先日は、京浜急行の、ここ↓へ。
東京十社の、最後、品川神社に訪問するためです。
ここが正面。
双龍鳥居といい、
左の柱に昇り龍、
右の柱に降り龍が彫刻されています。
長い階段。
小高い丘の上に作られたことが分かります。
上から見たところ。
途中左側にあるこの階段を登ると、
富士塚(品川富士)に行けます。
明治2年(1869)から5年(1872)にかけての築造。
この富士塚に登ることで
本物の富士山に登ったのと同じ御利益があるとする
「富士信仰」に基づくものです。
品川区指定有形民俗文化財。
都内の富士塚では最大の高さ約15mあり、
こんな急階段を登ると、
頂上。
第一京浜道路を見下ろします。
上から見た境内。
毎年7月上旬には山開きの神事が行われています。
登りとは異なるルートで下山すると、
富士山を神体山として祀る神社、浅間神社の脇に出ます。
浅間神社から見上げた品川富士の景観。
「ぶじかえる」の石像。
平成に入ってから奉納された石像で、
「富士+かえる→ぶじかえる(無事帰る)」という言葉遊びから、
交通の安全を守ってくれるとされています。
正面にある石造りの鳥居。
都内では上野東照宮に次いで二番目に古いものです。
境内には、いろいろな碑があります。
庖丁塚。
使い古した包丁、調理された生き物たちを慰霊するためのもの。 調理をなりわいにする人々が多かった、
宿場町としての歴史を感じさせてくれます。
正面の本殿。
今からおよそ800年程前の平安時代末期の文治3年(1187)に、
源頼朝が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座洲崎神社)の
天比理乃※(口偏に羊)命を当地にお迎えして
海上交通安全と祈願成就を祈られたのが創始。
慶長5年(1600)、徳川家康が
関ヶ原の戦いへ出陣の際に参拝し戦勝を祈願され、
その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納。
寛永14年(1637)三代将軍徳川家光により
東海寺が建立された際、その鎮守と定められ、
徳川将軍家の庇護を受けました。
老朽化が進み、
昭和39年(1964)、現在の社殿が再建されました。
そして、令和2年(2020)に天皇陛下の御即位を奉祝し、
「御大典記念事業」として、御社殿の修復を行いました。
宝物殿 。
不規則な公開日程で、
閉まっていましたが、
徳川家康公が奉納した天下一嘗の面などが収められています。
神楽殿。
手水舎(てみずや)。
水盤の向こう側に河童の像が 。
「水かけかっぱ」と呼ばれるもので、
水難除け・無病息災を願って、奉納されたもの。
右側にある阿那稲荷神社 。
この鳥居は右下に続き、
小さな社に。
社名と並んで、「一粒萬倍」の文字があるのは、
ここには、一粒萬倍の泉があり、
掲示には、「米は一粒の種より萬倍の稲穂となる」、
「家門・家業の繁栄を願い、印鑑や銭にこの霊水を注ぐが吉」と、
金運アップがご利益のよう。
確か、板垣退助墓所があるはずだと
本殿の裏側に回ると、板垣家の墓所が。
元々神社とは別なものでしたが、
地理的な関係で神社を通らなければ行けません。
これがお墓。
「板垣死すとも自由は死なず」の碑。
明治15年(1882 年)4月6日、
岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷した際、
板垣が口にした「板垣死すとも自由は死せず」を記念するもの。
板垣は、この時を含め、5回暗殺未遂事件に遭っています。
懐かしい百円札。
戦前には50銭札にも。
想像以上に大きな神社でした。
これで、「東京十社巡り」は、終了。
東京十社は、
明治元年(1868)、明治天皇が
新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために、
都内の十の神社を「准勅祭神社」と定めら、
御勅使が参拝し、祈願をされた場所。