黄金の唇、青いハート、眼球のオブジェ――
先日、新国立美術館でみてきた「マン・レイ展」の残像は、いかにも“マン・レイ”なのだが
今展のサブタイトルが「知られざる創作の秘密」だったことを、私は行くまでうっかり忘れていた。
そこでみたのは、私がよく知っていると思っていた写真家マン・レイとはまったく別の芸術家だった。
(*引用作品はマン・レイ展図録より)
遡ること、学生時代に観たマン・レイ展は、ポストカードになるような代表的写真が中心だった。
当時は、大辻清司先生の授業に触発されて写真を撮り始めたばかりだったので、マン・レイが好んだ
「ソラリゼーション」(モノクロ写真を現像する際、通常より過度の露光で白黒が反転する現象)や
「レイヨグラフ/フォトグラム」(カメラを用いず、印画紙上に直接物体を置いて感光させる表現)の
写真を1作1作穴があくほど眺め、最後は眩暈を覚えるほどへとへとになった記憶がある。
大人のためのアルファベット(レイヨグラフ1970)
これはパリ時代、マン・レイの愛人だったキキ・ド・モンパルナスを
モデルにした有名な実験フォト「黒と白」(1926)
現代なら、フォトショップで瞬時に加工できてしまうのかもしれないが、
もし現代にマン・レイが生きていたら、もっと凄い実験フォトを編み出していたのかもしれず。
芸術上の“実験”は、常に時代と共に存在価値じたいが変容していく。
ちなみにマン・レイが手がけた肖像写真は、キキをはじめ、ピカソ、ピカビア、サティ、
ジャコメッティなどなど時代の寵児ばかり。なぜかカメラ目線でないショットが多い。
あくまでも私見だが、アンリ=カルティエ・ブレッソンの肖像写真と比べると、
人物を瞬時にとらえるブレッソンの圧倒的な迫力に、マン・レイの肖像写真は遠く及ばない気がした。
まあ二人とも、時代も畑も違うのだけれど。
マン・レイは写真でも絵でも立体でも、しばしば「手」をモチーフにしている。
デッサンは、その人の“天才度”を最も端的に示すもの、と私は勝手に思っているのだが
彼の素描はひどく魅力的ながら、決して天才の域には届かない。
ただ、マン・レイの描く「手」にはどれも、不思議な生命力が宿っている。
手の習作(年代不詳)
マン・レイとマックス・エルンストによるフロッタージュ(1936)も非常に魅力的。
NYからパリに移って来た時代のマン・レイ作品の多くには、あたらしい勢いがある。
1920年代に、棄てられていたランプシェードをヒントに創ったオブジェ(当時、美術館のスタッフに
ゴミと間違われて棄てられてしまった……といういわくつきの作品)を、彼は1960年代に
「未解決の耳飾り」という名のアクセサリー作品としてリメイクしている。
ちなみに、「未解決の耳飾り」を着けて微笑んでいるのは、カトリーヌ・ドヌーヴ。
マン・レイは生涯を通じて、自作のリメイク作品を乱発するが、
それはミロやキリコが晩年に自作を模倣したようなアイデアの枯渇に起因するものではなく
常にオリジナルにこだわらず、スタイルに溺れず、人生が実験道場であり続けたマン・レイという
永遠のダダイストであり、永遠のシュルレアリストの“実験”の延長だったのかもしれない。
ピカソ同様、麗しきファム・ファタルたちとの蜜月と別離を多くの作品に転じてきたマン・レイだが、
彼の最後のミューズとなったのが、LA時代に出逢ったモデル、ジュリエット。
最後のコーナーには、ポップなサングラスをかけて、マン・レイの晩年を実に幸福な面持ちで語る
お婆さんになったジュリエットの秀逸なドキュメント映像が上映されていた(これ、必見)。
会場では他にも 20年代の実験映画「ひとで」「エマク・バキア」などが同時上映されていた。
高校時代に観て以来 内容はすっかり忘却の彼方だったのだが、改めて観るとひどく懐かしかった。
今回のマン・レイ展、もの凄くざっくり言ってしまうと、商業写真で稼ぐことをよしとせず、
一つのスタイルに拘泥することなく、アートとしての実験映像や絵画、立体作品などを模索し続けた
芸術家マン・レイの試行錯誤の足跡を体感できる絶好の企画と思った。
(ちなみに8/16まで併催していたオルセー美術館展は長蛇の列だったが、マン・レイ展はそんなに
混んでいなかった。ただ、作品保護のため会場が冷蔵庫並みに寒いので、薄着に注意です)
暮れなずむ生温かな夏の黄昏時、新国立美術館を後に、オーリエさんと六本木から恵比寿へ。
メトロの中で、キュートな眠り姫たちに遭遇した。2010年、終戦記念日前夜の平和な一瞬。
恵比寿の心地よいレストランで、畏友オーリエさんとささやかなお盆休みナイト。
実に一カ月以上ぶりのオフに、安息の乾杯。
マン・レイ展に触発され、帰宅してから不意に懐かしくなって学生時代の写真ファイルを探すと
あったあった、ソラリゼーションやレイヨグラフを試して遊んでいた頃の印画紙がわさわさと。
ベタ焼きに写っている当時の風景や友人たち、下手っぴなセルフポートレートに、しばしくらくら。。
自分でフィルムを現像したり、印画紙に焼いたりしたのは、結局この頃だけ。
デジタル化した今では、貴重な体験だったのかもしれない。
暗室の酸っぱいにおいが懐かしいな。。
☆
残暑たけなわの先週半ば、本郷にある東大前の老舗喫茶店「こころ」にて、
40年間この店に通い続けているという哲学者 内田節先生のインタビュー。
創業55年のこのお店、名前の由来はもちろん漱石。
戦前はここに新宿中村屋本店があったのだとか。
店のご主人は、私が店内のステンドグラスを撮っていると、
「これ、東大の先生に描いてもらった贋物なのよ」と教えてくれた。
東大の赤煉瓦を臨む窓辺の席で 内田先生から伺った森のお話はとても深く印象的だった。
7月に取材した南方熊楠関連の記事と共に、9月発売の季刊誌「Kanon」の熊野特集に
掲載されるので、また追ってご紹介します。
取材後、少し暑さが和らいだので、東大の中を久々に散策。駒場といい、本郷といい、
旧前田公爵家阯はつくづく贅沢だなあ。内田祥三による図書館や医学部系の建物も存在感が違う。
「東京大学総合研究博物館」も東大の穴場だ。常設展「キュラトリアル・グラフィティ」に加え
「火星 ウソカラデタマコト」展と、「昆虫標本の世界」展も併催していたので寄り道。
エントランスにいきなりリアルなスカルがどーんと展示されており、それが妙にスタイリッシュだった。
大森貝塚から出土された土器の破片の展示も、アイウエイウエイのアート作品のような風情だし、
真っ赤な壁にずらりと並んだ人骨も、静謐なインスタレーションの如し。
考古学的な専門知識がないので恐縮だが、秀逸な展示デザインだけでも一見の価値あり。
ただ、骸骨にはやっぱり最後にそっと合掌してきました。
その奥の「火星」展もまたシャープな展示だった。
ちなみに火星人がいるという言説の源は、19世紀イタリアの天文学者スキャパレリが火星観察図に
「Canali(溝)」と書いたところ、仏語や英語に「Canal(運河)」と誤訳されてしまったことから、
「火星には運河を作るような高度な文明があるに違いない」という妄想に発展したのだとか。
非常に知的でクールな展示の中で、なぜか古典的なイカorタコ型宇宙人の模型が
ひたすらくるくる回っていたのに大変うけました(笑)
「昆虫標本の世界」展は、入口にいたスタッフが「蟻の標本、ぜひ見てくださいね。
ぱっと見ると何もないように見えるけど、よーーく見ると1mm以下の蟻がちゃんといますからね」と
悪戯っぽく教えてくれた通り、米粒に文字を書く芸に匹敵するほど細密な蟻標本に呆然。。
幼い頃、父が採取したオオムラサキを丁寧に標本にしているのを目の当たりにしたことがあるが
標本とは残酷な棺桶ではなく、生の形を永遠に留めておく魔法の箱なのだと その時理解した。
それにしても、かつてオオムラサキが世田谷区にも飛んでいたとは驚きだった。
しかし、蟻といい、骸骨といい、子供時代にはいずれも一番苦手だったものたち。
前者は映画『黒い絨毯』の、後者は手塚治虫の短編漫画によるトラウマなのだが、
実は今もスカルのデザインは大の苦手だし、蟻がうっかり手についたりすると悲鳴をあげてしまう。
けど、蝉は大好き。博物館の入口に、生きている蝉がいて少しほっとした。
といっても、もう飛び立つ力もなく、短い生をここでまっとうしようとしているようだった。
辺りに鳴り響く激しい蝉時雨の下で、この蝉に なぜだか ありがとう といいたくなった。
帰りに本郷通りで薬局前で今度はインコに遭遇。カゴの前にはなぜかペットボトル入りの
ペンペン草が供えてある。サトちゃんも含めたこの絶妙な配置、何かのインスタレーション?
帰途、「ルオー」の前を通ったら、つい寄り道したくなり、アイスクリーム休憩。
2階には私以外誰もおらず、ルオーの複製画のピエロだけが所在なさげに佇んでいた。
店を出る頃には頭上に夕暮が迫っていた。
まだ蒸し暑いのに、生温かな風からは うっすら秋の匂いがした。