ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

SIONの歌と消し去れない影の人格

2011年11月20日 | 音楽
昨日も雨の1日ということで、何となくSIONの曲を流してみる。こうやって聴いてみると、どのあたりからかというのは不明だけれど、初期のSIONの曲と後期のSIONとでは雰囲気が大きく違っている。

例えば初期の名曲「SORRY BABY」にしろ「コンクリート・リバー」にしろ「俺の声」にしろ、それらは社会から疎外された者、社会に対する怨嗟、そうしたルサンチマンがベースにある。だからこそその歌にはたとえ優しい歌であったとしても「孤独」や「悲しさ」が漂っている。

しかしいつからかSIONの曲にはそうしたルサンチマンではなく、人に対する優しい眼差しで溢れ出す。

「Please Look At Me」、「MACHIKO」では「愚かな」なくらい愛しい人への想いを歌っているし、「12号室」ではラストに待つ「暗さ」も含めて優しさに満ちている。決して社会的には「成功者」とはいえない中で、しかし社会に対しての呪詛を歌うのではなく、そんな中で生きていくことの「優しさ」や「愛おしさ」、「希望」、「共にがんばっていこう」という前向きな姿勢、勇気…そういったものに溢れている。

しかし人の心性とはこんな風に変わるものなのだろうか。

いや、もちろん変わることはできる。ここで問いたいのは、そのように変わったままで、新しい人格として生き続けていけるのだろうかということ。

人が変わるきっかけというものはいろいろあるだろう。何らかの「コンプレックス」があったり、自分の「嫌な部分」や「マイナス思考」、抱え込んでいる「暗さ」…そんなものを拭い去り今とは違う自分になりたいと思ったことは誰でも一度くらいはあるだろう。

そして何らかの経験から内省したり、自己啓発本を読み漁ったり、あるいは恋人や家族と過ごすことによって、それまでの自分とは違う新しい自分に生まれ変わったってことも少なくはないはずだ。

しかしその一方で思う。新しい人格を育て、幸福によりポジティブに生きることができるようになればなるほど、同時に抹殺したはずの「影」の人格も大きくなっているのではないか。それは抹殺されたり克服されたりしたわけではなく、自らの出番を虎視眈々と狙っているのではないか。

狩撫麻礼/かわぐちかいじの作品「ハード&ルーズ」の中に「夢の刺客」という逸話がある。

旅行業界の風雲児と呼ばれ社会的成功者である真島が毎晩、相手を追い詰め、その胸を刀で一刺しして殺人を犯すという夢にうなされる。しかし相手の顔を思い出すことができない。いずれ誰かを殺めてしまうと心配になった真島は探偵である土岐に調査を依頼する。

土岐は真島の人間関係を洗っていく。しかしこれといった相手が見つからないまま、過去を遡り、小学生時代の恩師の下を訪れる。そこで土岐が聞いたのは、成功者とは裏腹に吃音で、気が弱く、内気で、しかし天使のような声でソプラノを歌うことができた真島の姿だった…そしてその調査の途中に、真島は自ら自身の命を絶つことになる。

自らが成功者になることと引き換えに、真島が眠らせた「影」の人格が彼自身に復讐を果たした瞬間だった。

経済成長していく社会の中で成功者となるために、いや、そうでなくともこの社会に適応していくために、自らのナイーブな部分、優しさや弱さといったものを代償としていくこと、それは決して真島だけの話ではないだろう。そうやって自らの隠した人格は「影」の人格となり、いつでも僕ら自身を暗闇の中に引きずり込もうとする。

このことを「考え過ぎ」という言葉で片付けることはできないだろう。

ビリー・ミリガンに見られるように多重人格(解離性同一性障害)の人間が、安定した人格を手に入れた後でも病を再発することはままあることだし、村上春樹のような作家ですらいつまでたっても同じテーマを繰り返し作品にせざろうえないのも、彼らが「影」の人格から解放されていないからだといえる。

「孤独」を恐れるものはいつまでも「孤独」になることを恐れるし、一度「死」に取り憑かれた人間はいつまでも「死」のことを想い続けるのだ。

結局のところ、こうした「影」の人格を克服すべきもの、消し去るべきものとして捉えている限り、この影の存在に悩まされることになる。それは自分の1部として「在る」ものとして捉えること、そうした「弱さ」や「おぞましさ」や「愚かさ」を認めた上で共に生きていくしかないのだろう。


SIONの歌、泣きたい夜/泣ける夜 - ビールを飲みながら考えてみた…

ゴールデン☆ベスト / SION



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