goo blog サービス終了のお知らせ 

空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

愛宕神社

2024年11月17日 23時00分00秒 | 名所めぐり

虎ノ門近辺巡り、
3か所目は愛宕神社(あたごじんじゃ)です。

それにしても、この防水桶の標識は何とかならないものか。

愛宕神社は、標高25.7メートルの愛宕山の山頂にあります。


愛宕山は、23区内で一番高い山
それより高い新宿区の箱根山(44.6メートル)は人工の山ですので、
自然の地形としては一番高い山ということになります。
江戸時代には、見晴らしの名所として、見物客で賑わいました。
今は高層ビルが林立して見えませんが、
当時は、山頂から東京湾や房総半島までを
見渡すことができたと言われています。

幕末に、
勝海舟と西郷隆盛が
愛宕山で会談し、
二人が江戸の街を見下ろして、
「戦火で消失させてしまうのは忍びない」と、
江戸城無血開城につなげたという逸話があります。

なお、愛宕山という地名は全国各地にあります。
ちなみに、落語の「愛宕山」の舞台は、京都。

入り口にある大鳥居

愛宕神社に登る石段は二つあり、
こちらは男坂86段。

こちらは傾斜がゆるやかな、女坂108段。

他に、車で行くことができる道と
エレベーターもあります。

こんな注意書きも。

男坂は神社創建時の姿が保たれ、
上り始めたら休むことが許されません。
約40度もの急勾配には、
踊り場がないため、
途中で足を止めて見上げると
上体を大きくそらす体勢になって、
転げ落ちそうな感覚に襲われるのです。

別名、「出世の石段」と呼ばれるのは、
次のような故事によります。

1634年2月25日(寛永11年1月28日)、
徳川幕府3代将軍家光が
増上寺への参拝の帰路に、
愛宕山から梅の香りがするのに気づきました。
(山上に梅が咲いているのを見て、という説もある。)
「誰か馬で石段を上り、梅を取ってくる者はいないか」
と命じたところ、
並みいる家来たちが尻込みする中、
四国丸亀藩士、曲垣(まがき)平九郎
愛馬とともに階段を上り、
梅を取って再び階段を下り、
梅を献上して、
馬術の名人として全国にその名を轟かせた、
という講談譚。

この故事にちなみ、
この階段を「出世の石段」と呼んで、
急な石段を登ると出世するという言い伝えがあり、
多くのビジネスマンが
この石段を登って神社にお参りに見えています。

しかし、実際の石段を見て、
ここを馬の蹄で登るのは至難のわざ、
後世の作り話だろうと思いましたが、
調べると、明治から昭和にかけて
3度の成功例があるといいます。

1例目は仙台藩で馬術指南役を務め、
廃藩後曲馬師をしていた石川清馬(せいま)。
師の四戸三平が挑み、果たせなかった
出世の石段登頂を1882年(明治15年)に成功させ、
これにより石川家は徳川慶喜より葵の紋の使用を許されました。

2例目は参謀本部馬丁の岩木利夫
1925年(大正14年)11月8日、
愛馬平形の引退記念として挑戦し、
観衆が見守る中成功させました。
この模様は山頂の東京放送局によって中継され、
(日本初の生中継とされる)
昭和天皇の耳にも入り、
平形は陸軍騎兵学校の将校用乗馬として
使われ続けることとなりました。
この時、上りは1分ほどで駆け上がりましたが、
下りは45分を要したといいます。
上りより下りの方が恐怖感は大きいと思われますので、
馬が何度も立ち止まったのではないでしょうか。

3例目は馬術のスタントマン、渡辺隆馬
1982年(昭和57年)、
日本テレビの特別番組「史実に挑戦」において、
安全網や命綱、保護帽などの安全策を施した上で
32秒で登頂しました。

という成功例は伝わっているものの、
失敗例はそれより多いはず。
どんな悲惨な結果になったのでしょうか。

長い石段を上がると、
一の鳥居が迎えます。

境内には都会とは思えぬほど多くの木々が茂り、
四季折々の花々が咲き乱れます。

山の証しである三角点があります。

丹塗りの門「神門」。

江戸幕府ゆかりの印として、
葵の御紋が飾られています。

社殿

主祭神「火産霊命(ほむすびのみこと)」を祀ります。
火産霊命は別名「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」と言い、
「伊邪那美命(いざなみのみこと)」から最後に産まれた炎の神。
しかし炎の神ゆえに、
伊邪那美命に大やけどを負わせ、
これが原因で伊邪那美命は亡くなってしまいました。
怒った夫の「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)」は、
自らの手で火産霊神の首を切り落とします。
しかしその血や体からは、
岩石の神、火の神、雷神、雨の神、水の神、
多くの山々の神々などが生まれました。
ご神徳は、鍛冶・土器・消防・防災などですが、
火はすべてを浄化して帳消しにすることから、
「祓いの神」としても信仰されています。


御社殿の中に入れる人は特別な人たちだけです。
奥には「本殿」がありますが、ふだん開かれることはありません。

手水舎

ここで手を口とを清めます。
手は行為の象徴。人のふるまいを清めます。
口はことばの象徴。人のことばを清めます。

招き石

この石を撫でると福が身に付くといわれており、

たくさんの人に撫でられたせいか、ツルツルになっています。

これは、山の印、三角点

将軍梅。

曲垣平九郎が手折った梅といわれています。

池には、鯉たちが泳いでいます。

3つの末社。

左から太郎坊社


福寿稲荷社


大黒天社

その他、境内にはいろいろなものがあります。

ところで、山と丘の違いですが、
国土地理院では,山の定義はしていません。
しかし、辞典等によりますと、
「山というのは、周りに比べて地面が盛り上がって高くなっているところ」
と言われています。(笑)
それでは丘と同じで、
山と丘の区別は明確ではありません。

国際連合環境計画においては、
高度が少なくとも2500メートル以上あるところ、
イギリスでは標高600メートル以上の高地などと決められています。
ブリタニカ百科事典では、
相対的に2,000 フィート(610メートル)の高さを持つものを山としています。
UIAA(国際的な山岳とクライミングの団体)の定める山の定義では、
標高が700メートル以上あり、
山頂に向かって急峻な傾斜を持つ陸地とされ、
標高が700メートル未満でも、
山脈の一部として形成されている場合、山に分類されます。

比較的日本の基準は甘く、
山と呼んでも、そうでないものが沢山あます。

日本で最も低い山は
大阪にある天保山(4.53メートル)でしたが、


今は仙台の日和山(3メートル)です。


日和山は元は標高が6メートルありましたが、
東日本大震災で削られて3メートルになったことで、
天保山より低くなってしまいました。
ただ、日和山も天保山も自然の山ではなく筑山(人工の山)ですので、
自然の山で1番低いのは徳島の弁天山(6.1メートル)です。

日和山に1位を譲った大阪の天保山ですが、
「三角点のある日本一低い山」としてなら、
日本一を維持しています。
三角点は正確な位置を求める測量をおこなうために、
国土地理院が作った位置の基準となる点のことで、
仙台の日和山には三角点がありません。
このため「正確な位置を測量している」山としては、
天保山が1番低いというわけです。

東京23区には標高50メートル以下の「山」が沢山あります。
青山、代官山、権現山
城南五山(島津山、池田山、御殿山、八ツ山、花房山)
千石山、飛鳥山などですが、
上野恩賜公園も「上野の山」と呼ばれています。

ただし、国土地理院の地形図に記載されている山は愛宕山だけ。
国土地理院の2万5千分の1地形図に
山の名前が記載されていることが、
一般的に山であるかどうかの識別に使われています。
このため、正式に
愛宕山が東京23区で最も高くて、
その上、最も低い山ということになります。

 


成田山新勝寺

2024年11月09日 23時00分00秒 | 名所めぐり

先日、家族三人で、遠出しました。

乗用車で高速道路を走るのは、久しぶり。

成田市内に入り、

目的地は、ここ、成田山新勝寺

家を出てから、ここまでで52分
さすが高速。

このトンネルをくぐります。

歩いた順路とは違いますが、
まず、参道から。

成田山の参道はゆっくり曲がり、かつ下ります。

こういうお店が沢山。

こんな人も。

総門に来ました。

2007年、ケヤキ造りの総門が完成。
高さ15m、横14m、奥行8m。
成田山の表玄関として多くの参詣者をお迎えしています。

総門を通り抜けると、階段の先に仁王門が見えてきます。


1831年に建立された重要文化財で、
門の左右には『仏教の守護神』とされる仁王像(金剛力士像)が安置されています。

中央の大提灯には、大きく『魚がし』と書かれています。


築地魚河岸の旦那衆からも強い信仰があり、
仁王門に大提灯を奉納するのが、古くからの伝統でした。
現在のものは、1968(昭和43)年に奉納され、
重さは800㎏。

ここには、亀に似た岩があります。

上から見たところ。

ここが境内。

成田山新勝寺は、真言宗智山派の大本山で、
全国各地の不動尊信仰の総府。
1080余年の歴史があり、
源頼朝、水戸光圀、歴代の市川團十郎といった
多くの歴史上の人物からも信仰されてきました。

その信仰は、現代にも脈々と受け継がれ、
年間約1000万人、
正月三が日だけで300万人もの参詣客が訪れるほどです。

天慶2年(西暦939 年)、
関東の武将・平将門が新皇を名乗り、朝廷と敵対。
いわゆる平将門の乱が勃発します。
朝廷は追討軍を差し向けると同時に
真言宗の僧・寛朝が天皇の勅命を受け、
京の高雄山(神護寺)護摩堂に安置されていた
不動明王像を成田の地に運び、
御護摩を焚いて乱が鎮まるようにと祈願したところ、
祈願最後の日に平将門が敗北し、
これを朱雀天皇は、不動明王の霊験と歓喜しました。
その後、寛朝が帰京しようとしても
不動明王像が動こうとしないため、
成田の地に留まることとなり、
人びとを救うために成田山新勝寺が開山されました。

境内は広く、新旧の様々な伽藍が立ち並び、
庶民の信仰の場の雰囲気を残しています。
仁王門、三重塔、釈迦堂、額堂、光明堂の5棟が
国の重要文化財に指定されています。

三重塔

江戸時代半ば、1712(正徳2)年に建立された重要文化財です。
一枚垂木と呼ばれる珍しい垂木が使用されており、
垂木の先端が龍の彫刻で飾られているのが印象的です。

高さは25mで、
塔内には大日如来を中心に五智如来が奉安され、
周囲には「十六羅漢」の彫刻がめぐらされています。

鐘楼

一切経堂( いっさいきょうどう) 

1722年(享保7 年)に建てられました。
内の輪蔵には、一切経(約2,000 冊)が納められています。
入口の額は、松平定信公の筆によるものです。

聖徳太子堂

1992(平成4 )年に建立、2007(平成19)年に修復されました。
日本の仏教興隆の祖である聖徳太子の理念にもとづき、
世界平和を願って建てられました。
堂内には、大山忠作画伯の壁画が6面に渡り描かれてあり、
聖徳太子像が奉安されています。

大本堂

1968年建立。
弘法大師・空海が自ら彫ったと言われる
不動明王が、御本尊として安置されています。

1968昭和43)年に4代目の本堂として建立され、
入母屋造り二重屋根の鉄筋コンクリート造で、
間口95.4m、奥行59.9m、高さ32.6m。

平将門の乱を納めた御護摩祈祷も、
開山以来、1000年以上毎日欠かさず大本堂で行われています。

残念、撮影禁止。

七五三のお祝い。

本堂から見たところ。

ここでは

おみくじが。

自動販売機も。

菊の季節。

釈迦堂

今の大本堂ができる前の本堂で、1858(安政5 )年に建てられた重要文化財。
1964年、今の大本堂の建立にあたり、
移築され、現在は厄除けの祈祷所になっています。

仏教を開いた釈迦如来や、普賢、文殊、弥勒、千手観音の四菩薩が奉安されています。

出世稲荷

商売繁昌、開運成就、火伏せのご利益があると伝えられており、
古くから出世稲荷と呼ばれて親しまれています。

ここから、更に奥へ。

額堂

1861(文久元)年に、二代目の額堂として建立した重要文化財。
信徒から奉納された額や絵馬などをかけるための建物で、
江戸時代に奉納された貴重な絵馬や彫刻が見られます。

これは、七代目市川團十郎の石像。

初代の市川團十郎は跡継ぎに恵まれず、
当時の本堂である薬師堂で子授けを一心に祈願します。
すると、待望の長男を授かりました。
これを喜んだ初代團十郎は、
不動明王をテーマにした歌舞伎を親子で披露し、
江戸で大ヒット。
この上演を機に市川家は「成田屋」を屋号として使い始めました。

開山堂

光明堂

1701(元禄14)年に建てられた、
釈迦堂が本堂になる前の旧本堂であり、
江戸時代中期の貴重な建物で、重要文化財。
愛染明王、不動明王、大日如来が祀られています。
愛染明王が祀られていることから、
恋愛成就、縁結びのパワースポットとも言われています。

奥之院

光明堂の後方にあります。
奥行き11.15m、高さ1.65m、幅1.41mの洞窟になっており、
不動明王の本地仏である大日如来が安置されています。
通常は閉鎖されており、


大日如来の祭礼である成田祇園会の期間中のみ開帳されます。

醫王殿(いおうでん)

開基1080年を記念して2017(平成29)年に建立された、
一番新しいお堂です。
木造総檜、一重宝形造の御堂には
薬師瑠璃光如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将が奉安されています。

平和大塔

1984(昭和59)年に建立された、
真言密教の教えを象徴する塔です。
鉄筋コンクリート造、高さ58.1mの多宝塔形の仏塔。
外観は二重塔ですが、内部は5階建て。
地下にはヨハネパウロ2世教皇、レーガン大統領、
エリザベス2世女王、中曽根総理大臣など、
各国の首相から寄せられた「平和へのメッセージ」を封入したタイムカプセルが、
落慶記念に埋められています。
このタイムカプセルは2434年に再発掘・開封予定。

成田山公園

境内の東側一帯に広がる、
池を中心とした大公園で、
広さは165,000㎡。

その後、参道でうなぎを。

有名な川豊は、順番待ちのため、


ふきぬきへ。


この店は赤坂見附にも店があり、
ひつまぶしを食べたとがあります。

調理しているところが見えます。

来ました!

その後、最近、成田に移転した友人を訪ねました。
市街地を抜けると、すぐ山道になり、驚きました。


住所を打ち込んだだけで、導いてくれる
カーナビの威力はものすごく、
昔なら、地図を見て、迷いながら行ったことでしょう。

初めての成田山詣で。
意義深い遠出でした。

        


虎ノ門ヒルズ

2024年10月24日 23時00分00秒 | 名所めぐり

金刀比羅宮の後、ここへ。

虎ノ門ヒルズ

2013年に開業した森タワーを中心に
ビジネスタワー、
レジデンシャルタワー、
ステーションタワーの4棟から構成され、
2023年に全面開業。
管理運営は、ご存知、森ビル。

ステーションタワーから
森タワーへ向かう
桜田通り↓上を横断する


大規模歩行者デッキ「Tデッキ」が整備されている。

オーバル広場

虎ノ門ヒルズ森タワー


虎ノ門ヒルズ」の中核を担う。


地上52階・地下5階建てで、
高さは247m、東京都内の超高層ビルでは3番目に高い。

1- 4階は商業施設。
6- 35階はオフィスが入る。
37 -46階にはマンション。総戸数は172戸。
47階 -52階はホテル「アンダーズ東京」が入る。

マスコット「トラのもん」


100年後の22世紀のトーキョーからタイムマシンでやってきた
ネコ型ビジネスロボットという設定で、
姿はドラえもんそっくりだが
白黒のトラ縞(ビルディングをイメージ)、
また猫耳がある。

オフィスロビー

オフィスには、ここで入館証をかざす。


どんな会社が入っているのでしょうか。
どこかのビルから移ってきたのですが、
元のビルの空室は埋まったのでしょうか。

虎ノ門ヒルズビジネスタワー


地上36階、地下3階、
高さ185m 。
2020年6月に開業。


東京メトロ銀座線「虎ノ門駅」と直結し、
1階にはバスターミナルが設置されている。

地下1階から地上3階には58店舗の商業施設が入る。
5- 36階はオフィス。

3階にある飲食店街、「虎ノ門横丁」

人気店26店舗が集まる。
行った時はまだ開店前だったので、

拝借した写真を。

虎ノ門ヒルズレジデンシャルタワー

地上54階、地下4階
高さ  221m 。
森ビルのタワーマンション。
住宅約550戸と低層部に商業施設が入る。
2022年1月に開業。

虎ノ門ヒルズステーションタワー


地上49階、地下4階
高さ266m 。


東京メトロ日比谷線「虎ノ門ヒルズ駅」と一体的に開発され、
商業施設、ホテル、フォーラムなどで構成される。

すごいですねえ。
駅まで作ってしまうとは。

増々発展する東京でした。

 


虎ノ門金刀比羅宮

2024年10月16日 23時00分00秒 | 名所めぐり

つい先日のこと。ここへ。

地下鉄出口にあった虎のオブジェ。

虎の門の交差点の向こうに見える緑の木々の場所が

虎ノ門金刀比羅宮(ことひらぐう)。

東京都港区虎ノ門一丁目という、
都心のど真ん中にある神社。

社殿の上にあるのは、


複合施設の高層オフィスビルの虎ノ門琴平タワー


神社をそのまま残して、一等地を活用しているのです。

本殿の右側にある末社の稲荷神社

その隣に「結(むすび)神社」があり、


縁結びの神様としても知られ、
良縁祈願に訪れる人が後を断ちません。

反対側の鳥居。

                                                             10月10日は、年に一度の大祭の日。


1660年の創建当時から行われているという同祭は、
五穀豊穣と商売繁盛、人々の安泰を願うもの。
もともとは四国の丸亀藩主の屋敷であったため
一般の立ち入りは禁じられていましたが、
江戸市民の要望で毎月10日に公開されるようになり、
以降毎月の10日に行われるようになったのが例祭の始まりだといいます。
毎年1月10日には「初こんぴら祭」、
10月10日には「大祭」が行われます。

神楽殿では舞を披露。


この踊りかどうか
神社の人に訊いても分かりませんでしたが、
浦安の舞」というのを舞うそうです。


浦安の舞(うらやすのまい)は、
神楽(巫女神楽)の一つ。
「うら」は心を指す古語であり、
「うらやす」で心中の平穏を表す語。
また、『日本書紀』に「昔伊弉諾尊目此国曰。日本者浦安国。」とあり、
他の文献にも日本国の別称として「浦安国」とあることから、
神祇の安寧慰撫と国の平穏無事が、
「浦安」の語に込められています。

これは、大祭の名物「おかめ・ひょっとこ行列」


里神楽相模流「萩原正義社中」の
「よつば会」「やよい会」の有志約30人が
「にんば」と呼ばれる曲で踊りながら境内を練り歩きます。

この風変りな服装の方は、見物人です。

おかめとひょっとこの群舞。

おかめの方が懐から「うまい棒」を出して下さいました。

反対側の鳥居で反転し、

一緒に参拝。

最後は記念撮影でした。

 


自然教育園

2024年10月12日 23時00分00秒 | 名所めぐり

先日、久しぶりに目黒を訪れ、

東京都庭園美術館の前を通り、

徒歩9分の、ここ↓へ。

自然教育園は、国立科学博物館附属の植物園です。

入口脇にある教育管理棟では、
自然を題材にした企画展が催されています。

入った途端に、別世界

これが東京の都心だとは思えません。

まさしく、都市砂漠の中のオアシス。

時々外から聞こえる自動車の音に、
ここが都会の真っ只中であることを思い出させてくれます。
なにしろ、住所は、港区白金台

「路傍植物園」「水生植物園」「武蔵野植物園」
3つの教材園が整備されています。

「路傍植物園」は、山野の道ばたに生育する野草が茂り、
歩きながら、木や草や花に触れ、心がなごみます。

蜘蛛の巣も沢山あり、
自然が保たれていることが分かります。


都会に住む蜘蛛。
どんな生活でしょうか。

園内から縄文中期(紀元前約2500年)の
土器や貝塚が発見されていることから、
そんな昔から、人々が住んでいたようです。

室町時代に入ると、
この地方にいた豪族がこの地に館を構えて「白金長者」と呼ばれ、
今に残る土塁は当時の遺跡の一部と考えられています。

江戸時代になると、
増上寺の管理下に入りましたが、
寛文4年(1664)には、高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、
園内にある物語の松やおろちの松などの老木は、
当時の庭園の名残であろうと思われています。

明治時代には火薬庫となり、
大正時代には宮内省帝室林野局の所管。
昭和24年文部省の所管となり、
「天然記念物及び史跡」に指定されて
広く一般に公開され、
昭和37年国立科学博物館附属自然教育園として現在に至っています。

        

長い間一般の人々が足を踏み入れられない場所だったため、
まれに見る豊かな自然が残されました。

種子植物をはじめシダ植物や菌類など1473種の植物、
約2130種の昆虫、
約130種の鳥類が記録されています。

実は一般公開されているのは敷地の15%ほど。
残り85%の非公開エリアは
人間の手を入れずに森林の変遷が見守られています。

ここは、ひょうたん池

湿地で生きる動植物が観察できる水生植物物園です。

武蔵野らしい草原の風景が残る、武蔵野植物園

左に見えるのは、いもりの池

水鳥の沼

この水は、どこから来るのでしょう。

紅葉には、少し早かったようで、見頃は11月下旬~12月中旬。

敷地面積は約6万坪(約20万㎡)
入園料は一般・大学生320円、
65歳以上・高校生以下は無料。
300人の入園定員を設けています。