六枚目のコイン

つぶやき、趣味,占星術,

新年明けましておめでとう御座います!

2019年12月31日 06時12分12秒 | 未来
2020年が明けました。
いろいろな想いを抱いておられるであろう皆様に、
その想いが叶いますことを願って、
さあ、この一年を精いっぱい生き抜かれることを期待申し上げます!
今年も、よろしくお願い申し上げます。
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被災地区のその後

2019年12月27日 10時02分53秒 | 未来
世界中をしずしずと浸食している「家運衰退」の運気が、
ここに来てはっきりと、
人々の目にも分かるような形を見せてきました。

今朝、テレビのニュースで、
台風災害のあった、千葉県大館地区の住民が、
コミュニティの維持ができないと、嘆いておられた。

それを聞いて、
「家運衰退の運気」が出たら、
こういう形で、後遺症を残すのだと、
そう痛感したのですね。

そして、その地区は緊密に維持されていたおかげで、
その地区が固い結束を維持し、
良い地区を作っていたのに、
それができなくなると、
住民同士の横のつながりは消えて、
強い連帯感はなくなり、
お互いに助け合うという、
そういう美徳は薄れていく。

そして、その地区には温かい人間同士のつながりが、
やがて消えていく。

そして、後に残るのは、
住んでいる住民はいるけれど、
住民同士の互いの冷たい、不信に満ちたまなざし。

そんな思いを私は持ったのだ。 

家運衰退の運気は、普段は何も感じないのです。
日常生活はいつものように続いて、
いつものような、変わらない生活が続けられる。

だが、今回のように、不意に災いは起こるのだ。
災いというものは不意に起きるのだが、
何気ない日常生活に慣れてしまった人々には、
それが永遠に続くものと思ってしまう。

それが落とし穴である。
災いはある日とつぜん起きるのだ。
そして、
家運衰退の運気がある場合は、
その地区に、そして人々に衰退をもたらす。
生⇒老⇒病⇒死の苦しみというが、
それがこれである。

原発事故でその土地を離れざるを得なくなった
福島県相馬地区などが然り。
永年住み慣れた故郷の土地、
いつものように生活していた日常。

それらが一挙に剥ぎ取られてしまうことの悲しみ。
愛着するものが無くなることは、
大変な悲しみなのだ。

今から7年前に起きた「東日本大震災」が、
まさにこれである。

あまりに強烈な災害だっただけに、
千葉県の台風災害とは別物だと思うかもしれない。
だが、
程度が違うだけで、本質は全く同じ。

大事なのは、
自分自身の運気を高めておくこと。
住んでいる地域の霊的な障害を取り除き、
清めておくこと。

住んでいるお互いの近隣に幸せをもたらすこと。
それが自分の幸せをもたらすのだ。
自分だけという考え方は、結果的に、
自分の幸福をまねくことにはならないのだ。
相互に幸せを招くことが大事。

来年2020年は、こういうケースで世界中が崩れていくように思われますね。

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運命学閑話(Ⅲ)

2019年12月26日 14時09分08秒 | 未来
運命学と言われるものには、
たくさんの占いがあります。
例えば、
代表的な四柱推命、紫微斗数、六壬神課、奇問遁甲、
断易、宿曜占星術、九星気学、河洛理数、西洋占星術、
算命学など、多数あります。

それらを使ってみれば、
みんな良い悪いの命が分かるわけですが、
それらはすべて,
前世の行いから生まれたところの、
行為の総体であることがわかります。

つまり、
過去世にどういう努力をして、
社会に貢献したか、人々の役に立ったか?
という内容が見えてくるわけですね。

つまり、
前世において努力した結果として、
得たところの才能や徳を使って、
今世での人生をわたっていくわけです。

それが良い命の下に生まれたということになるわけです。
中には、
前世での名前まで分かる運命学もあります
よ。

だから、
単に偶然的に良い命に生まれたわけではないのですね。
そんなことで、嬉しがったり悲しがったりするために、
運命学を学ぶのではないわけです。

そうすると、
運命学は一挙に三次元のレベルを超えて、
四次元レベルにまで進んでいくわけですね。
それほどに、運命学は奥が深いと、
我が師匠も仰有っておられましたね。

そして、
未来の予測も可能になってくるわけです。
こうなると、
本質的な自分自身の理解と、
さらに人生への対応が可能になります。

これは大変な利点ですね。
出生時の運気の内容だけで調べれば、
その人の一生がそこに描かれているってことは、
もう絶句するしかないんじゃないですか。

しかし、
しようがないですよね、
私たちの人生は過去世からの結果として、
延長としての人生なんだから。

生きていく上での選択肢としては、
過去からのハンディをどれだけ克服するかということになります。
怠けた人生を送った者は、
さらにハンディを背負って、
次の人生を送らなきゃならない。

すべて、自分自身の結果だということになります。
誰も責められないわけです。

そうなると、
何のために運命学を勉強するのかというと、
自分自身を知る為です。
自分自身を知って、より良い人生を送りたい。
満足感を得たいわけです。

そして、
運命を改善していくわけです。
そのための方法を、人類は生み出しているわけですから、
私たちは誰のためでもない、
自分自身と自分に関係ある人たちのため、
社会のために、
己を改善していくのですね。

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新しい時代の『地球宗教!』

2019年12月25日 18時39分23秒 | 未来
島田さんという宗教ジャーナリストがおられますね。
その方が、
「未来は無宗教だ!」という論評をされている、
ある雑誌でのレポートを、
表紙で見かけました。

○○学会の信者数が激減しているというのです。
まあ、
あそこなら仕方ないなあと思ったのですがね。
だって、
過ぎ去りし時代の過去の遺物宗教ですから。

で、
未来は信仰する人がいなくなるという、
短絡的結論を下すのは浅薄ではないかと思ったわけです。

どう思おうが、各人の自由なんですが、
評論家が浅はかな考えでレポートを書かれたりすると、
その本人の評価が落ちるだけならまだしも、
それを鵜呑みにした人が、
周囲に吹きまくるのも、迷惑な話しだけでなく、
双方に不幸をもたらすことにならないか?
と想像すると、
これまた良い結果をもたらさないことになるわけですから、
やはり、
ちゃんとした思考を行うべきだろうと考えるわけです。

なかなか前置きが長く、
かつ理屈っぽいですね。

そこで、
未来の宗教・信仰はどうあるべきかと推測するとき、
これまでの代表的な宗教であるキリスト教と、
これからの真に必要とされるであろうところの、
お釈迦様の説かれた仏教を考えざるを得ないわけです。

キリスト教は、
過ぎた時代の過去の遺物としての宗教であると断定してしまうのは、
それは偏った結論であると言わざるを得ません。

それに対して、
釈迦の説いた仏教こそが、
真に人類に幸福をもたらす宗教なのであるとする考えもまた、
一方的であると言うべきではないかと考えるのです。

つまり、
人は知性と感性の二つの資質をもって存在するわけですが、
どちらかが偏った人格というのは、
やはりちょっと問題であろうと思うわけですね。

そこで思ったのは、
これからの信仰には、
深い愛と高い知性を伴うものが必要だということだというべきだと考えるのです。

そして、忘れてはいけないのは、イスラム教。
これは勇気を備えた宗教ですね。
どんなに優しくても、
優柔不断な人間ではしようがない。
イスラム教の持つ行動力には、
本当に頭が下がる思いです。

だから、深い愛情と、高い知性、
そして、果敢な行動力を伴った宗教。

それで初めて、素晴らしい宗教となれる。
人類を初めて争いのない、
平和をもたらす手段としての宗教となれる。
そう考えるわけです。

ところが、
それだけなら、人間の理想を実現する宗教という点で、
私は完璧であろうと考えるのですが。

これからは、
時代が次元を超えてしまうのだという認識を持つとき、
それもまた未完成な宗教であり、
信仰形態であると断言せざるを得ないのです。

これからは、
時代を超越した次元を生きる時代。
そういう偉大な時代なのだと認識するとき、
人間にまさに欠けていたものを、
もういちど取り戻す必要があると。

それが『霊性』であります。
これからの時代には、
霊性を覚醒した宗教が必要であり不可欠なのです。

霊性を覚醒した信仰形態。
これこそ、次の時代の宗教であり、
人類の未来の宗教であります。

これは我が偉大なる師が唱えられた主張であります。
どちらかが欠けてもやはりダメであり、
どちらともの長所を備えてこそ、
完全な宗教になれる。

人間として、
かつ人間を越えた存在となるための信仰形態。
これが真に人間を完成させる宗教。
つまり、
西洋と東洋の神髄を取り入れた宗教。
それがこれからの人類の未来を創っていくのだと、
そう我が偉大なる師はおっしゃられるわけです。

仏陀・釈迦の説かれた成仏法に、
神々の後押しを受けて、
神力を込めた法を持った宗教・信仰形態。

私もその師のおっしゃられる法を追求していきたい。
そう思うのです。
それを私は目指したい。


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クリスマス・イブ

2019年12月24日 10時40分25秒 | つぶやき
今日はクリスマス・イブだよ~と、
若い女の子たちが騒いでいるようです。

“雨は夜更け過ぎに、雪へと変わるだろう、
・・・きっと君は来ないj、ひとりきりのクリスマス・イヴ
silentnight,holiynight”

巷の街には、こんな歌が流れていますよね。
うーん、
山下達郎のクリスマス・イヴって、女性っぽい歌詞ですね。
山下達郎って、こんな歌を作るなんて、
本質的に女性的なのかな?

まあ、それは良いとして、
クリスマス・イヴって、
どうしてクリスマス・イヴって言うの?
てっきり、
クリスマスの前夜だから、そういうのかと思ってた。
でも、違うんですよね。

ユダヤ暦では、
当日というのは、日没から翌日の日没までを指して言うのだそうです。
だから、
クリスマス・イブというのは、
クリスマス当日という意味なんだそうですね。

はあ、そうだったんですかと、
少々驚きながら、理解したわけです。

ちなみに、
ロシア正教会では、1月7日に行うそうです。
そして、
こう断ってありました。
それは誕生祭ではなく、降誕祭を意味するのであると。
同じなんじゃないかと思ったのですが、
ここではその疑問は、不問にして忘れましょう。

とにかく、
男連中は「クリスマス・イヴ」だなんて言われても、
あんまりピンとこないと思うんですが、
特に若い女の子は違いますね。
クリスマス・イヴには、彼といっしょに食事をして、
そのあとは、
できればラブラブになっちゃおう、なんて言う。

やはり、若い!

前置きはさておき、
ところで、
イエスの創立したと言われる「キリスト教」。
人はみな「原罪」を背負っていると説きます。
では、
その「原罪」はどうするつもりなのかと言うと、
イエスが身代わりになって、
その罪を背負ってくれるという。

まことに都合の良い教義・原理ですねえ。
その原罪がどこから来ているのか?
という由来を知らないから、
そんな都合の良い話が出来上がるわけで、
原罪の由来がわかれば、
誰もそんな不思議な教義を造るほど、
楽天的な頭脳でいられるわけがないのですが・・・。

だから、
キリスト教を作った人たち、
つまり西洋の人たちは、あまり利口じゃなかったんだと、
今になって、キリスト教というものを振り返ると、
わかるんですね。

白人というものは、そんなに利口じゃないぞと、
率直に言うならば、それが結論ですね。
同じ人間として、
平等だとは思うんです。

しかしながら、
霊的な面から考察すると、
やはり、
インド人とか、日本人とかと比較するとき、
やっぱり、差が出ると思います。
その東洋人が西洋人に戦争で負けたことから、
劣等的東洋人のイメージが出来上がってしまったのは、
少々残念なことであります。

「宗教」というのは、大本の教えという意味だそうで、
あらゆる人生のバックボーンであります。
屋台骨であります。

その思想を調べると、
その民族の本質がわかるのでしょうね。
よくよく観察したいものですね。

私たちは本来の民族性に目覚めることで、
ルーツにも目覚めていける。
本当に日本人であることを気づけば、
もっともっと、
私達の持つところの伝統に自信を回復できる。

そう思います。
そして,話はもとに戻るのですが、
キリスト教で言うところの「原罪」
これを解消して、本来の完全なる存在に戻ることを説いたのが、
ブッダ・釋迦であります。
お釈迦様はそのすぐれた霊性故に、
最高の知慧を獲得されてた。
その結果、
「原罪」を解消するための修行法を編成されたのです。
そして、
それを弟子たちに指導して伝えられたのです。

それが、
本来言うところの「仏教」。
それがシャカの説いた仏教だったわけです。
それを今、回復しなければならない。

そして、
キリスト教が本来の救済の宗教になるには、
この釈迦の説いた「成仏法」を取り入れなければならない。
ブッダの説いた「成仏法」を取り入れるとき、
キリスト教は真の救済の宗教となることができる。

そして、人々は知ることになるだろう。
これが救われるということなんだと、
実感をもって理解するだろう。

今こそ、
人類は救われるための方法=成仏法を求めなければならない!
〈/span〉
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