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東京の夜景動画ブログです。

場の終焉

2008-06-10 12:24:42 | 業務関連
Ikebukuro046


今日は朝から好い天気だったが、スモッグ状の薄い雲がほぼ全天にかかっていたため、撮影は断念して布団を干し、洗濯して部屋を片付けた。



とりあえず事務所へ向かうが、当然のように日曜に秋葉原で起きた無差別殺人事件が話題に上る。個人的にはひとつの場が終焉を迎えた出来事と捉えており、オタクという仮想的な人間集団もまたその終焉を迎えつつあるのだろうと思う。



その時々に応じてメディアが時代を象徴する「場とそこに集う人々」を勝手に設定し、情け容赦なく消費していくというサイクルによってかつては上野や新宿が消費され、最近では渋谷や六本木といった街も出がらしと成り果ててしまった。だが、最後には必ずといってもよいほど「治安の悪化」というフレーズが多用され、例えば地方出身者や在日韓国、朝鮮人に始まり、サヨク学生やチーマーなどに至るその時々の流行に応じた人間集団が、メディアにより社会的悪として糾弾、排除される。まぁ、祭りの終わりには生贄めいたなにかが必要なのではないかとも思えてしまうが、メディアという存在の無慈悲さを基準に考えると、それが当然であるかのようにすら感じられてうんざりする。
実際、メディアは加害者に「オタク」と言う名のレッテルを貼ることで、いわゆる「まっとうな人々とは無縁の反社会的怪物」であるかのごとく喧伝している。ご存知のようにオタクと言うレッテルそのものが差別的にも使われてきた過去とあいまって、社会的に立場の弱い人々がスケープゴートとなってしまう可能性に、言いようのない危機感を覚える。



それにしても思わされるのは、こういう事態に直面した際に芸術が、あるいは作家が発揮する力のなさ、あるいはいびつな強さだ。



特に写真という表現手法においては顕著なのだが、よほど注意深く表現に磨きをかけない限り、本来は複雑な物事を著しく単純化し、そして視覚的に刺激の強い部分のみを抜き出して、極めて表面的なメッセージを発信してしまう。いうなればプロパガンダであり、フレームアップとみなされても仕方ないだろう。もちろん、全ての芸術、特に写真がそうであるわけでもないし、例えば「DAYS JAPAN」のように高邁な理想を掲げ、孤軍奮闘しているかのように主張している媒体もなくはない。だが、その「DAYS JAPAN」にしても「写真表現のみで」複雑な問題をうまく捌ききっているとは到底いえない部分があり、むしろ文章が少ない分だけ扇情的にすぎる嫌いすらあるのではなかろうか?



例えば秋葉原という「地理上の固定された場」を設定し、そこに集う人々という「物理的な人間存在」に焦点を当て、写真という「視覚のみに訴えかける表現」で問題を解き明かそうとしても、それはほぼ間違いなく徒労に終わるか、あるいはより問題をこじらせるだけだろうと思う。もしかしたら、写真という静止画像がメディアにおいて果たしていた役割の全てすら、この瞬間にも終焉を迎えつつあるではないかと、そのように思えてならない。



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