◎2021年2月21日(日)
「嵩山」と書いて「たけやま」と読む。死者の霊が山上に集まる霊山。天狗が住む山とも言われ、それぞれのピークには大天狗、中天狗、小天狗の名前がつけられている。また、ここにはかつて嵩山城があり、岩櫃城の前衛城とされ(新たに築城したのか、奪取された城なのかは自分には調べられなかった)、戦国期には、武田側の真田氏によって岩櫃城が攻められると、今度は嵩山城が謙信の支援を受けたものの落ちてしまった。この戦いを嵩山合戦という。てんこ盛りの逸話のある山のようだ。
そんな前知識を持っていたわけではない。ただの中之条町にある、岩峰ながらも地味な群馬百名山に過ぎなかった。観音像があちこちに置かれているということで興味を持ち、霊山やら天狗、城址のことを知ったのは、山に入ってから見た解説看板を読んでのことだ。ただ、駐車場は<道の駅 霊山たけやま>を利用するということで、「たけやま」に冠した「霊山」というのが気にはなっていて、観音像群だけでは済まないものがあるのじゃないのかと漠然と思ってはいた。
そもそも、この観音像群のことも詳しくは知りもしなかった。後で調べてわかったことは、嵩山合戦での戦死者を弔うために、江戸から住み着いた僧と地元の人々の協力で、元禄15年から一年がかりで坂東三十三番の観音像を建立し、後に秩父三十四番、西国三十三番を建てたとのことで、信仰心の薄い自分には都合、百の観音像があるように思えるが、実際にあるのは四十三体で、ナンバーは三十三番までとなっているようで、こうなると、ますますわからなくなってしまう。単に、観音像のそれぞれに秩父と西国の魂入れをしただけのことなのか…。山に巡礼に行くわけでもなく、そのあたりにはあまり首を突っ込まないようにしよう。それでいて、いつかは四国の札所巡りや熊野古道を歩き通してみたいものだのと思っているのだからあきれてしまう。
(駐車場から嵩山の一角。あそこから下まで鯉のぼりを泳がせるらしい)
(道の駅霊山たけやま)
(早速、間違える。これが一番観音かと思ったが、右の小さいのが一番。社は雨降り社)
(登山道。最初のうちはおとなしい道)
道の駅は適度に混んでいた。駐車場は半分以上は空いてはいても、中之条あたりの道の駅としては混んでいる方だろう。同町には他にも道の駅はある。ハイカーの姿も結構目に付く。天気も良く暖かく、おそらくは陽気のせいだろう。駐車場の目の前に岩峰が二本並んで立っているのが見えている。まさか、あんなところに登山道が通っているわけではあるまいな。この時点での目的は、まだ、数多くの観音像を見ることにしかなく、危険な歩きをするつもりはない。
標識に従って「表登山道」から入る。反対向きの「東登山道」は帰路で使用のつもりだ。早速現れたのが<一の木戸>。説明板には嵩山城の大手門跡とあった。ここで、この山が城址であることを知る。武田、上杉の争奪戦の城だったようで、落城の戦いが「武山(嶽山)合戦」とあるから、当時は嵩山ではなく武山もしくは嶽山とでも言われていたのか。ここに一番観音があるとのことで、寄ってみると、確かに立派な観音像はあるものの、自分がそう思った一番観音は後世に造られた大きい方で、本来の一番観音はその隅にちんまりと写っていた。その時はまったく気づいてもしていない。
今回の歩きには、道の駅で発行した『ハイキングコースと嵩山三十三観音図』を刷り出して持参していた。大天狗から北にコースから離れる烏帽子岩(二十七番)、五郎岩(二十八~三十一番)、獅子鼻(三十二番)、さらに地図には出ていないが、西登山口側の三十三番を除いた26の観音像だけは確認しておきたいと思っていたが、写真に写っていたから後になって気づいたわけで、一番からお粗末なことをしていたことになるが、これが二十六番でも同じようなことをやらかすことになる。
(こんなのが置かれていた。東京を意識することもないのに)
(クネクネした、やや急な上り)
(五合目標識。以前は律義に合目標識があったのだろうか)
すぐに山道になった。クネクネと登っていて、わりに急だ。今日は岩場もあるだろうとストックは持参しなかったから、正直のところ支えがないのではきつい。見上げると、5人ほど先を歩いている。「標高634m ここはスカイツリーと同じ高さです」のポスターを見やり、やがて「五合目」標識。この合目標識は、ここまで見ず、忽然と現れた。気づかなかっただけかもしれない。
(展望台から。榛名連山。これだけはわかったが、水沢山が左にあるのに違和感を覚えている)
(後ろの白いのは浅間山かと思うのだが)
(これがあちこちに置かれている)
「右・小天狗、左・展望台」の標識を展望台側に行ってみた。確かに展望台があり、登って景色を眺めると、南側の正面に榛名連山が見えた。その右手には三角形の目立つ山が見えていて、子持山かと思ったが、子持山なら、ここから見るなら榛名の左手だろうし、まして後ろには白い峰がいくつか見える。何山なのだろうか。方向感覚がまるでない。満喫というレベルの景観でもないが、休憩できたし、戻って小天狗方向に向かう。
クネクネ登りもそろそろ終わりのようだ。頭上を見上げると丸みを帯びた岩が見えた。やはりこの山、岩稜歩きは避けられないようだ。「岩登り禁止」の看板があった。以降、ちょくちょくこれを見かけることになるが、つまりは岩登りするのがいるのだろう。ダメ押しのように、両登山口の入口には、「ここは五反田村の信仰の山。死者の霊が集まる霊山でもある。岩にハーケンやボルトを打ち込むと、そこに水が溜まり、冬になれば凍って、岩を破壊することになる。だから、岩登りはやめてもらいたい」という主旨の看板が五反田住民一同の名前で置かれていた。よほどに深刻な問題にもなったのだろう。岩登りは自分の範疇外だから、その手の人たちの気持ちはわかりかねるが、普通の感覚なら、霊山と崇められるような山の岩を登攀の対象にはしないのではなかろうか。
(蝙蝠穴と二番看板)
(穴の中に二番)
(八番、九番)
(九番の右隣りのこれはノーナンバー)
(十番。一々写真を載せていたらきりがないから、以降は適当に割愛)
(十番はこんな岩の下にいらした)
「休石」というスポットの右に二番、左に三番があった。下って二番に行く。岩の下が奥の浅い洞窟状になっていて、ここに観音様が置かれていて、洞窟は「蝙蝠穴」らしい。脇に御札があった。もう字も読めなくなっているが、かすかに那智山青岸渡寺が読み取れる。この先にもお札はあった。わざわざ熊野から来たわけでもあるまい。この山が修験道者に有名とは思えない。その支部かグループが関東にでもあって、その方々が修験に来ているのではないのかと思うのだが、勝手な想像だ。三番もまた大きな岩の下に安置されていた。
クネクネ道はすでに終わっていた。順番どおりになるのかと思ったら、次の標識は八番、九番で、少し脇道に入ると岩の下に並んでいた。ここまでくると、観音様を安置した場所は岩の下の庇状になっているところということになるようだ。その少し先の十番も確認。
(天狗の広場)
(小天狗。岩峰)
(ここはさほどに険しくはなかった)
(小天狗山頂の大鳥神社)
(梵天かと思うが)
(方向的には上越方面になる)
(真下に不動岩)
登山道に戻って登ると「天狗の広場」。ベンチと東屋が置かれ、小広くなっている。ここは小天狗と大天狗の分岐になっていて、一旦、小天狗に行き、またここに戻って大天狗に向かうようになるらしい。小天狗方面に足を向ける。さっきから、前を二人のオバちゃんが歩いているが、彼女たちは観音像には興味はないのか、もしくはここを歩き慣れているのか立ち寄ることはしない。やはり小天狗に向かっている。
道が分岐して、右が六番、七番、左が四番、五番。それぞれの標識には添え書きがあり、前者には「小天狗へ」、後者には「不動岩へ」とある。地図を出すと、小天狗を挟んでの周回になっているようだ。不動岩には行く気はなかったが、地図に「不動明王」と記されているのに気づいた。観音様だけ見ているのでは飽きる。不動明王を見ておくのもいいだろう。
目の前に岩峰が見えてくる。あれが小天狗らしい。途中で不動岩に行く道が分岐したが、小天狗に登る。岩峰とはいってもクサリがあるわけでもなく、あっさりと登れた。ピークには石祠(大鳥神社)と梵天のようなものが束で立てかけてある。ここからの展望はなかなかだ。さっきの展望台で方向感覚がおかしなままだから、榛名はわかっても、雪山の連山は何山なのかわからない。楽勝で登ったとはいえ、かなりの高度感があり、まして、狭い。だれもいないからいいものの、いたら窮屈になる。真下には不動岩が見えている。むしろあちらが尖頭状で手ごわい感じがある。高所恐怖、閉所恐怖症ゆえ、そそくさと下る。後で気づいたが、小天狗の登り口にはしめ縄があった。
(四番。ここにもノーナンバー。観音様ではないからだろう)
(不動岩への登り)
(クサリが上から垂れている)
(不動岩山頂の不動明王像)
(あちらが中天狗と大天狗だろうか)
(後ろから失礼。小天狗)
(クサリ場下り。オバちゃんたちは慣れた感じで下って行った)
大岩伝い、つまりは小天狗の裾野だが、巻いて下っていくと四番。なぜか二体あるが、一体は観音様ではないようだ。この先も無名石仏がいくつか置かれている。そして不動岩直下。クサリが垂れている。上で人が休んでいる。例のオバちゃんたちのようだ。クサリは使わずに登った。上はかなり恐く、小天狗よりも狭い。ここに3人だ。そっちも大丈夫よと言われたので、反対側に回ると、少しのスペースはあった。オバちゃんと話をすると、やはり、嵩山の常連さんだった。ここで不動明王に対面。写真を撮っている間にオバちゃんたちは下って行った。撮るものだけ撮ったら用事はない。ここもまたさっさと下る。
(石門)
(天狗の広場に戻る)
反対側から回ると、石門が現れて、向こう側が見える。石門とはいっても、大石が落ちて来て塞いでいるだけのこと。六番と七番があるはずだと、うろうろしていると道を外れて上に向かっていた。踏み跡も消えた。自分と同類だろう。戻ると、オバちゃんたちがまだいたので、道を尋ねると、しっかりした道があるじゃないか。ここで六番と七番を確認できたが、五番を見おとしていたのに気づいた。地図では四番のすぐ先で、不動岩に登る前。まぁいいかと、パスして天狗の広場に戻った。
天狗の広場から展望を眺めようとしたら。ここからの鳥瞰図板が置かれていた。いつも見慣れているのとは逆方向の山の配置だ。正面の榛名山は正解だが、左は赤城、子持山、日光連山で、右は岩櫃山、浅間隠、浅間山になっている。こうなると、浅間は雪があるからなるほどと思っても、その前の三角形の山がすっきりしない。ここでも、まぁいいかにして、大天狗に向かう。
(三社神社)
(胎内くぐり。見ようによっては何となく卑猥な感じがする)
(十一、十二、十三番のトリプル)
「胎内くぐり 十一~十三番」の標識があったので、進行方向から外れてそちらに下る。これでは、なかなか大天狗には行き着けそうもない。すぐにあったのは三社神社の石祠。しめ縄付き。そして胎内くぐりになった。地図で確認すると、八番、九番、十番は別ルートでの破線路になっている。律義に見ておく必要もないので、見られたら良し程度にしておく。この胎内くぐりだが、右に回り道はあった。看板には「腰回り85cmが限度」とある。厳しい感じはしたが、堂々と正面からではなくカニ歩きをすれば問題ないだろうとザックを手に持って横スタイルで通ったが、結構厳しかった。狭い岩間だが、無理に通る人もいるのだろう。岩壁は雑巾で拭いた後のようにきれいで、着ているシャツが汚れることはなかった。問題はその先のクサリ場。岩から出ると厳しそうな下りだった。
下りではクサリを使うのが安全。まして落葉で滑りそうだった。その途中で十一番、十二番、十三番が並んで岩の隙間に安置されているのを見た。不安定な位置で、写真はピンボケになってしまった。
(十四、十五番の真上にある岩)
(上に登る。クサリつかみの必要はないが、雨で濡れていれば、岩も滑るだろう)
そのまま下って行くとこれもまた岩下の下部の庇の下に十四番と十五番。そろそろ観音様にも飽きてきた。300年前の古い石仏とはいっても、ほとんどが同じポーズだ。観音様だから、ポーズのとりようはないかもしれない。まして、雨露はしのげても、顔と胴体は風化しつつあって、みんな同じ観音様にしか見えない、まして、背丈はほぼ一緒だ。
大分下っていたが、ここで「槌岩」の標識があって、上に向けている。槌岩は地図には載っていないが、大天狗に登るには、そろそろ上に行かねば、そのまま下り予定の東登山道に出てしまう。
あまり歩かれていないコースのようで、踏み跡がかすかにある程度だった。ステップがあったのも最初のうちで、落葉で滑るのをこらえて登ると、岩場の間にクサリが出て来て、どういうわけか十六番。次の十七番は見ないままに登ると、小天狗と大天狗を結ぶ稜線に出てしまった。
(中天狗の石尊社)
ここは鞍部(「小袖の渡し」というらしい)になっているようで、大天狗、小天狗とは違う方向に「中天狗」の標識があり、そちらには東西に小ピークがある。右手・東側に上がるとそこは何もないピークで、踏み跡は続いているから、そのまま下ってもいいのだろうが、中天狗にこだわってしまったので、引き返して反対側に登ると、石祠の脇に「石尊社」の標識が置かれている。そして、ここが「中天狗」だった。小袖の渡しも石尊社も、詳しい地図ながらも記されてはいない。それはさておき、何だか、ゲームを楽しんでいるような気分になってきた。楽しいうちはいいが、うんざりにならなければいい。ただ、1/4は飽き気味になりつつある気配。
次は二十六番。道標に合わせて行ってみたはいいが、二十六番標柱は埋められているものの、肝心の観音様が見えない。上はヤブ状になっていて、踏み跡もない。周囲を見ても存在の気配がない。どこかに転がり落ちたのかと道の下を見てもなし。これは後で知ったことだが、左に岩があり、その岩棚に安置されていたらしい。自分のように見落とす人も多いようだ。注意力が散漫になりつつあったようだ。
(無常の平の石仏群サークル)
(ヘアースタイルが違うから、これが阿弥陀如来だろうか)
(置かれた解説板)
平らな一角に出た。そこには石仏が四角形に整然と並んでいた。解説板を読む。阿弥陀如来一体、観音像七十体、計七十一体が安置されてあるとある。ここにあるのは西国、秩父分の七十一体なのだが、冒頭に記した数では六十七体になるから四体多いことになる。そんな細かいことはどうでもいいことで、そんなことよりも、「魂入れ云々」のことは何とも気恥ずかしい。ちなみに、ここが嵩山城の本丸跡ということになっていて、石仏の名称は「西国秩父観音群」となっている。広場の名前は「実(御)城の平 無常の平」とあり、地図では「無情の平」で記されている。無常と無情では意味が全然違う。ここにも東屋とベンチがあり、何人かが休んでいる。そういえば、人出も目立つようになった。マスクをしているのは数人。自分はしていない。
この先で、大天狗、東登山口、五郎岩の三方向に分岐する。「経塚」の標識が置かれている。一般的に経塚は仏教の経典を埋めた所のことだが、ここもそうなのだろうか。場所の特定はできなかった。ここは大天狗方面に行き、ここに戻って東登山道から下ることになる。五郎岩方面には烏帽子岩、獅子鼻も含めて二十七番から三十三番まで七体の観音像があるようだが、「岩」という字には尻ごみするので、そちらはいいだろう。大天狗にしても岩峰なのだが、オバちゃんたちの話では、小天狗や不動岩よりも楽だとのことだから行くし、三角点があるからには、嵩山の山頂なのだろう。
(大天狗への岩場)
(大天狗)
(山頂の神社)
(判別しづらいが烏帽子岩が屹立している。その向こうが五郎岩)
(嵩山の三角点)
(中天狗と、奥に小天狗)
(どんどん登って来る。自分は右の岩下の溝状の道を下った)
すぐに岩場になった。丸みを帯びた大岩が続いている。女岩というらしい。これに対し、道の駅から見えた岩は男岩とのことだ。クサリが続いてはいるが決して急ではない。先行者がクサリを使って登って行くので、接近歩きをするわけにもいかず、よく観察すると、クサリを使わずとも、岩の下の縁側が道状になっていて、問題なく山頂まで行けた。スリルを味わいたいならクサリを使えばいいが、自分は下りを含めてクサリには手を触れなかった。
こんもりと丸い岩が山頂だった。ここにも石祠があり、梵天のようなものはないものの、何に使うのか、長い金属ポールが立っている。ロープ状のヒモも付いている。ここの神社名は何というのか、地図にも記されていない。
真下に烏帽子岩が見える。ここもまた、高所恐怖症にはつらく、山頂の岩から下り、三角点を確認してさっさと下る。女岩をハイカーがどんどん登って来る。確実に混み出している。
(経塚の広場に出る。手前に下る)
(とはあるが、嫌いな言葉だが、自己責任で乗り越える)
(これだもんな。落石がなくとも恐いわ)
(二十四番)
(二十五番との間にあったノーナンバー。台座には二廿三番とあった)
(一升水。岩に穴がある。そこから岩清水が流れていたのか、時期的に流れるのか)
(二十一番にあった石)
広場の分岐から東登山道を下る。沿線には十九番から二十五番の標識がある。こちらもまたクネクネした下り坂になっている。「七合目」通過。また首を傾げる。左手側に通行禁止の通せんぼが現れた。落石の危険からのようで、確かに、先を見ると、道の真上に垂直の岩が続いている。きっと、こんなところにクライマーが集まるのだろう。ただ、ここを素通りすれば、観音像のいくつかは見られない。周囲にだれもいないのを確認して入り込む。
岩の下に二十四番。続いて二十五番。いずれも岩の庇はない。これまでの石像と違って、雨にもさらされるだろうに、目鼻立ちがしっかりしているのが不思議だ。そういえば、前半で見た観音様とは顔立ちと体つきに変化が出ている気がする。目鼻立ちの端正なのもあれば、ごつい感じの観音様もいる。続いて「一升水」。岩に穴が開いている。ここから水が出るしくみだろうが、水気はない。すぐ隣に二十二番。そういえば、二十三番は標柱も見かけなかった。あったのだろうか。二十一番はなぜかのっぺらぼうの尖った石。
その先は岩がせり出して行けず、歩道に戻る。踏み跡があったのでショートカットを行くと、「五合目」に出た。地図を見ると、脇道に逸れて十九番と二十番があるはず。そこもまた入り込めないように通行禁止処置をされている。乗り越える。
(ここを越えないと十九番と二十番には行けない)
(さらに通せんぼ)
(まさかと思った。危険だから行くなということだったようだが、クサリそのものは新しい。直登ならともかく、横這いで行くのはしんどい)
(二十番)
(真ん中付近の穴の中に二十番はいらした。弥勒穴)
(弥勒穴の講釈)
「弥勒穴 十九・二十番」の標識が出てきて、長い石にはステップが穿っている。そして、改めて「この先行き止まり」。倒木で道は荒れてきた。そこに十九番の標柱。観音様はどこにもいない。見上げると、少なくも60度はありそうな岩に、横にクサリが張られている。なるほど、あの岩壁に上がって、横に移動しろということか。クサリがあってもそれは無理でしょう。先に二十番があるかと思ったが、見あたらず、とりあえず、クサリを頼りに岩壁を横断してみた。意外と足場はしっかりしていた。そこにあったのは十九番かと思ったが二十番だった。弥勒穴に安置されていた。落ち着かないので、さっさと戻って歩道に出た。
後は何もない。ただ、地図を見ると、十八番を確認していないことに気づいた。標識に「胎内くぐりから小天狗へ」があったのでそちらに行く。手前から十八番、その先が十七番で、さっきは十七番を確認できずに十六番を経由して稜線に出てしまっていたので、改めて十七番も探すべきだろうが、そちらはもういい。大分飽きてきたので、十八番だけでいいだろう。
(仰ぎ岩)
(本日のラスト。十八番)
右に「仰ぎ岩」を見る。そして、先の岩の下に十八番があった。もう終わり。すべてを確認していたらきりがない。ここまでも、標柱があっても現物を見ていないのがあったし標柱すら見なかったものもあった。繰り返しになってしまう。いつの日か改めて…。そういう気持ちは起きないだろう。一回の体験で十分。嵩山がこういう山だと知っただけでも、先日の凡庸な崇台山に比べたら、強烈な印象として残るに違いない。
(下る)
(東登山道の鳥居)
(ハイキングコースの看板。立入禁止の弥勒穴も記されたままになっている)
(道の駅に戻った。中に入ってみたが、自分が買えそうなものはマスクくらいしかなかった。もっとも買いはしなかったが。家に帰ればマスクの買い置きだらけだ)
下って行くと、またスカイツリーのポスター。鳥居を通って道の駅に出た。歩いた時間は2時間半。もう少し延びていたら完全に飽きたかもしれないが、飽きる寸前に観音様も終わってよかったとも言える。道の駅の車の数は多くなっていて、道の駅そのものにはさして客はいず、山に入っている人が多いようだ。
今日はたかが2時間半の歩きだったが、変化のある歩きを楽しめた。嵩山への前知識を持って入山したら、もっと楽しめたかもしれない。この嵩山は、天狗の山→岩櫃城のガードとして築城→落城で悲惨な死者→観音像といった流れで霊山になったような気がするが、「死者の霊が集まる霊山」となったのは、どの矢印の間に入るのだろうか。
中之条町には、もう一つ、群馬百名山未踏の山があったが、暑くなってきたら面倒になった。まして、危険な山らしいので、短時間とはいえ、ついでの登山はよした方がいいだろう。いずれ、また中之条まで来なければならない。
陽気のせいだろう。こんなマイナーとも思える山にも、ハイカーは普通にいたし、道路もまた混んでいた。
※身勝手な行動を随所でやっていますが、標識に記された規制には従った方が賢明です。三十三観音像をすべて見ようとして事故にでも遭ったら、観音様詣でのご利益もなくなりますよ。参考まで追記いたします。
(今回の軌跡)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)、数値地図25000(地名・公共施設)、数値地図250mメッシュ(標高)、数値地図50mメッシュ(標高)及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 平24情使、 第921号)」
(付録。これを持参して歩いた)
「嵩山」と書いて「たけやま」と読む。死者の霊が山上に集まる霊山。天狗が住む山とも言われ、それぞれのピークには大天狗、中天狗、小天狗の名前がつけられている。また、ここにはかつて嵩山城があり、岩櫃城の前衛城とされ(新たに築城したのか、奪取された城なのかは自分には調べられなかった)、戦国期には、武田側の真田氏によって岩櫃城が攻められると、今度は嵩山城が謙信の支援を受けたものの落ちてしまった。この戦いを嵩山合戦という。てんこ盛りの逸話のある山のようだ。
そんな前知識を持っていたわけではない。ただの中之条町にある、岩峰ながらも地味な群馬百名山に過ぎなかった。観音像があちこちに置かれているということで興味を持ち、霊山やら天狗、城址のことを知ったのは、山に入ってから見た解説看板を読んでのことだ。ただ、駐車場は<道の駅 霊山たけやま>を利用するということで、「たけやま」に冠した「霊山」というのが気にはなっていて、観音像群だけでは済まないものがあるのじゃないのかと漠然と思ってはいた。
そもそも、この観音像群のことも詳しくは知りもしなかった。後で調べてわかったことは、嵩山合戦での戦死者を弔うために、江戸から住み着いた僧と地元の人々の協力で、元禄15年から一年がかりで坂東三十三番の観音像を建立し、後に秩父三十四番、西国三十三番を建てたとのことで、信仰心の薄い自分には都合、百の観音像があるように思えるが、実際にあるのは四十三体で、ナンバーは三十三番までとなっているようで、こうなると、ますますわからなくなってしまう。単に、観音像のそれぞれに秩父と西国の魂入れをしただけのことなのか…。山に巡礼に行くわけでもなく、そのあたりにはあまり首を突っ込まないようにしよう。それでいて、いつかは四国の札所巡りや熊野古道を歩き通してみたいものだのと思っているのだからあきれてしまう。
(駐車場から嵩山の一角。あそこから下まで鯉のぼりを泳がせるらしい)
(道の駅霊山たけやま)
(早速、間違える。これが一番観音かと思ったが、右の小さいのが一番。社は雨降り社)
(登山道。最初のうちはおとなしい道)
道の駅は適度に混んでいた。駐車場は半分以上は空いてはいても、中之条あたりの道の駅としては混んでいる方だろう。同町には他にも道の駅はある。ハイカーの姿も結構目に付く。天気も良く暖かく、おそらくは陽気のせいだろう。駐車場の目の前に岩峰が二本並んで立っているのが見えている。まさか、あんなところに登山道が通っているわけではあるまいな。この時点での目的は、まだ、数多くの観音像を見ることにしかなく、危険な歩きをするつもりはない。
標識に従って「表登山道」から入る。反対向きの「東登山道」は帰路で使用のつもりだ。早速現れたのが<一の木戸>。説明板には嵩山城の大手門跡とあった。ここで、この山が城址であることを知る。武田、上杉の争奪戦の城だったようで、落城の戦いが「武山(嶽山)合戦」とあるから、当時は嵩山ではなく武山もしくは嶽山とでも言われていたのか。ここに一番観音があるとのことで、寄ってみると、確かに立派な観音像はあるものの、自分がそう思った一番観音は後世に造られた大きい方で、本来の一番観音はその隅にちんまりと写っていた。その時はまったく気づいてもしていない。
今回の歩きには、道の駅で発行した『ハイキングコースと嵩山三十三観音図』を刷り出して持参していた。大天狗から北にコースから離れる烏帽子岩(二十七番)、五郎岩(二十八~三十一番)、獅子鼻(三十二番)、さらに地図には出ていないが、西登山口側の三十三番を除いた26の観音像だけは確認しておきたいと思っていたが、写真に写っていたから後になって気づいたわけで、一番からお粗末なことをしていたことになるが、これが二十六番でも同じようなことをやらかすことになる。
(こんなのが置かれていた。東京を意識することもないのに)
(クネクネした、やや急な上り)
(五合目標識。以前は律義に合目標識があったのだろうか)
すぐに山道になった。クネクネと登っていて、わりに急だ。今日は岩場もあるだろうとストックは持参しなかったから、正直のところ支えがないのではきつい。見上げると、5人ほど先を歩いている。「標高634m ここはスカイツリーと同じ高さです」のポスターを見やり、やがて「五合目」標識。この合目標識は、ここまで見ず、忽然と現れた。気づかなかっただけかもしれない。
(展望台から。榛名連山。これだけはわかったが、水沢山が左にあるのに違和感を覚えている)
(後ろの白いのは浅間山かと思うのだが)
(これがあちこちに置かれている)
「右・小天狗、左・展望台」の標識を展望台側に行ってみた。確かに展望台があり、登って景色を眺めると、南側の正面に榛名連山が見えた。その右手には三角形の目立つ山が見えていて、子持山かと思ったが、子持山なら、ここから見るなら榛名の左手だろうし、まして後ろには白い峰がいくつか見える。何山なのだろうか。方向感覚がまるでない。満喫というレベルの景観でもないが、休憩できたし、戻って小天狗方向に向かう。
クネクネ登りもそろそろ終わりのようだ。頭上を見上げると丸みを帯びた岩が見えた。やはりこの山、岩稜歩きは避けられないようだ。「岩登り禁止」の看板があった。以降、ちょくちょくこれを見かけることになるが、つまりは岩登りするのがいるのだろう。ダメ押しのように、両登山口の入口には、「ここは五反田村の信仰の山。死者の霊が集まる霊山でもある。岩にハーケンやボルトを打ち込むと、そこに水が溜まり、冬になれば凍って、岩を破壊することになる。だから、岩登りはやめてもらいたい」という主旨の看板が五反田住民一同の名前で置かれていた。よほどに深刻な問題にもなったのだろう。岩登りは自分の範疇外だから、その手の人たちの気持ちはわかりかねるが、普通の感覚なら、霊山と崇められるような山の岩を登攀の対象にはしないのではなかろうか。
(蝙蝠穴と二番看板)
(穴の中に二番)
(八番、九番)
(九番の右隣りのこれはノーナンバー)
(十番。一々写真を載せていたらきりがないから、以降は適当に割愛)
(十番はこんな岩の下にいらした)
「休石」というスポットの右に二番、左に三番があった。下って二番に行く。岩の下が奥の浅い洞窟状になっていて、ここに観音様が置かれていて、洞窟は「蝙蝠穴」らしい。脇に御札があった。もう字も読めなくなっているが、かすかに那智山青岸渡寺が読み取れる。この先にもお札はあった。わざわざ熊野から来たわけでもあるまい。この山が修験道者に有名とは思えない。その支部かグループが関東にでもあって、その方々が修験に来ているのではないのかと思うのだが、勝手な想像だ。三番もまた大きな岩の下に安置されていた。
クネクネ道はすでに終わっていた。順番どおりになるのかと思ったら、次の標識は八番、九番で、少し脇道に入ると岩の下に並んでいた。ここまでくると、観音様を安置した場所は岩の下の庇状になっているところということになるようだ。その少し先の十番も確認。
(天狗の広場)
(小天狗。岩峰)
(ここはさほどに険しくはなかった)
(小天狗山頂の大鳥神社)
(梵天かと思うが)
(方向的には上越方面になる)
(真下に不動岩)
登山道に戻って登ると「天狗の広場」。ベンチと東屋が置かれ、小広くなっている。ここは小天狗と大天狗の分岐になっていて、一旦、小天狗に行き、またここに戻って大天狗に向かうようになるらしい。小天狗方面に足を向ける。さっきから、前を二人のオバちゃんが歩いているが、彼女たちは観音像には興味はないのか、もしくはここを歩き慣れているのか立ち寄ることはしない。やはり小天狗に向かっている。
道が分岐して、右が六番、七番、左が四番、五番。それぞれの標識には添え書きがあり、前者には「小天狗へ」、後者には「不動岩へ」とある。地図を出すと、小天狗を挟んでの周回になっているようだ。不動岩には行く気はなかったが、地図に「不動明王」と記されているのに気づいた。観音様だけ見ているのでは飽きる。不動明王を見ておくのもいいだろう。
目の前に岩峰が見えてくる。あれが小天狗らしい。途中で不動岩に行く道が分岐したが、小天狗に登る。岩峰とはいってもクサリがあるわけでもなく、あっさりと登れた。ピークには石祠(大鳥神社)と梵天のようなものが束で立てかけてある。ここからの展望はなかなかだ。さっきの展望台で方向感覚がおかしなままだから、榛名はわかっても、雪山の連山は何山なのかわからない。楽勝で登ったとはいえ、かなりの高度感があり、まして、狭い。だれもいないからいいものの、いたら窮屈になる。真下には不動岩が見えている。むしろあちらが尖頭状で手ごわい感じがある。高所恐怖、閉所恐怖症ゆえ、そそくさと下る。後で気づいたが、小天狗の登り口にはしめ縄があった。
(四番。ここにもノーナンバー。観音様ではないからだろう)
(不動岩への登り)
(クサリが上から垂れている)
(不動岩山頂の不動明王像)
(あちらが中天狗と大天狗だろうか)
(後ろから失礼。小天狗)
(クサリ場下り。オバちゃんたちは慣れた感じで下って行った)
大岩伝い、つまりは小天狗の裾野だが、巻いて下っていくと四番。なぜか二体あるが、一体は観音様ではないようだ。この先も無名石仏がいくつか置かれている。そして不動岩直下。クサリが垂れている。上で人が休んでいる。例のオバちゃんたちのようだ。クサリは使わずに登った。上はかなり恐く、小天狗よりも狭い。ここに3人だ。そっちも大丈夫よと言われたので、反対側に回ると、少しのスペースはあった。オバちゃんと話をすると、やはり、嵩山の常連さんだった。ここで不動明王に対面。写真を撮っている間にオバちゃんたちは下って行った。撮るものだけ撮ったら用事はない。ここもまたさっさと下る。
(石門)
(天狗の広場に戻る)
反対側から回ると、石門が現れて、向こう側が見える。石門とはいっても、大石が落ちて来て塞いでいるだけのこと。六番と七番があるはずだと、うろうろしていると道を外れて上に向かっていた。踏み跡も消えた。自分と同類だろう。戻ると、オバちゃんたちがまだいたので、道を尋ねると、しっかりした道があるじゃないか。ここで六番と七番を確認できたが、五番を見おとしていたのに気づいた。地図では四番のすぐ先で、不動岩に登る前。まぁいいかと、パスして天狗の広場に戻った。
天狗の広場から展望を眺めようとしたら。ここからの鳥瞰図板が置かれていた。いつも見慣れているのとは逆方向の山の配置だ。正面の榛名山は正解だが、左は赤城、子持山、日光連山で、右は岩櫃山、浅間隠、浅間山になっている。こうなると、浅間は雪があるからなるほどと思っても、その前の三角形の山がすっきりしない。ここでも、まぁいいかにして、大天狗に向かう。
(三社神社)
(胎内くぐり。見ようによっては何となく卑猥な感じがする)
(十一、十二、十三番のトリプル)
「胎内くぐり 十一~十三番」の標識があったので、進行方向から外れてそちらに下る。これでは、なかなか大天狗には行き着けそうもない。すぐにあったのは三社神社の石祠。しめ縄付き。そして胎内くぐりになった。地図で確認すると、八番、九番、十番は別ルートでの破線路になっている。律義に見ておく必要もないので、見られたら良し程度にしておく。この胎内くぐりだが、右に回り道はあった。看板には「腰回り85cmが限度」とある。厳しい感じはしたが、堂々と正面からではなくカニ歩きをすれば問題ないだろうとザックを手に持って横スタイルで通ったが、結構厳しかった。狭い岩間だが、無理に通る人もいるのだろう。岩壁は雑巾で拭いた後のようにきれいで、着ているシャツが汚れることはなかった。問題はその先のクサリ場。岩から出ると厳しそうな下りだった。
下りではクサリを使うのが安全。まして落葉で滑りそうだった。その途中で十一番、十二番、十三番が並んで岩の隙間に安置されているのを見た。不安定な位置で、写真はピンボケになってしまった。
(十四、十五番の真上にある岩)
(上に登る。クサリつかみの必要はないが、雨で濡れていれば、岩も滑るだろう)
そのまま下って行くとこれもまた岩下の下部の庇の下に十四番と十五番。そろそろ観音様にも飽きてきた。300年前の古い石仏とはいっても、ほとんどが同じポーズだ。観音様だから、ポーズのとりようはないかもしれない。まして、雨露はしのげても、顔と胴体は風化しつつあって、みんな同じ観音様にしか見えない、まして、背丈はほぼ一緒だ。
大分下っていたが、ここで「槌岩」の標識があって、上に向けている。槌岩は地図には載っていないが、大天狗に登るには、そろそろ上に行かねば、そのまま下り予定の東登山道に出てしまう。
あまり歩かれていないコースのようで、踏み跡がかすかにある程度だった。ステップがあったのも最初のうちで、落葉で滑るのをこらえて登ると、岩場の間にクサリが出て来て、どういうわけか十六番。次の十七番は見ないままに登ると、小天狗と大天狗を結ぶ稜線に出てしまった。
(中天狗の石尊社)
ここは鞍部(「小袖の渡し」というらしい)になっているようで、大天狗、小天狗とは違う方向に「中天狗」の標識があり、そちらには東西に小ピークがある。右手・東側に上がるとそこは何もないピークで、踏み跡は続いているから、そのまま下ってもいいのだろうが、中天狗にこだわってしまったので、引き返して反対側に登ると、石祠の脇に「石尊社」の標識が置かれている。そして、ここが「中天狗」だった。小袖の渡しも石尊社も、詳しい地図ながらも記されてはいない。それはさておき、何だか、ゲームを楽しんでいるような気分になってきた。楽しいうちはいいが、うんざりにならなければいい。ただ、1/4は飽き気味になりつつある気配。
次は二十六番。道標に合わせて行ってみたはいいが、二十六番標柱は埋められているものの、肝心の観音様が見えない。上はヤブ状になっていて、踏み跡もない。周囲を見ても存在の気配がない。どこかに転がり落ちたのかと道の下を見てもなし。これは後で知ったことだが、左に岩があり、その岩棚に安置されていたらしい。自分のように見落とす人も多いようだ。注意力が散漫になりつつあったようだ。
(無常の平の石仏群サークル)
(ヘアースタイルが違うから、これが阿弥陀如来だろうか)
(置かれた解説板)
平らな一角に出た。そこには石仏が四角形に整然と並んでいた。解説板を読む。阿弥陀如来一体、観音像七十体、計七十一体が安置されてあるとある。ここにあるのは西国、秩父分の七十一体なのだが、冒頭に記した数では六十七体になるから四体多いことになる。そんな細かいことはどうでもいいことで、そんなことよりも、「魂入れ云々」のことは何とも気恥ずかしい。ちなみに、ここが嵩山城の本丸跡ということになっていて、石仏の名称は「西国秩父観音群」となっている。広場の名前は「実(御)城の平 無常の平」とあり、地図では「無情の平」で記されている。無常と無情では意味が全然違う。ここにも東屋とベンチがあり、何人かが休んでいる。そういえば、人出も目立つようになった。マスクをしているのは数人。自分はしていない。
この先で、大天狗、東登山口、五郎岩の三方向に分岐する。「経塚」の標識が置かれている。一般的に経塚は仏教の経典を埋めた所のことだが、ここもそうなのだろうか。場所の特定はできなかった。ここは大天狗方面に行き、ここに戻って東登山道から下ることになる。五郎岩方面には烏帽子岩、獅子鼻も含めて二十七番から三十三番まで七体の観音像があるようだが、「岩」という字には尻ごみするので、そちらはいいだろう。大天狗にしても岩峰なのだが、オバちゃんたちの話では、小天狗や不動岩よりも楽だとのことだから行くし、三角点があるからには、嵩山の山頂なのだろう。
(大天狗への岩場)
(大天狗)
(山頂の神社)
(判別しづらいが烏帽子岩が屹立している。その向こうが五郎岩)
(嵩山の三角点)
(中天狗と、奥に小天狗)
(どんどん登って来る。自分は右の岩下の溝状の道を下った)
すぐに岩場になった。丸みを帯びた大岩が続いている。女岩というらしい。これに対し、道の駅から見えた岩は男岩とのことだ。クサリが続いてはいるが決して急ではない。先行者がクサリを使って登って行くので、接近歩きをするわけにもいかず、よく観察すると、クサリを使わずとも、岩の下の縁側が道状になっていて、問題なく山頂まで行けた。スリルを味わいたいならクサリを使えばいいが、自分は下りを含めてクサリには手を触れなかった。
こんもりと丸い岩が山頂だった。ここにも石祠があり、梵天のようなものはないものの、何に使うのか、長い金属ポールが立っている。ロープ状のヒモも付いている。ここの神社名は何というのか、地図にも記されていない。
真下に烏帽子岩が見える。ここもまた、高所恐怖症にはつらく、山頂の岩から下り、三角点を確認してさっさと下る。女岩をハイカーがどんどん登って来る。確実に混み出している。
(経塚の広場に出る。手前に下る)
(とはあるが、嫌いな言葉だが、自己責任で乗り越える)
(これだもんな。落石がなくとも恐いわ)
(二十四番)
(二十五番との間にあったノーナンバー。台座には二廿三番とあった)
(一升水。岩に穴がある。そこから岩清水が流れていたのか、時期的に流れるのか)
(二十一番にあった石)
広場の分岐から東登山道を下る。沿線には十九番から二十五番の標識がある。こちらもまたクネクネした下り坂になっている。「七合目」通過。また首を傾げる。左手側に通行禁止の通せんぼが現れた。落石の危険からのようで、確かに、先を見ると、道の真上に垂直の岩が続いている。きっと、こんなところにクライマーが集まるのだろう。ただ、ここを素通りすれば、観音像のいくつかは見られない。周囲にだれもいないのを確認して入り込む。
岩の下に二十四番。続いて二十五番。いずれも岩の庇はない。これまでの石像と違って、雨にもさらされるだろうに、目鼻立ちがしっかりしているのが不思議だ。そういえば、前半で見た観音様とは顔立ちと体つきに変化が出ている気がする。目鼻立ちの端正なのもあれば、ごつい感じの観音様もいる。続いて「一升水」。岩に穴が開いている。ここから水が出るしくみだろうが、水気はない。すぐ隣に二十二番。そういえば、二十三番は標柱も見かけなかった。あったのだろうか。二十一番はなぜかのっぺらぼうの尖った石。
その先は岩がせり出して行けず、歩道に戻る。踏み跡があったのでショートカットを行くと、「五合目」に出た。地図を見ると、脇道に逸れて十九番と二十番があるはず。そこもまた入り込めないように通行禁止処置をされている。乗り越える。
(ここを越えないと十九番と二十番には行けない)
(さらに通せんぼ)
(まさかと思った。危険だから行くなということだったようだが、クサリそのものは新しい。直登ならともかく、横這いで行くのはしんどい)
(二十番)
(真ん中付近の穴の中に二十番はいらした。弥勒穴)
(弥勒穴の講釈)
「弥勒穴 十九・二十番」の標識が出てきて、長い石にはステップが穿っている。そして、改めて「この先行き止まり」。倒木で道は荒れてきた。そこに十九番の標柱。観音様はどこにもいない。見上げると、少なくも60度はありそうな岩に、横にクサリが張られている。なるほど、あの岩壁に上がって、横に移動しろということか。クサリがあってもそれは無理でしょう。先に二十番があるかと思ったが、見あたらず、とりあえず、クサリを頼りに岩壁を横断してみた。意外と足場はしっかりしていた。そこにあったのは十九番かと思ったが二十番だった。弥勒穴に安置されていた。落ち着かないので、さっさと戻って歩道に出た。
後は何もない。ただ、地図を見ると、十八番を確認していないことに気づいた。標識に「胎内くぐりから小天狗へ」があったのでそちらに行く。手前から十八番、その先が十七番で、さっきは十七番を確認できずに十六番を経由して稜線に出てしまっていたので、改めて十七番も探すべきだろうが、そちらはもういい。大分飽きてきたので、十八番だけでいいだろう。
(仰ぎ岩)
(本日のラスト。十八番)
右に「仰ぎ岩」を見る。そして、先の岩の下に十八番があった。もう終わり。すべてを確認していたらきりがない。ここまでも、標柱があっても現物を見ていないのがあったし標柱すら見なかったものもあった。繰り返しになってしまう。いつの日か改めて…。そういう気持ちは起きないだろう。一回の体験で十分。嵩山がこういう山だと知っただけでも、先日の凡庸な崇台山に比べたら、強烈な印象として残るに違いない。
(下る)
(東登山道の鳥居)
(ハイキングコースの看板。立入禁止の弥勒穴も記されたままになっている)
(道の駅に戻った。中に入ってみたが、自分が買えそうなものはマスクくらいしかなかった。もっとも買いはしなかったが。家に帰ればマスクの買い置きだらけだ)
下って行くと、またスカイツリーのポスター。鳥居を通って道の駅に出た。歩いた時間は2時間半。もう少し延びていたら完全に飽きたかもしれないが、飽きる寸前に観音様も終わってよかったとも言える。道の駅の車の数は多くなっていて、道の駅そのものにはさして客はいず、山に入っている人が多いようだ。
今日はたかが2時間半の歩きだったが、変化のある歩きを楽しめた。嵩山への前知識を持って入山したら、もっと楽しめたかもしれない。この嵩山は、天狗の山→岩櫃城のガードとして築城→落城で悲惨な死者→観音像といった流れで霊山になったような気がするが、「死者の霊が集まる霊山」となったのは、どの矢印の間に入るのだろうか。
中之条町には、もう一つ、群馬百名山未踏の山があったが、暑くなってきたら面倒になった。まして、危険な山らしいので、短時間とはいえ、ついでの登山はよした方がいいだろう。いずれ、また中之条まで来なければならない。
陽気のせいだろう。こんなマイナーとも思える山にも、ハイカーは普通にいたし、道路もまた混んでいた。
※身勝手な行動を随所でやっていますが、標識に記された規制には従った方が賢明です。三十三観音像をすべて見ようとして事故にでも遭ったら、観音様詣でのご利益もなくなりますよ。参考まで追記いたします。
(今回の軌跡)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)、数値地図25000(地名・公共施設)、数値地図250mメッシュ(標高)、数値地図50mメッシュ(標高)及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 平24情使、 第921号)」
(付録。これを持参して歩いた)
まぁ、多少遠いこともあるにはあるのですが、どうも中之条町まで行くと、他にいくらでもやりたいことが出て来てしまうモノですから。
それはさておき嵩山、此処って観音様のお山なんですネ。一応、霊山と呼ばれていることも知っていましたが、それにしても観音様が多いのなんの。ちなみに、福島県のその名も霊山(りょうぜん)には、行ったことがありますが、こんなに観音様はありませんでしたヨ。
それにしてもマイナーな山だから、滅多に人に会わないだろうと思っていたのですが、結構、ハイカーは来ているのですネ。このコロナ禍に意外な感じがいたします。
瀑泉さんはこの嵩山をご存知でしたか。2時間もあれば周回できますから、ついでの折りにでも付け加えてみてください。ムダなところはないというか、全山、離れた岩も含め、観音様探しを楽しめますよ。ただ、おっしゃるとおり、茨城の端から群馬の端まではどうにも遠い。つい、中之条まで行ったら、他にも楽しめるところが結構ありますからね。
福島の霊山ですか。ちょっと気になります。調べてみますね。
この嵩山の道の駅には、他県ナンバーの車はほとんどありませんでした。やはり、地元の方しか目を向けそうもないマイナーな山かと思います。
コロナの感染者、北関東3県では、茨城、群馬、栃木の順で、栃木あたりは緊急事態宣言まで出していた。茨城は存じませんが、群馬に関しては、何ら積極的な拡大阻止の対策を講じていない。知事に至ってはポーズだけといった感じがしますよ。
嵩山記、興味深く読みました。
嵩山は「たけやま」でしたか!これまで「かさやま」と読んでおりました。(あぶない、あぶない)PCでの漢字変換は「かさやま」からの変換の方が容易です。
冒頭、嵩山城の「築城年と築城経緯が調べられなかった」とありますが、自分のもっている資料では嵩山城が「確実な資料に登場するのは永禄八年二月」とでていました。嵩山城が武田方によって落城したのが永禄八年十一月なので、文献資料に登場して間もない時期に「嵩山合戦」に及んだということのようです。
嵩山(城)は人影の乏しい寂峰と思いこんでおりましたが、天狗やら観音像に加え、登山者で賑わった山だったのですね。駅から少々距離があって、またスリル過剰な一面もありそうで、なかなか足が向きそうもありませんが、記事は楽しく読む事ができました。
嵩山城の由来については、あちこちに解説板は置かれていましたが、最後の大天狗からの身投げ話のことに比重が置かれ、肝心の築城に関してはその年代も記されていませんでした。
そうでしたか。築城間もなく落城といった感がありますね。本丸があった広場ですが、どうも城跡という感じがせず、せめて石垣くらいは残っていてもよさそうでしたが、素人の自分には確認できませんでした。
嵩山は歴史のつまったなかなか面白い山でした。スリル感は見た目だけのことで、さほどに恐いところはありません。せいぜい、小天狗と不動岩の山頂がせまっ苦しく、高度感がある程度で、岩櫃城の岩峰に比べたら大したこともありません。
ぶなじろうさんにはお薦めの山かと思います。
(追記です)
嵩山城の築城年と築城者は、現状不明というのがより正確かと思われます。武田氏の攻勢が強まり嵩山合戦の時代に記録に現れはじめたのではないでしょうか。
おっしゃる通りで解釈するようにいたします。ただ、さっと築いて、さっと落ちた城ではあったと思いますよ。その前はせいぜい砦を置いたくらいではないでしょうか。
これも城址の話になりますが、足利の富士山城(ふじやま?)についても、ぶなじろうさんの知識でご教授いただきたいのですが。