六枚目のコイン

つぶやき、趣味,占星術,

続・結局ね~?

2019年06月29日 15時12分11秒 | 未来
何だか、
私も直感的に感じたことを、
あまり考えないで文字にしてしまったこと、
少々反省してありまして。

もう一度読み直す必要に駆られて、
久しぶりに佛教書を開いてみたわけです。
すると、
時間を置いてみたテーマが、
さらによく観察できたわけです。

それで、再度挑戦というわけで、
続編に至るというわけですね。

つまり、
我々の深層意識と非常に密接な関わりを持つ、アーラヤ識。
唯識学における最大テーマではないかと思うのですが、
この『阿賴耶識』、
一般的には、
「住所」、「場所」、「蔵」などの意味に解釈されます。

例えば、
雪山(ヒマーラヤ)というのは、
「雪の蔵」(ヒマーアーラヤ)である。

そこから、アーラヤ識を「蔵識」と訳したりする。
ちなみに、
「識」とは、心のことであり認識作用のことをいう。

そして、住処・場所・蔵とされるのは、
そこに経験的世界の一切諸法が、
「種子」として存在するからである。

「種子」とは、
あたかも植物の種から芽・茎などがあらわれ出るように、
客観的世界の一切諸法(存在するすべての物)を生じる原因が、
心中に潜在するものと見て、これを種子と呼んだのである。

そのように、
一切諸法の種子を内蔵しているから、
アーラヤ識のことを「一切種子識」とも言う。

つまり、過去世から現在にいたるまでの、
あらゆる経験が後にのこした余力(潜在形成力)が、
潜在印象として貯蔵されている。

要するに、
それは経験的認識こそが、
すべての人間を動かす動力因(業)であることをあきらかにし、
仏教が解決しようとする最大のテーマである「業」というものの正体を、
人間の心の深奧に発見した論理である。

そうして、
その経験的認識の世界を、いかに乗り越えるかということが、
仏法というものにほかならない。

(『密教誕生』88頁より引用)


つまり、
この世界にはあらゆる生物・植物が存在しているが、
それらを種として存在・維持させる中心の核が、
アーラヤ識と呼ばれているものだ。

それは広くは種としてのアーラヤ識、民族としてのアーラヤ識、
家族(家系)としてのアーラヤ識、個人としてのアーラヤ識と分類される。

ここでは、
単なる個人としてのアーラヤ識を考えることとして、
ここに「運命の星」を想定する根拠がある。

アーラヤ識を種子識と呼ぶと言ったが、
種子はその業の核(コア」であり、根本であり、
中心主体である。

それを仏教では『因緣』と呼んでいる。
ある一定の業の発現を引き起こす元になるものが、「種子」であり、
それを発芽成長させる要素が、
周囲の環境(家族関係、地域社会、知人等)である。

その運命の星を解消する方法を発見したとき、
ついに密教は誕生したのだ!と言えるだろう。

今回は、
大乗仏教の代表的な唯識学から、因緣というものを見てみたわけです。

↑う


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結局ね、

2019年06月27日 23時13分37秒 | 未来
日本の仏教は唯識や中道を超えてはいないということなんですね。

だから、並み居る今の日本の仏教教団は、すでに古い宗教だと言えるんです。

『密教誕生』を読んで、改めてそう思い感じた。


それは「因縁」というものを捉えていないから、たくさんの数ある日本の仏教教団は正しい認識ができていないんです。

因縁を捉えるとき、それが真実であることに気がつくのです。

もちろん、
キリスト教やイスラム教やユダヤ教徒などの宗教は、過去の遺物だとしか言えないんです。
だから、仏教を任じていること誇れることであり、先端の宗教ではあります。が、今の大乗仏教には成仏法が形骸化しているので、他の宗教と実質的には同じだと言えるでしょう。

つまり、「因縁」をしっかりと理解すれば、唯識も正確に理解できるようになります。そして、本当の「成仏」が可能となるのです。

だから、本当の認識論を理解出来ていない既成の宗教教団は、成仏もできないし、新しく人類をリードし導いていくことも叶わない宗教教団だということですね。
だから、「過去の遺物」だと申 し上げたのです。

私たちは本当の意味で、存在しなければならない。真の意味で生きていかなければならないのです。
(続きます)!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

末續慎吾氏は魂の伝道者!

2019年06月25日 14時41分21秒 | 未来
BS NHK 「めざせ、オリンピアン」を観た。
私が観たのは再放送分だったが、とても感動した。
それは、シドニー五輪メダリストの末續慎吾氏が 、
自分が掘り出した原石を指導する番組だ。


だが、
再会した原石はすっかり落ち込み、
スランプに陥っていた。
そこから、末續慎吾氏の指導が始まる。

原石である大学生の犬塚歩選手と話し合いながら、
質問を相手に投げかけながら、
急所をぐっと掴むような言葉をしていく。

その話に、多くの視聴者が感銘を受けたようだ。
私も当然、感動した。
末續慎吾氏の形容詞に、「求道者」とあったけど、
同時に、指導者であり伝道者だと、
それも、魂の伝道者だと思えた。

相手の今いる場所や今の状態を掴みながら投げかける言葉は、
そのまま相手への今苦しんでいる答えになっていた。

感動モノだ。
そして、
二人で一緒になって走る。
相手の後ろを走りながら、
その気になる走り方から、
弱点や短所のようなものを感じ取り、
彼がさらに早く走れるためのアドバイスを送る。

そして、実際にやらせてみる。
そして、その後の感想を聞いてみる。
その結果、どういう感じがしたか。
リアルな自分を認識させて、
今の自分を自覚させて、
さらに良くなるための方法を教える。

指導を受けた選手が納得しながら、
改善策を実践した結果、
どう変わった変わったが、
具体的に相手に伝わっていった。

そして、
一番大切な勝利への意欲を、
「原石」である選手が口にした。

今の気持ちは?
“日本一になります!”


末續慎吾氏の指導の目的は、選手の心を変えることだった。
勝利への執念を植えつけることだった。
勝つことの喜びを覚えさせることだった。
走る喜びを思い出させることだった。

素晴らしい番組でした。
そして、改めて考えさせられました。

ありがとうございました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世は何を意味するか?

2019年06月22日 05時34分44秒 | 運命学+占星術
エドガーケイシーのリーディングでも知られていますが、
この世での経験は、魂を上昇させるのが目的である。
そういう解釈をする方がおられます。
また、
そう主張される宗教教団の教祖さんも少なくないと思われます。

確かに、
一般的な人たちにとっても、常識的にも、
そう考えたいところであろうと思います。

ですが、
これは単純な考えであると思うのです。
一般的に人には理性というものが備わっています。
しかしながら、同時に人間は、
非常に利己的な部分もあります。

自己の欲求に目がくらむと、
自分の欲求を満たす方に思いがいってしまって、
魂を上昇させるべき行為が行えなくなってきます。

また、
人は本来的に、自分自身の利益を追求するようになっている。
他人の利益のために行動したいとは思わないのが一般です。

そういうように、
私たち人間には,
魂の上昇を約束させるところの「善行」を妨害する心も
また持っているわけです。
それが仏教でいう《煩悩》です。

そこに本質的な問題がありますよね。
少なくとも、
他人の立場や利益を考えないで行う自己の行為や行動は、
往々にして、
利益が対立することが起きます。

すると、
そこにトラブルが起きることになる。
言い争いや、相手を恨んだり憎んだり、
はたまた、暴力行為で相手を傷つけたりする。

そして、
それらのお互いの報復行為の連鎖が永久的に続いていく。
“やられたらやり返せ!”
そのスローガンを掲げて、
それらの行為を、我々の「煩悩」が為さしめるわけです。

これでは、
この世から私たちの幸福は実現できるわけがない。
人間は永久に地獄に堕ちたままですよ。

人間は死ねば天国に行くなんて人がいますが、
いや、建前ですけども、みんなそう言ってますよね。
断言しますが、
ぜったいにそんなことはありませんよ。

(話が少々脱線しました)

これでは、いったい何のための人生か?
魂の上昇は、
いったいどうなったのかということになるわけです。

そうでしょう?
だから、
人間はなかなか魂の上昇という行為を行いにくい存在である。
そういう結論になりますね。
少なくとも、そういう傾向を人間は持っている。

だから、人間である私たちは、
心に有るところの《煩悩》=《獣性》を解消すべきなのですね。
そして、
魂の上昇を行えるような心の状態を育成することが重要なのです。

私たちがこの世を去る際に、
後悔しないで済むように、
未練を残さないで済むように、
自己の魂が苦しまないでもよいように。

私たちは行うべきことと、
そして、
行うべきでないこと。

この二点に集中しながら、
これからの人生を生きていきたいと、
切に願うのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の時代❕

2019年06月20日 05時00分02秒 | つぶやき
よく聞く話ですが、
人はその心の奥深くに、予め刷り込まれた
人生のあらすじを持っているのです。

「運命学」を学ぶと、それがよくわかります。
それも精緻になればなるほど、
その人生に起きる出来事が、
予想通りに、
ぴたりと日にちまで当たってきます。

私は予想屋でもないので、
当てることに拘るわけではありません。
しかし、
運命学の正しさを証明するには、
その人の人生において、
こういうことがあるということを示すといいのですね。

だから、
私はずっと研究を続けているのですが、
「アラビック・パーツ」などは、
予想占術において鋭いものがあります。

まあ、前置きのつもりでお話ししました。
そこで、
もう一度、元に戻りますが、
予め刷り込まれた人生のあらすじが、
人生の成功を示すものであれば、
それはそのまま、あらすじ通りに歩んでいけばいいでしょう。

ですが、
こんな人生を歩みたいと願う人にとって、
正反対の人生であるならば、これは不幸ですね。

最終的に不幸な人生に終わると、
その人は、この世を去る際に、
大きな悔恨と深い未練との想いを持って、
去るに去れずに、怨念の塊となって、
この世をさ迷うでしょう。

これでは成仏できないわけです。
大いなる生きがいを充実感に変えて、
次の人生へと旅立っていきたい。

そうすると、
予め刷り込まれてしまった人生のストーリーを、
いったん削除して、
新たに描きたい人生の筋書きを書き込めば好いではないですか?

そんなことができるのか?
はい、できるのです。

予め刷り込まれた我が人生のお話を
いったん消してしまって、
そして、
新たに、希望する人生のお話を書き込んでいく。
そして、我が人生の最高の夢と希望を叶えていく。

面白いでしょう?
単なる空想話ではなく、それは可能なのですね。
それは「瞑想」を元にして実現していく。
それが成仏法であり、
「因縁解脱法」であります。

まずは、
自分自身の人生が、どういう結果をたどるのか。
それを知らないで、変えていくことは出来ませんから、
それを知ることから、開始するのです。

今でいうなら、DVDを再生して、
我が人生のお話を見てみましょうか。

私は若いころに、それを見てしまったんですが、
そこから、
『因縁解脱法』に出会ったのです。

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする