六枚目のコイン

つぶやき、趣味,占星術,

前世からの記憶とカルマの解消法(2)

2019年01月21日 18時07分26秒 | 未来

(つづき)です!
心は独立して存在するのではなく、連続してあるのだというのです。
または、心は引き続いて存在するとも・・・。

心が思ったことは、その場で消えてしまうのではなく、
連続して引き継がれていくというのですね。
つながっているのだというのです。

一見、理解に苦しむような説明ですね。

ところで、大乗仏教に「唯識」思想というのがあります。
それは、
この世界はただ心の認識によって現出するのであって、
心が認めない存在は認識すること無く、故に存在しないという考えだ。
(私の考えは、あとでさらに深く説明したい。)

そんな馬鹿なと思うでしょうね。
物質世界を第一原理として、思考や概念が成り立っている世界からすれば、
「心」なんて取るに足らぬおのであると、
多くの人は考える。

だが、
この「唯識」をよく追求していくと、深く癌が得させられるものがある。
その「唯識」の考えに、八つの識(心)とう基本概念があって、
その中に、「雑識」=(アラヤ識)という心があるとされている。

その「雑識」というのは、
前世からの記憶や経験や諸々のものが蓄えられていて、
それらの情報が現在の自己を規定しているというのだ。

それをスピリリチュアルの世界では、アカシック・レコードと言ったりしている。
「アーカーシャ」とは、虚空の意味である。空間上の記録とでも言えるだろうか。

この唯識思想を追求すると、とても興味深いものがあるのだが、
その『雑識』こそが我々の輪廻転生の本体だとされているのだ。

で、初めに戻るのだが、
催眠法で暗示をかけるのは潜在意識に働きかけるのですが、
この雑識は、深層意識だと言いかえると、わかりやすいかと思います。
その深層意識に「自己」を規定するものがあるのだというのですね。

それを仏教では「因縁」と言っています。

 (つづく)
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前世からの記憶とカルマ解消法(1)

2019年01月20日 16時09分40秒 | 未来
催眠術って知っていますよね?
反社会的なイメージを持つ人もあるかもしれないので、催眠法と言い換えます。
現在では、催眠療法と言って、催眠法を使ってのさまざまな心因性の病気や自己啓発に役立っているようです。
クライアント(被験者)を催眠状態において暗示をかけて、問題解決の方向に働きかける。
暗示の結果、驚くような効果を顕したりすることもあるようですね。
本人もよく自覚出来ないで、その暗示の通りに行動したりする。
中には、その行動を正当化するために、口実や理屈を付けたりする。
端から見ているものからすれば、実に滑稽な印象を受けたりしますよね。

これは潜在意識に働きかけることで、暗示に強制力を生じさせるわけですね。

では、私たちが生まれた時すでに特定の暗示を受けているとすれば如何でしょう?
さらには、生まれる前にある特殊な暗示を刷り込まれているとすればどうでしょう?

そんなことはあり得ない!と言えますか?
うん、それが有り得るのですよ。

チベット仏教では[心相続]ということを言います。
あるいは「心の連続体」などとも言いますね。


(続く)
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未来の時代を切り開く知慧を持つために!

2019年01月18日 19時50分44秒 | 未来
これは次回のテーマです。
元に戻ってお話をさせていただきますね。
ご期待ください。
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大変動は世界開き!

2019年01月18日 18時07分16秒 | 未来

2017年より始まった今回の大変動は、世界開きという形容が当てはまると思うのだ。
天照大神様の「天の岩戸開き」は国開きを意味する出来事だが、
今回の世界的大変動は、
世界開きと形容しても良いのではなかろうか。

これまで私は、これがアクエリアスの時代だと、再三説明しているわけですが、
では、
アクエリアスという時代は、どういう特徴を持っているのか。
それはどこで知ることができるのかと言うと、
アクエリアスの守護星は何かを見ると分かる。

アクエリアス座は若い少年が水瓶を持って、
その水瓶からの水を注いでいる図が描かれている。
その水は、魚座(ピッセス)の魚に注がれているのだろう。
というのも、
ピッセス宮時代に戦争などをやらかして作った悪業(カルマ)を、
知慧の水を洗い流して精算するという思想が表現されているように思う。

それは良いんだが、
本来は若い少年ではなく、以前は老人が水瓶を持っていたのだそうだ。
それがいつの間にか、少年に代わっていたというわけだが。

(こんなところは、仏教で言うとこころの
知慧の象徴である菩薩様が、若い童子形の文殊菩薩であるところと似ている)

老人は、長く生きて培ったところの経験と智惠を備えている。
だから、老人は叡智の象徴なのである。
そして同時に、長い時間性を表わしている。
そして、カルマをも意味するのだ。
水瓶の水はそのカルマを洗い流すのである。
水は叡智を象徴している。
つまり、叡智がカルマを精算するまたは洗い流す。
これも仏教の知慧が成仏させるのだという思想と共通する。

もとに戻ると、
水瓶宮の守護星は天王星と土星である。
以前にも説明したが、天王星は公正と博愛、
どちらかに偏るという感情や指向性はない。

だから、中性的なのだ。
セクシャルな魅力よりも中性的な魅力が人気を呼ぶ。
男女とも、エロイのを好むのは当然なんだが、
宇宙の波動がエロいのよりもさっぱりしたのを好む。
それが天王星の特徴だ。

そう、さっぱりという感覚が人気を呼ぶのだ。
執着的などろどろした感覚って嫌われる。
そして、思考も公平な考え方を好む。
だから、この天王星は公共的な仕事をする場合に必要とされる。
政治家とか行政官などには必要な星である。

どこか
知的なフィーリングを、人々は求めるのかもしれないね。

そしてここに、
『現在賢劫千仏名経』というお経がある。
賢劫の時代に千体の仏が現れて、この地球を救い切り開いていく。
そういう思想の下にお経が説かれている。

「劫」とは、時間の長さを図る単位である。ものすごく長い時間を表す。
説明すると、多くの人は気絶するのではなかろうか。、
そして、「賢」は知性を表すのは当然である。

つまり、
賢劫とは知慧の時代を表わしているのであり、
それはこれからのアクエリアスの時代そのものである。
ということが言える。
それが如実に理解されるのである。

仏教のとりわけ密教の思想(特に金剛界の思想)には、
このアクエリアスの時代のことが説かれている。
まさに、
密教の金剛界にはこれからの時代のことが説かれているのだ。
そして、この時代に千の仏様が出現されて、この地球を救うのだというのだ。

では、仏とはどういう存在か?
因縁を完全に解脱した聖者だというのである。
その因縁を解脱するのは成仏法という修行法だという。

それが今、我が偉大なる師によって説かれた。
「如来、世に出るとき、その成仏法である七覚支法がまず説かれる」という。
その七覚支法が、我が偉大なる師によってすでに説かれている。
これをなんと説明すれば良いのだろう。

なんという奇瑞!
密教こそはこれからの時代を暗示する宗教なのではないか。
密教は「星の宗教」と表現することが可能である。

この大変動の時代を切り開くのは、仏の知慧である。
その仏の知恵を獲得するのは、シャカの説いた成仏法を修行するしかない。
そして、
釋迦の説いた成仏法で仏の叡智を体得した者のみが、
唯一、
このアクエリアスの時代を切り開き、地球を救うのだと。

釋迦の成仏法である『七科三十七道品』を修行せよと。
こここそが、唯一にアクエリアスの時代を生き抜いて、
新しい時代を想像することができるのだという。
見てみよ、
もう時代は行き詰まってしまっている。いくらこね回しても無駄なこと。
多くの人に許されるfのは、過ぎし時代を、良き時代だったと懐かしむだけだ。

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上求菩提下化衆生

2019年01月14日 13時46分57秒 | つぶやき
(自利と他利)
自分の利益と他人の利益ということですが、
これを普段実行できる人は、大人(たいじん)ですね。

では、
反対にそれができない人は?
自分勝手な人だと言われるでしょうね。
エゴイスト!または自己中心!

でも最近は、それが半ば当たり前のような世間になりましたけども・・・。
自分の都合を最優先するのは、もう半ば当然である。
しかし,
それでは人間としての品格もなくなるし、嫌われるでしょうね。
表では、金持ちに対して良い顔をしていても、裏ではさんざん悪口を言われる。

キリスト教社会では、ボランティアとか奉仕活動とか、または寄付とか言われるでしょう?
成功の裏には必ず施しや社会的貢献を伴うのだという了解。

仏教の中の密教に、『上求菩提下化衆生』という言葉があります。
「上求菩提」というのは、上に向かっては悟りを求めるということ。
悟りを求めることを上に向かうと言っているのですね。
そして、
「下化衆生」は、下に向かっては衆生を教化するという意味です。
これは上に対する下の意味と、
衆生というものは下の位置に属するということですね。
凡夫です、凡俗です。
聖なるものは上なるものですね。

差別の意味で言ってるんではないんですよ。

以前は、上求菩提という文と、下化衆生という文は、別物だと解釈していました。
ですが、これはセットだとういんですね。
上に向かって悟りを得ようとするならば、下に向かっては衆生を教化するんだと。
教化とは、人々を教え導くということ。
人々を救うということです。お世話をすることだって救うということです。
助けると解釈してもかまいません。そのほうが正解でしょう。

菩提を求めるならば、人を助け導くという行為が必要なんだということ。
それによって、人々を救うという徳を持つことになるわけです。
その人々を救うという行為から生まれる「徳」が発生するわけです。
その徳が悟りに向かわせる力となって、お前は成仏できるのだぞという眞理ですね。

悟りを求めるという行為自体は素晴らしいことです。
しかし、それは反面、自分の利益ですよ。
自分の幸せになりたいという自己救済の利益です。
自分を救いたかったら、まず他人を幸せにすることから始めよという。
そうしなければ、
お前は幸せになるための力を作ることができないのだと。

この世の中はフィフティフィフティなんですね。
マイナスとプラスは合計ゼロです。
なんというバランスの取れた世界であることでしょう。

私たちは、得ることだけを考えるのは正しくないのですね。
得るときには、同時に与えることを考える。
与えると同時に、次の幸福になる自分が見えてくる。
これは真実です!
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