖産興業、富国強兵、奪亜入欧の明治時代には、欧米の民謡、
宗教音楽、クラシック音楽などが持ち込まれ、その影響を受けて登場した作曲家、滝廉
太郎「花」「荒城の月」、山田耕作「この道」「砂山」、中山晋平「カチューシャの唄
」「ゴンドラの唄」などの作品は、各々に評価の違いはあるにしても、すっかりこの国
の唄や音楽として定着しているのではないだろうか。

 だから、フォークソングを自認するヒューマンファーマーズの唄も、人々の心
の中にどこか懐かしさを感じさせるのかも知れない。

 笠木さんの作品は、かれこれ30年以上前から歌ってきた。」わが大地の歌」
「私の子どもたちへ」「私に人生と言えるものがあるなら」から、「へのちから」「朝
の四時ごろ」などの替え歌まで、青年時代にはフォークコンサートやうたごえ喫茶でも
歌ってきた。

 その笠木透と雑花塾と出会えたことは、それまで何かと思うに任せないことも
度々あっただけに、その後の演奏活動への大きな励みとなった。

 ただ、「お前たち雑草のような人間たちとやって行くぞ!」というお言葉に甘
えて、足を引っ張ってきただけのようにも思えてならない。

 雑花塾とヒューマンファーマーズは、もちろん全く別物だが、「自由を求めて
歩き続ける たとえ路上に行き倒れても」の生き方に、大いに導かれてきた。そんな風
に考えてみると、されどフォークソングなのである。


たかがフォークソング

2010年11月08日 23時11分51秒 | Weblog
 笠木透と雑花塾の皆さんと、お付き合いをさせていただくようになってから1
5年以上になる。笠木さんのフォークソング人生の過程で、私などはまだ新参者なのだ
ろうが、密度の濃い関わりをさせていただいていると勝手に思って感謝している。
 たかがフォークソングと一面では思いながらも、素直に自分の性分には合って
いたのだろう。一方で、自分なりにポリシーを持って打ち込むことが出来たのもフォー
クソングだった。

 学生時代に始まり、社会人となり、農民そして視覚障害者となっても、一人で
あるいはチームで、ここまで演奏活動を続けてきた。

 それでも試行錯誤が続き、想いの相違からそれぞれの道を行く仲間もあれば、
様々な事情で音楽活動から離れて行く仲間もあった。

 もとより、フォークソングは歌も演奏スタイルも自由なものだと思っていた。
チームのメンバーにも拘束はしないし、偏性も固定することはなかった。

 ただし、メンバーの要求を満たすこともまた不可能なことなのである。だから
、メンバーにしても、理解したり協調できることで参加すれば良い事だし、別のチーム
を編成したり、他のチームに参加したり、一人で演奏するなど、それぞれの自分の道を
追求すれば良い事だと思う。しっくりこないまま行動を共にしても、楽しくはないし心
のこもった良い演奏は出来ないとも思っていた。

 そんな時期に、佐藤せいごうとの出会いからヒューマンファーマーズは生まれ
た。時に隆盛を極めていた地域でのアマチュアバンドによる演奏活動などは、一時の流
行に過ぎなかったのか、やがて表面上は下火になって行く。

 そんな中で、止めるでもなく流行音楽に影響を受けるでもなく、結果としてヒ
ューマンファーマーズは、それなりに独創性を増してきたように思う。

 笠木透氏曰く、お前たち雑草のような者にも出来るのがフォークソングである
と。そして、ヒューマンファーマーズのフォークソングはヒューマンファーマーズにし
か表現出来ない。

 私たちごときにも出来るとは、たかがフォークソングということなのだろうか

フォークソングらしく

2010年10月30日 00時23分41秒 | Weblog
 後になって思いおこせば、私がフォークソングを最初に聴いたのは、いわゆるモダンフォークのキングストントリオ「花はどこへ行った」やブラザースフォー「500マイル」などであったのだろう。だがその時は、それがフォークソングであるとの認識はまだなかった。

 フォークソングと称されるもので、最初に興味を持ったのは、日本のフォークでザ・フォーク・クルセイダーズの「帰って来た よっぱらい」を聴いた時であった。
それを契機として、その後、何人かのフォークシンガーに影響を受けている。

 その一方で、ウディー・ガスリー、ピート・シーガー、カーターファミリー、ボブ・ディランなど、モダンフォークから、さらにはマウンテン、ヒルビリー、オールドタイムに至るまで、アメリカンフォークソングの源流トラディショナルを辿って行くことになった。

 ところで、今年は元フォーククルセイダーズの加藤和彦が亡くなった。私が影響を受けた日本のフォークシンガーとしては、これまでに高田渡、坂庭省吾、木田高介らの各氏が亡くなっている。

 この国のフォークソングとやらで最初に衝撃を受けたのは、やはり14歳の頃に聴いたフォーク・クルセイダーズである。次いで10代の頃は、高石友也、高田渡と来て、1時は吉田拓郎に傾注した。そして20代になって、高石ともや&ザ・ナターシャーセブンに舞い戻り、現在は笠木透と雑花塾という次第である。

 ただ風市の効いた唄とアコースティックギターの音色に見せられて、趣くままにということでは、終始一貫していたのかも知れない。

 1970年代初めの頃、高石ともや&ザ・ナターシャーセブンと笠木透&我夢土下座による「フィールドフォーク」の3枚のlpレコードを拝聴してから、笠木透のファンになった。

 だがその後、フォークス、雑花塾と活動を続ける彼の生演奏を直に聴く機会は全くなかった。たしかに以前には、茨城県方面への公園はほとんどなかったようである。

 私が笠木透と雑花塾のコンサートを初めて観賞できたのは、1995年黒磯市民会館でのコンサートだった。

 ナターシャーセブンは何度も聴いていたのでどうしてもそこと比較してしまったのだが、正直に言って、前者はプロで後者はあまだと思うほどの違いを感じた。

 だが、テクニックの上ではナターシャーのほうが優れているかも知れないが、雑花塾は、笠木さんのmcのメッセージが鋭く面白い。普通のおじさん?おばさん?が楽器を持って、自分たちのメッセージを個性創造性豊かに歌い演奏していた。私にとっては、理屈でなく素直にその演奏やメッセージに共感共鳴できた。

 これぞ日本型フォークソング!とまで大げさには言わないが、この国に生きる人たちによるフォークソングの一つの在り様だと感じた。

 フォークソングの定義とやらがあったにしても、これまた食べ物と同じく地産地消が基本なのだろう。この地方に生きる人たちとの結びつきを大事にしたいと思う。

 もとより、「野良の話題から世界の平和まで」を自認するヒューマンファーマーズなのだが、プロではないし技術も伴わないままグローバルなテーマも追求してきた。これはこれで良いのだが、余裕がない分だけ、地元での活動がおろそかになっていた。

 私自身としても、これを生業としているわけではないが、生活の大事な部分を構成していることは事実で、音楽や文化を通して仲間をつくりネットワークを広げてきた。

 立場上しばらくの間、広域的な活動が多かった。すっかり疎遠になっていた昔の仲間たちともこのところ寄りを戻しているのだが、彼らも歌や音楽文化を求めていることを改めて痛切に感じた。

 今を 精一杯生きている人たちの、社会運動に伴なう演奏活動もフォークソングらしいのだが、地域の仲間たちとのんびり演奏活動を続けて行く事も、またフォークソングらしいと思っている。

栗ひろい

2010年10月21日 23時50分33秒 | Weblog
 我が家に隣接した畑に、十数本の栗の木がある。最も古いもので、45年以上
前に植えたものもある。新しいものでも、35年くらいにはなるだろうか。

 これらの苗木は、カフェhananaの近くで、かすみがうら市(旧千代田町)志筑
で農業を営む親戚から融通していただいたものである。

 品種は千代田早生、伊吹、丹沢、筑波などであったが、これらの品種は現在で
も残っているようだ。ずっと放置したままだったので、カミキリムシの幼虫にも木の髄
を食い荒らされているとは思うのだが、けっこう枯れないでいる。

 そう言えば、無農薬栽培だったので害虫にはよく被害を受けたが、人的被害、
早く言えば栗泥棒も度々出現したものである。

 今では菜の花まつりをしている周辺は、かつては栗栽培地であった。その数百
m北側にはブドウ園があった。そのブドウ園でぶどう狩りをしてきた人たちが、その帰
り際に、自主的に?無料で栗狩りをして行くこともあった。

 当時は、2haくらいは栽培して出荷していた。だが栗もご他聞に漏れず、輸
入品に押されて採算にあわなくなったため、出荷を止めてから25年以上にもなるだろ
うか。

 その後大部分は、切り倒して牧草地などに変わってしまったが、屋敷周りの
栗の木だけはそのままになっていた。

 毎年身を実らせているのだが、ほとんど収穫されないのを見かねて、3年ほど
前からは、わが文化サークルかるちあ農園のおばさんたちが栗ひろいにやって来るよう
になった。

 ご承知のように、今年は異常気象の猛暑日が続いたためか、小粒の実が多いよ
うである。収穫量も少ないようで、栗の値段も高騰している。ある人がスーパーで栗を
買おうとしたら、やけに高くて、しかも中国産だったそうである。

 茨城県は美味しい栗がたくさん生産できるのだが、ひろう人もない。その一方
で輸入品に満ち溢れているこんな理不尽なことがあるだろうか。

 おばさんたちは、初めは3人くらいと予想していたが、栗ひろい当日には6人
に増えていた。

 なぜ栗ひろいと言うのか。枝に成っている栗の実を取ろうとして、もしイガご
と落ちてきたら、死ぬことはないだろうが、痛い目に会うことになる。だから成れてい
ない人には、落ちている栗だけを収穫していただくようにしている。