[書籍紹介]
江戸末期の浮世絵師・弘瀬金蔵(ひろせきんぞう) の生涯を描く。
文化9年10月1日(1812年11月4日)生れ、
明治9年(1876年)3月8日没というから、
まさに、江戸時代末期から明治にかけて生きた人物。
生前10回以上にわたり改名しているが、
出身地の高知県を中心に絵金(えきん)の通称で知られる。
高知城下で貧しい髪結いの子として生まれた金蔵は、
幼少の折から絵の才能で評判となり、
16歳で江戸に行き土佐江戸藩邸御用絵師・前村洞和(まえむらとうわ)に師事する。
通常ならば10年はかかるとされる修行期間を
足かけ3年で修了し、
師の名前の一文字「洞」をもらって、
林洞意美高(はやしとういよしたか)の名を得て高知に帰郷、
20歳にして土佐藩家老・桐間家の御用絵師となる。
金蔵が江戸に上るのが、
先々代の藩主の娘・徳姫(19歳)の婚儀のために
江戸に向かう行列の陸尺(駕籠の担い手)をし、
そのまま江戸に留まった、という話は、
他の資料には出て来ないから、
作者の創作か?
その陸尺の仕組みが興味深い。
16名の編成で、
4人ずつ交代で担ぐ。
30分ごとに交代するので、
2時間で一巡り。
一日8時間進むとして、
日に4回の出番。
車のない時代の話だ。
狩野派塾のシステムも面白い。
入門の条件は、 7、8歳で筆を持ち、
「三巻物」と呼ばれるものが既に描けること。
三巻物とは、花鳥、山水、人物など
36枚を3巻に仕立てたもの。
入門が許されると、
狩野常信が描いた山水人物60枚を模写。
これを1年半で終わらせ、
次の半年で常信の花鳥12枚の模写。
次に一枚物、福禄寿や雪舟の一幅物など中国につながる模写。
そして、探幽の「賢聖障子」の模写。
師の別号を拝領するのは、
一枚物を初めてから7、8年後、
師の名の一字拝領は更に2年の歳月を得て卒業となる。
金蔵はこれを3年で成し遂げたというから、天才だったのだろう。
帰国後、金蔵は、
狩野探幽の贋作を描いた嫌疑を掛けられて、
職を解かれ高知城下所払いの処分となり、
狩野派からは破門を言い渡される。
諸説あるが、本書では、
頼まれて模写したものが古物商の手に渡り、
偽の落款を押されたもので、
洞意に対する周囲の嫉妬により濡れ衣を着せられた、
という説を取っている。
贋作事件の時、
林洞意の作品は土佐藩によってことごとく焼き捨てられたので、
その時代の絵は、
現在まで1枚も発見されていない。
追放後、狩野派の筆法を禁じられたので、
それをしのぶ作品は残っていない。
わずかに、人目に触れない作品として描いた
多くの白描画のなかに、
その時代の絵金を垣間見ることができるのみ。
藩の御用絵師を解かれた以後、
「町絵師・金蔵」を名乗って、
地元の寺社や農民、漁民に頼まれるがままに芝居絵や台提灯絵、
絵馬、凧絵などを数多く描き「絵金」の愛称で親しまれた。
版元のない高知のことなので、
版画ではなく、すべて一枚もの。
その後、金蔵は旅に出、
謎の十年間を経て、再び土佐に戻り、
華やかな狩野派のそれではなく、
おどろおどろしい芝居絵を描く絵師として復活。
エネルギッシュに創作活動に挑み、
屏風絵、襖絵、絵馬提灯など、数々の作品を世に残している。
狩野派の手法を捨て、
猥雑、土俗的で血みどろの芝居絵だ。
なぜ晩年、歌舞伎、浄瑠璃から題材を取り、
おどろおどろしい赤色を使った
血みどろの屏風絵を描くようになったかは、
幕末当時の血なまぐさい世相を反映した、というのが、本書の主張。
弟子の武市半平太の切腹や
斬首された若者たちへの憤りが
絵へのエネルギーとなるあたり鬼気迫るものがあった。
「血の色は厄払いじゃ。万民の不安を払い落とすのじゃ」
明治9年(1876年)3月8日死去。
享年65歳。
弟子は墓碑によると数百人にのぼるとあり、
絵金風の屏風絵は現在200点余確認されており、
当地での人気の高さが窺える。
金蔵に大きな影響を与え、
金蔵自身も似たものを描いたと言われる
「雪中梅竹遊禽図」。
本書は、生涯を辿る物語としては読みやすいが、
文学性に欠けるので、
読後の印象は薄い。
1971年には、絵金を主人公にした映画「闇の中の魑魅魍魎」が製作され、
カンヌ映画祭に正式出品された。
監督は中平康、主演は麿赤児。
原作は榎本滋民の「血みどろの絵金」。
新藤兼人が脚本を担当した。
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