図書館から、田村隆一(1923-1998)の中央公論社1982年6月刊、「5分前」という詩集を借りている。別の本を探しに書棚の近くに行って、そこに見えた彼の背文字の名前に殆ど気まぐれに抜き取ったというだけのようなもの。ちょっと関心あり、というあたりのところで。
中央公論のような出版社から詩集を発行できる。たいしたものです。というほどに著名な詩人ということ。借りてから、ひとつ、またひとつと読んでみた。いかにも詩人。当然そう行くだろうとこちらが感じる向きに、詩語が放たれていく。当人のあるいは時代の、詩表現スタイル。繰り返し繰り返されただろう、現在的でありながらなにか既にマンネリ化した部分も思わせてしまうような、類型性。勝手にこちら、どこかで感じていたりするのだが、でも、田村隆一。どの一行にも、田村隆一がある。と見る感覚で、触れようともしている。
「一冊の詩集」というタイトルの詩を、読んでいた時のこと。夜の時間で、ちょっと手持ちぶたさでこの詩集を手にとったのだが、ちょうどページをめくる処で、最後の行が、
おれがあいした木から流れるのは
となっていた。ところが、ちょっと明かりの足りないところで文字を追っていたのと、それほどに眼が良く見えていなかったのとで、その「木」が私には「本」に見えたのである。だから、
おれがあいした本から流れるのは
と読んだわけである。そこで、私は次の言葉に「緑」が来るだろうと思った。ページをめくる前に。「本から流れるのは」、なにか緑のイメージのものという感じがあったというところで。そうしてページを開いてみたら、
緑の血
とあった。それが最終行で。こちらは、思い当てたような感覚。そのあとでページを戻して見てみて、「本」ではなく、「木」の文字だったことに気づいたわけである。
おれがあいした木から流れるのは
緑の血
というのが、正しい二行。
読み違えた私の二行では、
おれがあいした本から流れるのは
緑の血
まあ、間違いは間違いとして、詩の言葉は、相当柔軟に選べるように、私は感じていますね。いや、どこまでも柔軟であることができるだろうな、と。
そのようなことも思いつつ。
中央公論のような出版社から詩集を発行できる。たいしたものです。というほどに著名な詩人ということ。借りてから、ひとつ、またひとつと読んでみた。いかにも詩人。当然そう行くだろうとこちらが感じる向きに、詩語が放たれていく。当人のあるいは時代の、詩表現スタイル。繰り返し繰り返されただろう、現在的でありながらなにか既にマンネリ化した部分も思わせてしまうような、類型性。勝手にこちら、どこかで感じていたりするのだが、でも、田村隆一。どの一行にも、田村隆一がある。と見る感覚で、触れようともしている。
「一冊の詩集」というタイトルの詩を、読んでいた時のこと。夜の時間で、ちょっと手持ちぶたさでこの詩集を手にとったのだが、ちょうどページをめくる処で、最後の行が、
おれがあいした木から流れるのは
となっていた。ところが、ちょっと明かりの足りないところで文字を追っていたのと、それほどに眼が良く見えていなかったのとで、その「木」が私には「本」に見えたのである。だから、
おれがあいした本から流れるのは
と読んだわけである。そこで、私は次の言葉に「緑」が来るだろうと思った。ページをめくる前に。「本から流れるのは」、なにか緑のイメージのものという感じがあったというところで。そうしてページを開いてみたら、
緑の血
とあった。それが最終行で。こちらは、思い当てたような感覚。そのあとでページを戻して見てみて、「本」ではなく、「木」の文字だったことに気づいたわけである。
おれがあいした木から流れるのは
緑の血
というのが、正しい二行。
読み違えた私の二行では、
おれがあいした本から流れるのは
緑の血
まあ、間違いは間違いとして、詩の言葉は、相当柔軟に選べるように、私は感じていますね。いや、どこまでも柔軟であることができるだろうな、と。
そのようなことも思いつつ。