今の現在,宗教不信が浸透して,宗教離れが一層進んでいると言われて久しい。
それでも、神道は宗教ではないなんて考えている人もあって,
正月の神社詣りなんかは相変わらずに多くの人が参拝する。
いや、
外国人までが清々しいと言って,神社参りを気に入る始末。
神道はもちろん宗教の一形態なのだが、ここでは問題にしない。
そこで、宗教という言葉を調べてみると、「大元」の教えという意味がある。
つまり、人間が生きていく上で大切な基本的な考えや原理をいうのだ。
さらに大切なことは、
人は物質的のみの存在ではなく、精神的存在であり、
さらには,霊性を備えた存在であるということだ。
その点を抜きにして,人間を語ることはできない。
そういう点で、人間には信仰とりわけ宗教が必要なのだ。
人間から宗教を取り除いら、それはもう人間ではなくなるのだ。
だから、太古から人が人として、また社会性を維持して協調性をもって、平和な社会と繁栄を実現していくためだけでなく、
宗教は必要不可欠であった。
それがいつの時代でもそうだが、
それを活用する人間しだいで善用もし悪用する事にもなる。
また、本人たちにはそのつもりがなくても、結果的にうまくゆかなかったということもあるだろう。
かくもうす私も、若い頃はインテリ&無神論者を気取っていた。
それで信仰のしの字も知らなかった。
それが大学の知人のひょんなことから紹介された信仰に出会ったことで,
私は宗教というものを研究することになった。
そのうち、人生の途上で八方塞がりに陥って、私は心のそこから救われたいと願った。
どうぞ私を今の状態から助け出してほしい。思わず、心の中で仏に手を合わせた。
それからだ、私の人生に展開が始まったのは。
大事なことは、先ず自分の心構えとして、わがままなことは言わないしない。
社会は人の集まりなのだから、自分本位の考えや行動をしないことを心がけた。そして、周りの利益を考えた。
多分、それは良かったと思う。おかげで、立ち直れていけた。
そこから、信仰することに目覚めていったのだ。
私の場合は、仏教だったが、仏教の根本は《三宝》といって、仏・法・僧を一番の根本に据える。
先ず、「仏」とは仏教の開祖であるブッダ釈迦、お釈迦様である。拝むのである。
お釈迦様を本尊として信仰の中心に置くのだ。
なぜかというと、お釈迦様は苦しみとしての存在である人間を解き放つ方だ。
あらゆる苦しみの元を断って、絶対自由を得られた方である。
それ故に、そのお力を備えた方である。
だからこそ、私も同じようにあらゆる苦しみの元を断って絶対自由を得るために、
そのお力を得られるように拝むのである。
そのお力の元を本尊という。
(続く)