確か1980年代の初めの頃、住んでいた東京大田区南馬込の古本店で買ったもの。その時既に、他とは比較にならないほどの紙が茶の色に変わっていたような一冊だったけれども、今ではその旧さも本格的なものとなって、端も切れ、綴じようも不充分になって紙が離れてしまう部分もあるような状態。それをブックカバーに収めているのだけれども、その本のタイトル、「古典の讀みかた」。昭和28年4月、岩波書店発行の非賣品。その中に1980年代の当時、マーカーで線を引いた部分があって、そこにあったそれらの言葉は、なにか示唆的な意味を持つものとして記憶の何処かに残り続けていたものだったのだけれども、ここのところまたその一冊を取り出すことがあって、読み返したりなどした。その部分というのは、清水幾太郎(1907-1988)の「古典」というタイトルで書かれたものの、いくつかの部分。
「(文途中より) こちらが特定の問題を追っていてる時である。結局は、現代社会の中に露出してゐる諸問題と関係があるのだが、さういう問題を追ってゐる時、いや問題に追ひかけられてゐる時は、精神的にガツガツしてゐるし、精神の牙ーというものがあればーが鋭くなってゐる。」
「時代や傳統の差のために、多くの古典は堅い殻に包まれてゐる。これを噛み破るには、生きた問題に心を掴まれた人間の、あのガツガツした精神の食欲、鋭くなった精神の牙、さういうものが要る。この條件はさう簡単に生れるものではないし、就中、権威の前に叩頭するやうな態度とは絶對に相容れない。」
この二度現われる、ガツガツ、そして牙の言葉。そこに込められた強く関心ある課題や、立ちはだかるものに対して、望まれる精神の姿勢。食らいついて行こうではないか、という強い意図が感じられる。社会学者、評論家としての清水幾太郎について、その著書などは全く疎遠でその名前も定かではなくなっていたようものだったのだが、同じ幾太郎の西田哲学の幾太郎さんの評価等に比べ、社会学等の方面ではどのようなことになっているのだろうか。それはともかく、これが書かれたのは昭和28年、1953年の頃のことであるから現在からは、はるかな過去の時代。こうしたはっきりとした物言い、直截的にそうした姿勢をもって向かっていくという明快な絵柄。現代では何処辺りに見えるものだろうか、その背景模様のことなど思ってみたくなる。「牙」のような言葉を持ち出して語る学者や評論家のいる時代ではないというほどに、当たる対象もまた確かめがたい面を持つようになったりもしているという側面もあるように思える。当時古典として読まれていたものを、今同じように読む者はいない。最早、常識的な知識の中にはない。忘れ去られている。
「牙」、「ガツガツ」の持つ、攻撃的、挑戦的な意気イメージ。そして、今の時代。浮かぶのは、肉体と肉体のぶつかり合う闘争的な場面。ストレートには、その辺りになってしまうけれども、ともかく、清水幾太郎のそれらの言葉が自身の中にはっきりと残ったのは、「権威の前に叩頭するような態度とは絶對に相容れない」という部分によると思う。「牙」や「ガツガツ」は、また別のこととして、権威の前にひれ伏したりはしないという姿勢、それは一般、どの方面に於けることとしても、ひじょうに納得のいくこととして入り込んできた、というもののあったということ。
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