何だか、
私も直感的に感じたことを、
あまり考えないで文字にしてしまったこと、
少々反省してありまして。
あまり考えないで文字にしてしまったこと、
少々反省してありまして。
もう一度読み直す必要に駆られて、
久しぶりに佛教書を開いてみたわけです。
久しぶりに佛教書を開いてみたわけです。
すると、
時間を置いてみたテーマが、
さらによく観察できたわけです。
さらによく観察できたわけです。
それで、再度挑戦というわけで、
続編に至るというわけですね。
つまり、
我々の深層意識と非常に密接な関わりを持つ、アーラヤ識。
唯識学における最大テーマではないかと思うのですが、
この『阿賴耶識』、
一般的には、
「住所」、「場所」、「蔵」などの意味に解釈されます。
例えば、
雪山(ヒマーラヤ)というのは、
「雪の蔵」(ヒマーアーラヤ)である。
そこから、アーラヤ識を「蔵識」と訳したりする。
ちなみに、
「識」とは、心のことであり認識作用のことをいう。
そして、住処・場所・蔵とされるのは、
そこに経験的世界の一切諸法が、
「種子」として存在するからである。
「種子」とは、
あたかも植物の種から芽・茎などがあらわれ出るように、
客観的世界の一切諸法(存在するすべての物)を生じる原因が、
心中に潜在するものと見て、これを種子と呼んだのである。
そのように、
一切諸法の種子を内蔵しているから、
アーラヤ識のことを「一切種子識」とも言う。
つまり、過去世から現在にいたるまでの、
あらゆる経験が後にのこした余力(潜在形成力)が、
潜在印象として貯蔵されている。
要するに、
それは経験的認識こそが、
すべての人間を動かす動力因(業)であることをあきらかにし、
仏教が解決しようとする最大のテーマである「業」というものの正体を、
人間の心の深奧に発見した論理である。
そうして、
その経験的認識の世界を、いかに乗り越えるかということが、
仏法というものにほかならない。
(『密教誕生』88頁より引用)
つまり、
この世界にはあらゆる生物・植物が存在しているが、
それらを種として存在・維持させる中心の核が、
アーラヤ識と呼ばれているものだ。
それは広くは種としてのアーラヤ識、民族としてのアーラヤ識、
家族(家系)としてのアーラヤ識、個人としてのアーラヤ識と分類される。
ここでは、
単なる個人としてのアーラヤ識を考えることとして、
ここに「運命の星」を想定する根拠がある。
アーラヤ識を種子識と呼ぶと言ったが、
種子はその業の核(コア」であり、根本であり、
中心主体である。
それを仏教では『因緣』と呼んでいる。
ある一定の業の発現を引き起こす元になるものが、「種子」であり、
それを発芽成長させる要素が、
周囲の環境(家族関係、地域社会、知人等)である。
その運命の星を解消する方法を発見したとき、
ついに密教は誕生したのだ!と言えるだろう。
今回は、
大乗仏教の代表的な唯識学から、因緣というものを見てみたわけです。
↑う
続編に至るというわけですね。
つまり、
我々の深層意識と非常に密接な関わりを持つ、アーラヤ識。
唯識学における最大テーマではないかと思うのですが、
この『阿賴耶識』、
一般的には、
「住所」、「場所」、「蔵」などの意味に解釈されます。
例えば、
雪山(ヒマーラヤ)というのは、
「雪の蔵」(ヒマーアーラヤ)である。
そこから、アーラヤ識を「蔵識」と訳したりする。
ちなみに、
「識」とは、心のことであり認識作用のことをいう。
そして、住処・場所・蔵とされるのは、
そこに経験的世界の一切諸法が、
「種子」として存在するからである。
「種子」とは、
あたかも植物の種から芽・茎などがあらわれ出るように、
客観的世界の一切諸法(存在するすべての物)を生じる原因が、
心中に潜在するものと見て、これを種子と呼んだのである。
そのように、
一切諸法の種子を内蔵しているから、
アーラヤ識のことを「一切種子識」とも言う。
つまり、過去世から現在にいたるまでの、
あらゆる経験が後にのこした余力(潜在形成力)が、
潜在印象として貯蔵されている。
要するに、
それは経験的認識こそが、
すべての人間を動かす動力因(業)であることをあきらかにし、
仏教が解決しようとする最大のテーマである「業」というものの正体を、
人間の心の深奧に発見した論理である。
そうして、
その経験的認識の世界を、いかに乗り越えるかということが、
仏法というものにほかならない。
(『密教誕生』88頁より引用)
つまり、
この世界にはあらゆる生物・植物が存在しているが、
それらを種として存在・維持させる中心の核が、
アーラヤ識と呼ばれているものだ。
それは広くは種としてのアーラヤ識、民族としてのアーラヤ識、
家族(家系)としてのアーラヤ識、個人としてのアーラヤ識と分類される。
ここでは、
単なる個人としてのアーラヤ識を考えることとして、
ここに「運命の星」を想定する根拠がある。
アーラヤ識を種子識と呼ぶと言ったが、
種子はその業の核(コア」であり、根本であり、
中心主体である。
それを仏教では『因緣』と呼んでいる。
ある一定の業の発現を引き起こす元になるものが、「種子」であり、
それを発芽成長させる要素が、
周囲の環境(家族関係、地域社会、知人等)である。
その運命の星を解消する方法を発見したとき、
ついに密教は誕生したのだ!と言えるだろう。
今回は、
大乗仏教の代表的な唯識学から、因緣というものを見てみたわけです。
↑う