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空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

渋谷スカイ

2024年12月28日 23時00分00秒 | 名所めぐり

今年最後の「名所めぐり」は、
渋谷スカイ(SHIBUYA SKY)です。

この超高層ビル、渋谷スクランブルスクエアの屋上にあります。

渋谷スクランブルスクエアは、
東急東横線渋谷駅及び東急百貨店東横店東館跡地の
再開発計画で作られた建物。
2019年(令和元年)11月1日に開業。
高さは229m
低層階から中層階は大規模商業施設、
高層階はハイグレードオフィス、
最上階に「SHIBUYA SKY 」。

渋谷スカイへの入口は14階にあります。

急行レベーターで行くのが便利。

14階で、ここに並びます。

入場料は当日2500円、ネット予約で2200円

予約時間は20分刻み。

エレベーターの乗り場。


天面の鏡や床面の反射板を使って、
空間が少し歪んで見える構造になっており、
来場者の意識を日常から非日常に導く演出となっています。

このエレベーターに乗って、45階へ。


分速360m。あっという間です。

天井全面にはディスプレイと音響システムがあり、
映像と音響がエレベーターの上昇・下降に連動しています。
日常から非日常への移行を体験化しているそうです。

エスカレーターで、46階へ。

46階が屋内展望回廊「SKY GALLERY 」
その上が屋上展望空間「SKY STAGE 」

安全のため、ポケットに入るカメラ、
ネックストラップのついているカメラ、
携帯電話以外の手荷物は持ち込みが禁じられており、
ロッカーに預けなくてはなりません。

まず「SKY GALLERY 」を一周。

ここからスクランブル交差点を見た景色。

回廊のオブジェ。

飲み物とスナックを求めることができます。

ソフトクリームを食べようと思いましたが、売り切れでした。

おみやげショップ。

では、屋上へ。

このエスカレーターで
屋上展望空間「SKY STAGE 」へ。

2500平方メートルあります。

ここからの眺め。

明治神宮と代々木公園。

国立競技場。

国立体育館。

宮下パーク。

階段状のステージが。

ヘリポート。

並んでいるのは、

ここで写真を撮るため。

こんな風に。

今度は座って。

GEO COMPASS は、最も高い位置から
360度のパノラマビューを楽しめるスポット。


足元には世界地図が描かれています。

ここは、

夜になると、ドリンクを提供するらしい。

空を見上げるように寝そべることができるハンモック。

下に降ります。

昔の渋谷の写真。

夜景がきれいでしょうね。

ということで、拝借した写真を。(富士山が見えます)

 

                                       


浅草寺・その3

2024年12月12日 23時00分00秒 | 名所めぐり

それでは、浅草寺の支院を巡りましょう。

駒形堂

隅田川に架かる駒形橋↓

の西詰にある小堂。
本尊は馬頭観音立像(秘仏)。

浅草寺は、その昔、兄弟の漁師が
隅田川で漁をしていた時に、
1躰の仏像が網にかかったのが始まり。


その仏像が陸に上げられた地が駒形堂。


浅草寺本尊聖観音像の「示現の地」とされ、
かつて船で来訪する参詣者はここで下船し、
駒形堂に参詣してから観音堂へ向かったという。

一等地にある堂なので、
どこぞの不動産業者が目を付けそうですが、
そういういわれがあっては売買されるはずがありません。

現在の堂は鉄筋コンクリート造で、
平成15年(2003)に建て替えたもの。
元は隅田川に向いて建てられていたが、
現在の堂は江戸通り側を正面とし、
川には背を向けた形になっている。
本尊は毎月19日の縁日に開扉され法要が行われる。

境内に付近の魚類の殺生を禁じた
「戒殺碑(かいさつひ)」がある。


隅田川の南、諏訪町より、
北は聖天町までの漁を禁じた。
都指定文化財。

 

遍照院(へんじょういん)

浅草寺の北東、浅草6丁目にある支院のひとつ。
安土桃山時代に順慶法印によって中興されたという。


往時は安楽院と称し、
宝暦12年(1762)に遍照院と改称された。


遍照院の諸堂は大正12年(1923)の関東大震災で焼失し、
現在の本堂は昭和39年(1964)の再建。


本堂内の本尊は、阿弥陀如来坐像。

遍照院は浮世絵師・葛飾北斎終焉の地としても知られている。
かつて遍照院の境内西側に「狸長屋」という長屋が建ち、
そこに北斎は住んでいた。
北斎は生涯に93回転居したが、
狸長屋が終の住み処となった。

                          
墓地の入口にある箱には、

野良猫か地域猫の宿が。
でも、冬空では大変でしょう。

家に帰ってから、その写真を家人に見せようとしたら、
「そんなかわいそうな写真、見せないでよっ」
と叱られました。

 


待乳山聖天(まつちやましょうでん)

浅草寺の北東にある待乳山は、
標高約10mの丘で、
東京で最も低い山と言われる。
(愛宕山もそうですが、
 関東ローム層の平野で、
 どうしたら山が出来るのでしょうか。) 

ここに伽藍を構える待乳山聖天は、
正式には本龍院といい、
浅草寺の支院のひとつ。
縁起によると、推古天皇3年(595)9月20日、
一夜のうちに涌現した(!)霊山で、
その時金龍が舞い降り山を廻り守護した。

その後、
干ばつで人々が苦しみあえいでいたときに、
十一面観音の化身である
大聖歓喜天が姿を現して人びとを救済し、
聖天さまとして祀られたのが草創という。
霊験あらたかなことで古来より知られており、
身体健全、夫婦和合、商売繁昌にご利益があるとして
篤い信仰を集めている。

歓喜地蔵尊と二十八地蔵尊

奥の階段を上って本堂へ。

待乳山は広い江戸の平野にある小高い丘であることから、
古くから名所として文人墨客に愛され、
多くの絵画や歌の題材となった。

10mといっても登るのはきつく、
駐車場からは、
ケーブルカーで登山(?)出来る。

足が不自由な方や高齢者のために設置されたもの。

山の頂上の本堂。

境内各所には大根と巾着の印が見られるが、

大根は身体健全、夫婦和合、
巾着は財福の功徳を表わしたものとされる。
特に大根は
食べたら辛さに顔をしかめる、怒った顔になるので、
人間の怒りの象徴として、それを納めることから、
参拝者の怒りや欲望を鎮めて、
心身を清浄にする
聖天さまの「おはたらき」を象徴するものとして、
お供物とされている。

境内でお供え用の大根を販売。

供えられた大根は、
「おさがり」として、

印が打たれたものを、
参拝者が無料で持ち帰ることが出来る。

寺が漬物屋に卸しているわけではありません。

糸塚

ここから見える東京スカイツリー。

3回にわたる浅草寺。
知らないことが沢山ありました。
最後に、ライトアップされた夜景をどうぞ。

 


浅草寺・その2

2024年12月08日 23時00分00秒 | 名所めぐり

浅草寺の続きは、参道西側から。

五重塔

天慶5年(642) 、平公雅が塔を建立したと伝わる。
この塔は三重塔であったといわれ、
江戸時代・寛永年間の浅草寺境内図を見ると、
本堂の東側に五重塔、
西側に三重塔が建ち、境内に二つの塔が並存していた。
江戸時代は、上野寛永寺五重塔、芝増上寺五重塔、
谷中天王寺五重塔とともに「江戸四塔」として親しまれた。
明治19年(1886)、各所が傷んでいた塔を修復することになり、
塔のまわりに足場が組まれた。
このとき修復の費用を捻出するために、
一般の参拝者に有料で足場を登らせた。
足場に設けられたスロープ沿いに
最上層の屋根部分にまで登れたため、
人々は遥か遠くまでの眺望を楽しんだ。

本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが
昭和20年(1945)の
東京大空襲では焼失した。
現在の塔は、
寛永8年(1631)に焼失した
三重塔の跡伝承地付近に場所を移して
昭和48年(1973)に再建されたもので
鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、
塔の高さは約48m。
外から見ると、五重塔は地上面から建っているように見えるが、
実際は基壇状の建物(塔院)の上に建っている。
インドのストゥーパを起源とし、
最上層には、スリランカのイスルムニヤ寺院から奉戴した
仏舎利が納められている。

鳩ポッポの歌碑

東くめ作詞、瀧廉太郎作曲で
明治33年(1900年)に発表された
童謡「鳩ぽっぽ」の歌詞と楽譜を表した碑。
昭和37年(1962)に建立された。

ここから、未知の西境内に入ります。

影向堂(ようごうどう)

平成6年(1994年)の建立。
影向とは、神仏が姿かたちとなって現れること。
堂内は内陣と外陣に分かれ、
内陣の須弥壇中央には聖観世音菩薩を祀り、
その左右に千手観音、虚空蔵菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、
勢至菩薩、大日如来、不動明王、阿弥陀如来を祀る。
また、外陣には浅草名所七福神の大黒天を祀っている。

薬師堂

影向堂の南に建つ、三間四方の堂宇で
当初の薬師堂は本堂の北側にあったので、
「北薬師」と呼ばれていたが、
慶安2年(1649)、
三代将軍徳川家光が本堂の北西に再建。
これが現在の建物で、
浅草寺に残る江戸時代以前の建築では
六角堂、二天門とともに古い。
平成6年(1994)に現在地に移された。

六角堂

影向堂の左に建つ六角堂は
室町時代の建立で、
境内最古の建物。
東京都指定有形文化財。
堂内には日限地蔵(ひぎりじぞう)を本尊として祀る。

淡島堂

影向堂の更に西側に建つ。
元禄年間に紀州の淡島明神(淡嶋神社)を勧請したことから
この名がある。
平成7年(1995年)、
境内地の再整備の際に
旧影向堂を移して淡島堂としたもの。
東京大空襲で本堂が焼失した後、
昭和30年(1955年)までは浅草寺の仮本堂であった。
堂内には本尊阿弥陀如来坐像、
淡島神の本地仏とされる虚空蔵菩薩像を安置する。
毎年2月8日にこの堂で針供養が行われることで知られる。

銭塚地蔵堂

この地蔵尊の由来は次のようなもの。
享保年間(1716~36)に摂津国有馬郡(現在の兵庫県西宮市)に
山口某という武士の妻がおり、
夫とふたりの子供と暮らしていた。
貧しいながらも彼女は武士の妻としての誇りを失わず、
他人からの援助を断って清貧の生活を送っていた。
ある時、子供らが庭先に埋まっていた沢山の寛永通宝を掘り当てた。
しかし彼女は、理由のない金を自分のものにするのは恥と考え、
金を埋め戻させた。
この賢い母に育てられ、子供らは立派に成長し、家が繁栄したので、
子供らは金を埋めた場所に地蔵尊を祀ったという。
これが現在、西宮市山口町に残る銭塚地蔵尊で、
この地蔵尊の御分霊を勧請したのが浅草寺の銭塚地蔵堂。
商売繁昌のご利益を求めて祈願する人が多い。

三峯神社

写経供養塔

針供養塔

                                  石橋

国の重要美術品。
かつて境内にあった東照宮への参詣用に造られたもので、
元和4年(1618年)、東照宮が勧請された際に建造された。

恵比寿・大黒天堂

銅造宝篋(ほうきょう)印塔

阿弥陀如来坐像

銅造観音菩薩坐像

めぐみ地蔵

子育地蔵尊

商徳地蔵尊

出世地蔵尊

銭塚弁財天

一言不動尊

金龍権現

 釘供養塔

新奥山

江戸時代、今の浅草寺本堂の北西一帯は、
「奥山」と呼ばれ、江戸随一の盛り場だった。
参拝者が休息する水茶屋が並び、
芝居、見世物、独楽回し、猿芝居、居合、軽業、手妻(奇術)などの
大道芸人が人々を楽しませた。
水茶屋や楊枝屋の看板娘は、いわば当時のアイドルで、
鈴木春信や喜多川歌麿などの美人画の題材となって評判となった。
奥山の名の由来は記録にないが、
おそらくその位置が本堂の奥にあることから名付けられたと考えられる。

明治になり、寺地が浅草公園に入れられ、
浅草の盛り場が「六区」に移るにともない、
奥山の名は消えていった。
現在、本堂西側の一画が新たに「新奥山」として整備され、
さまざまな碑、像が立つ。

映画弁士塚

無声映画時代に活躍した弁士を称えるために
昭和33年(1958年)建立された。
題字は鳩山一郎の書。

喜劇人の碑

昭和57年(1982年)建立。
川田晴久を筆頭に、
物故者となった日本の喜劇人の名が刻まれている。

「喜劇に始まり、喜劇に終わる」という森繁久彌の言葉も。

「喜劇王」として活躍した曽我廼家五九郎の顕彰碑

力石(ちからいし)

江戸時代後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、
酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、
その力を競うことが流行した。
ここにある力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で
競い持ち上げられたものである。
「力石・熊遊の碑」は、明治7年(1874)、
熊治郎という男が持ち上げた百貫(約375 キロ)ほどの力石であり、
新門辰五郎らがその記念として建てた。

この他、浅草神社境内には久保田万太郎句碑、
川口松太郎句碑、河竹黙阿弥顕彰碑、
市川猿翁(二代目市川猿之助)句碑、
初代中村吉右衛門句碑などがある。

「暫」の像

浅草寺の一番北、駐車場っ時の奥にある、
「劇聖」と賞賛された明治時代の歌舞伎役者、
九代目市川団十郎(1838~1903)の
十八番「暫(しばらく)」の銅像。
主人公である鎌倉権五郎の力強さにあやかり、
毎年4月、この像の前で威勢良く赤ちゃんの泣き声を競う
「泣き相撲」が奉納される。
現在の像は、十二代目市川団十郎(1946~2013)襲名を機に復元されたもの。

伝法院(でんぼういん)

参拝者で賑わう仲見世の西側に、
閑静な庭園が広がっていることは意外に知られていない。
伝法院は浅草寺の本坊であり、
大玄関・客殿・使者の間、
大台所・大書院・住職の間などの建築と、
江戸時代初期の庭園からなる一画。
江戸時代初期の頃は「観音院」や「智楽院」と呼ばれていたが、
浅草寺中興四世の宣存僧正の坊号をとって、
元禄3年(1690)頃より伝法院と称されるようになった。

庭園の大部分を占める大池泉は、
北東部と南西部の池に大きく分かれ、
2 つの池は細い流れでつながれている。
池の周囲に小径がめぐらされた「廻遊式庭園」であり、
歩むごとに景観の変化を楽しめる。
寛永年間(1624~44)に、作庭家として著名な
小堀遠州により築庭されたと伝わる。


庭園の諸所に石塔や石灯籠などが置かれ、景観に趣を添える。
客殿には阿弥陀三尊像が奉安され、
その左右には徳川歴代将軍、浅草寺歴代住職の位牌が安置されている。

平成23年(2011)に伝法院の庭園が国の名勝に、
平成27年(2015)には「客殿、玄関、大書院、小書院、新書院、台所」の6棟が
国の重要文化財に指定された。
一般公開はしていないが、不定期で特別公開されることがある。 

          
鎮護堂(ちんごどう)

伝法院は非公開だが、
敷地の南西にある鎮護堂は公開されており、
ここから柵越しに伝法院の回遊式庭園が瞥見できる。
ここに祀られる「鎮護大使者」とはタヌキである。
江戸市中に「狸阪」「狸穴」などという地名があるように、
かつて江戸には狸が多く棲んでいた。
上野の山や、浅草の奥山にも狸が棲んでいたが、
官軍と彰義隊が戦った上野戦争や奥山の開拓などで逃げ出して、
明治の初めには浅草寺の伝法院あたりに棲みつくようになった。
一説には狸らは、草履を釜に投げ入れたり、
座敷に砂をまいたりなどのいたずらをしたという。
浅草寺も狸らの乱行に困っていたが、
時の住職、唯我韶舜大僧正の夢枕に狸が現れ、
「われわれのために祠を建てて保護してくれれば、
伝法院を火災から守り、永く繁栄させましょう」
というお告げがあった。
そこで、明治16年(1883)に
鎮護大使者として祀ったのがこの鎮護堂。
その霊験あってか、伝法院、鎮護堂ともに
関東大震災や東京大空襲での焼失を免れている。
火除け祈願のほか、
この祠に祈ったところ失せものが見つかったという霊験から、
盗難除けの祈願をするご信徒も多い。
また、狸を「他を抜く」という語呂としてとらえて、
落語家や歌舞伎役者など、
芸能関係者の信仰が篤いことで知られている。
境内にはいくつかの狸の焼き物がある。

続きは支院を巡ります。

 


浅草寺・その1

2024年12月04日 23時00分00秒 | 名所めぐり

つい先日、ここ↓へ。

というのは、「名所めぐり」をしていて、
ふと気づいた。
お寺の頂点・浅草寺も、
神社の頂点・明治神宮も、
何度も行っているのに、ちゃんと見ていない
毎年正月2日には訪れるなど、
浅草寺には、十回を下らないほど行っていますが、
いつも雷門から入って仲見世を通り、
宝蔵門をくぐり、本堂を見て、
西に向かい、はなやしき方面から六区に抜ける、
というのが定番コース。
境内内にある様々なお堂は何があるかも知らない。
それでは申し訳ないので、
改めて、細部を見てみようと思った次第。

↓のマップにあるように、

境内は広く、沢山の見どころがあります。

改めて浅草寺を紹介すると、
都内最古の寺で、
正式には金龍山浅草寺(きんりゅうざん せんそうじ)と号します。
聖観世音菩薩を本尊とすることから、
浅草観音とも言われます。
元は天台宗に属していましたが、
昭和25年(1950)に独立して
聖観音宗の本山となりました。

「浅草寺縁起」等の伝承によると、
浅草寺の創建の由来は以下の通り。

飛鳥時代の推古天皇36年(628) 、
宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた
檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網に
一つの仏像がかかる。


これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)


この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも)は出家し、
自宅を寺に改めて供養。
これが浅草寺の始まり。
その後大化元年(645年)、
勝海という僧が寺を整備し
観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。
観音像は高さ1寸8分(約5.5cm)の金色の像と伝わるが、
公開されることのない秘仏のためその実体は明らかでない。

一説に、本尊の聖観音像は、
飯能市岩淵にある成木川沿いにある岩井堂に安置されていた観音像が
大水で流されたものとする伝承がある。
浅草寺創建より100年程前、
岩井堂観音に安置されていた観音像が
大雨によって堂ごと成木川に流され、
行方不明になったという。
成木川は入間川、荒川を経て隅田川に流れており、
下流にて尊像発見の報を聞いた郷の人々が
返還を求めたが叶わなかったという。                       
天慶5年(642) 、
安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に
七堂伽藍を整備し、
雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。

それでは、浅草のシンボル・雷門から入りましょう。

表参道入口の門。
切妻造の八脚門で
向かって右の間に風神像
左の間に雷神像を安置することから
正式には「風雷神門」というが
「雷門」の通称で通っている。


その創建年代は詳らかではないが、
平公雅が天慶5年(642) に堂塔伽藍を一新した際、
総門を駒形に建立したと伝わる。
慶応元年(1865)に焼失後は
仮設の門が時折建てられていたが、
昭和35年(1960)に、常設の門が鉄筋コンクリート造で再建された。
実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために
寄進したもの。

門内には松下電器産業(現パナソニック)寄贈の大提灯がある。
大提灯には表面に「雷門」、


裏手に「風雷神門」と書かれている。


宝蔵門にかかる大提灯とともに、
三社祭の時(神輿通過のため)と
台風接近など自然災害に備える必要がある場合には
提灯が畳まれる。

仲見世通り

雷門から宝蔵門に至る長さ約250mの表参道の両側には
土産物、菓子などを売る商店が立ち並んでいる。
商店は東側に54店、西側に35店を数える。
日本で最も古い商店街のひとつ。
寺院建築風の外観を持つ店舗は、
関東大震災による被災後、
大正14年(1925)に
鉄筋コンクリート造で再建されたもの。

私が行った日、インバウンドの人々が一杯で、
さながら外国のよう。
やはり東京観光の目玉として、
日本情緒が味わえる場所として人気があるようだ。
貸衣装の着物姿の外国人の姿も多い。

宝蔵門

入母屋造の二重門。
江戸時代には一年に数度二階部分に昇ることが可能であった。
昭和20年(1945)、仁王門は東京大空襲により
観音堂・五重塔・経蔵などとともに焼失。
現在の門は昭和39年(1964)に再建された
鉄筋コンクリート造で、
実業家・大谷米太郎(ホテルニューオータニ創業者)夫妻
の寄進によって建てられたもの。
門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することから
かつては「仁王門」と呼ばれていたが、
昭和の再建後は宝蔵門と称している。
その名の通り、
門の上層は文化財「元版一切経」の収蔵庫となっている。

門の背面左右には、
魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられている。
これは、金剛力士像のうち、向かって右の像の作者・村岡久作が
山形県村山市出身である縁から、
同市の奉賛会により製作奉納されているもので、
わら2500kgを使用している。
わらじは10年おきに新品が奉納されている。

宝蔵門には「小舟町」と書かれた大提灯が架かっている。
1659年に日本橋小舟町の信徒から寄進されたのが最初で、
日本橋小舟町奉賛会によって奉納が続けられており
ほぼ10年ごとに新調されている。

お水舎

煙を浴びると、健康になるという。

本堂

本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。
旧堂は慶安2年(1649)の再建で
近世の大型寺院本堂の代表作として国宝に指定されていたが、
昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失した。
現在の堂は昭和33年(1958)に再建されたもので
鉄筋コンクリート造。(木製じゃないんだ!)

本堂へ上がる階段の上部にせり出した向拝には、
直径4.5mの大提灯が掛かる。


堂内は内陣(ないじん)と外陣(げじん)に分けられており、


外陣に入ると、正面上に雄渾な筆致で
「施無畏(せむい)」と書かれた扁額が掛かっている。


靴を脱いで畳敷の内陣に上がると、
その中央にはご本尊を奉安する御宮殿(ごくうでん)があり、
その内部にお厨子が安置されている。


御宮殿は堂内のお堂というべきで、最も神聖な空間を結界している。

東側。

 

西側から。

本堂の東側に、いろいろなものがあります。

平和地蔵尊

二尊仏

露座であることから、「濡れ仏」の名で知られ、
向かって右が観音菩薩、左が勢至菩薩像。
台座を含めた高さは約4.5m。

久米平内堂

ここに祀られる久米平内(くめのへいない)は、
講談等に登場する人物で、
剣の道に優れ、多くの人の命を奪ったので
(首切り役人だったともいう)、
その罪滅ぼしのために、
自らの像を仁王門の近くに埋めて多くの人に踏みつけさせたという。
「踏みつけ」が「文付け」(恋文)に通じることから、
縁結びの神とみなされるに至った。

弁天山

弁財天を祀る弁天堂が建つことから弁天山と呼ばれる。
石段上に朱塗りの弁天堂、
その右手に鐘楼が建つ。

この鐘楼に架かる梵鐘は
江戸時代の人々に時を知らせた「時の鐘」の一つ。
戦時中、多くの寺の鐘が供出を余儀なくされた中で、
弁天山の「時の鐘」は特に由緒がある鐘ということで残された。
現在も毎朝6時に役僧によって撞かれており、
大晦日には新年を告げる「除夜の鐘」が鳴らされる。

弁天堂への石段の左側には芭蕉の
「観音の甍(いらか)見やりつ花の雲」の句碑がある。

旧五重塔跡

現在、五重塔は境内の西側に建立されているが、
かつてはその反対側に位置していた。
五重塔が元の三重塔の跡伝承地付近に場所を移して、
再建される前に五重塔があった跡地。

戦災公孫樹

樹齢八百余年ともいわれ、
源頼朝公(1147~99)が浅草寺参拝の折、
挿した箸から発芽したと伝えられる。
東京大空襲をくぐり抜けた神木として、
今も多くの人々に慕われている。

二天門

本堂の東側に東向きに建つ、切妻造の八脚門。
元和4年(1618)の建築で、
第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物。
浅草寺境内にあった東照宮(徳川家康を祀る神社)への門として
建てられたもの。
(東照宮は寛永19年(1642)に焼失後、再建されていない)。
現在、門の左右に安置する二天(持国天、増長天)は
上野の寛永寺墓地にある厳有院(徳川家綱)霊廟から移されたもの。
門に向かって右が持国天、左が増長天。


二天門は境内に残る江戸時代初期の古建築として貴重であり、
国の重要文化財に指定されている。
平成22年(2010)に改修を終え、創建当初の鮮やかな姿によみがえった。

二天門から入った景色。

着物の親子三代。

浅草神社

本堂の東側にある。
拝殿、幣殿、本殿は重要文化財。


浅草寺の創建に関わった3人を
祭神として祀る神社。
明治の神仏分離以降は浅草寺とは別法人になっている。

「こちら葛飾区亀有公園前派出所」記念碑

浅草神社鳥居脇にある。
平成17年(2005年)に
秋本治の漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の
単行本の発行部数が1億3千万部を突破したことを記念するため建立された。
同作品の主人公である「両さん」こと警察官両津勘吉は
浅草育ちという設定になっており、
両津の少年時代のエピソードを題材にした「浅草物語」の巻に
浅草神社が登場した縁により建立されたもの。

今日は、ここまで。
次回は本堂の西方面の数々を。

 


NHK放送博物館

2024年11月21日 23時00分00秒 | 名所めぐり

前回の名所めぐり、愛宕神社のすぐ前にあるのが


NHK放送博物館

その名のとおり、
日本放送協会 (NHK)が運営する
放送に関する博物館。
1956年に開館し、
1968年、4楷建てビルとしてリニューアル。

なぜここにあるかというと、
ここ愛宕山がNHK発祥の地だからです。


前回の名所めぐりで紹介したとおり、
愛宕山は、東京で自然に存在する山で一番高いところ。
そこにラジオのアンテナを立てて放送したわけです。

入場無料。

入口で確認すると、
撮影は自由だが、
映像素材は撮影禁止という話でした。

放送に必要だった、
マイクやカメラ、受像機などが展示されています。

ラジオで始まった放送も、
テレビになり、
白黒からカラーへ、
ステレオ放送、ハイビジョン、デジタル化、衛星放送と
進化の過程が見られます。

昭和60年代の人が今のハイビジョンを見たら、驚くでしょう。

ラジオの本放送の開始は1925年7月12日、
テレビの本放送は1953年2月1日。

中2階は8Kシアターと体験スタジオ

海中との合成

ご覧のとおり。(顔の部分は加工。お面ではありません。)

バックは青。
最近緑のスクリーンの前で撮影することが多いようですが、
と訊くと、
ブルースクリーンの場合、
外人の目が青いので、抜けてしまうから、
グリーンを使うことが増えたそうです。
理論的には赤でも可能。
でも、そうすると、女性の唇がみんな抜けてしまいます。

ここはニューススタジオの体験コーナー

ご覧のとおり。

これも顔の部分は加工。

マジックミラーを使って、鏡に原稿を反射。
意外とアナログですが、
アテウンサーが書き込みをするので、
この方法がいいのだそうです。
アメリカで見たのは、カメラの前面ガラスに文字が出ました。

2階はテーマゾーン。

紅白歌合戦の優勝旗。

ドラマのセットの模型。

風の音を作る装置。

こちらは波の音。

3階は歴史。

初めてのテレビ映像実験。イロハの「イ」。

玉音放送

この録音盤の奪い合いがありました。

録音機の様々。

昔、秋葉原で番組の流出テープが売られていました。

こんなテレビも。

こういうテレビが茶の間に鎮座。

テレビ普及に貢献した街頭テレビ

ズームが出来る前は、レンズを切り換え。

当時の茶の間。

ビデオテープが登場。

その前に、相撲中継では「分解写真」というのがありました。

ビデオテープの編集機。

職人わざだったそうです。

今のハイビジョンカメラ。

4階はライブラリー

過去の映像素材が見られます。

ここで番組選択。

音楽番組を観ました。

昭和歌謡はやはりいい。
なぜなら、プロの作詞家、プロの作曲家によるものだからです。
その後、若者たちの自分の曲で、
過剰な言葉、メロディー不在の
石原慎太郎によれば、
「へたくそな日記みたいな歌」がはびこりました。

帰りは、この階段を下りて、

トンネルの脇に。

ちょっとした楽しいひと時でした。