月のmailbox

詩或いは雑記等/小林貞秋発信。

「みじめ依存症」のことなど

2009-11-25 23:08:02 | Weblog
三つ前の記事に書いたベルリンに住む、メル友のこと。
メイルが途絶えたことで、何かあったことを感じたのだけれども、軽い肺炎で入院していたとのこと。昨日のメイルで知る。
病院ではPCも携帯も禁止であったとのこと。そんなことだったのだろうな。メイルを読んで感じたことでありました。
それにしても、入院。というようなことで、自身の日常生活が分断されること。そうしたことを、これまで経験したことがない。変化を望まない傾向強い自身としては、そういうことはできるだけ避けたい。何年くらい前だろう?  持病のことで医者に入院をしますかと聞かれたことがあったけれども、仕事があるのでとても入院などはできませんと、返事をした。現在の健康状態、全くその方面の不安はないけれども、いつか現実にそうしたことがないとも限らない。充分にあり得ること、と考えた方が良いのだろう。
日々の中の習慣的なこと。自身に慣れたそうしたことがあっての生活。それを否応なく変えさせられてしまう事態というのは、それは誰しも苦痛なものでしょう。でも、そうしたことが場合によっては避けられないのが人生だしね。なんであれ受け入れる気持の準備は、しておかないといけないのかもしれません。

ところで、何日か前だったかな。ラジオの「テレフォン人生相談」というので、その日は加藤諦三先生がパーソナリティをやっておられた日で、相談者は五十代位の女性だったと記憶する。ともかく、話をきいていると夫に人間扱いされていない状況なんですね。なにかといえば暴力を振るう。殺されるのではないかという恐怖を覚えることのあるような日常。解決はと言えば、そういう虐待する夫とは別れて安心できる生活に入ることしかないところでしょう。とはいっても、その夫に住む場所を知られれば、なにが起こるか分からないという恐怖があるのかもしれないのだけれども。
その相談者のことそのものだなと思ったのは、丁度いま、早稲田大学のエクステンションセンターで加藤先生の講座を受講していて、その話の中にAddiction to Misery 、「みじめ依存症」という本のことなどがでてきたからなんですね。
人間には、変わることへの不安。予測不能なことへの不安や恐怖があって、どこまでも予測可能な世界に生きていたいというところがある。その不安や、恐怖の方が強いことから、実際の自分の感情を抑えるいうことになるということなんですね。なにかと理由をみつけて。例えば、子供のことだとか、虐待夫のことにしても、アルコールをやらない時にはやさしい時もあるとか。
先生の言い方によれば、「死にもの狂いで不幸にしがみついている。命がけで不幸にしがみついている人は、いっぱいいる」、ということになるんですが、考えさせられるんですね。人間にとっては、不幸と不安のいずれか、選択を迫られた時には不幸の方を選ぶ、という現実模様。いかにすることがベストか自明のような状況でも、選択はその変わることへの感情的恐怖から、現状にとどまることを選んでしまう。そのような事実。
個人的には、そうした状況とは無縁な生活を送る者であるけれども、苦痛な生活にあえぎ耐えつづける人々のあること、思ってしまいますね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする