平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
「マタイによる福音書」 / 5章 9節
新約聖書 新共同訳
天国に行ける人よりも
天国を築ける人で
なければならない
天国にいける人は
神様に頼ろうとする人であり
天国をなせる人は
神様の頼りとなって
あげようとする人である。
★原爆ドーム設計
チェコの建築家 母国に鳥居形墓石
◆東京新聞2013年8月2日 国際
(TOKYO Web)

▲原爆ドームの設計者ヤン・レツルが作った
鳥居形の墓石について説明するリシャーネクさん
=チェコ南東部ブルノで
チェコ南東部ブルノの中央墓地に、日本の神社の「鳥居」をかたどった100年ほど昔の墓石がある。キリスト教の十字架が並ぶ墓地でひときわ異彩を放つこの墓石は、後に「原爆ドーム」となる広島県物産陳列館を設計したチェコ人建築家ヤン・レツルの作品だと近年分かった。埋もれた事実を発掘した地元の美術史家は「異文化への理解こそ平和の鍵。この墓石はそれを象徴している」と話す。(チェコ・ブルノで、宮本隆彦、写真も)
鳥居形の墓石は、砂岩の石材を組んであり高さ一・三メートルほど。墓碑は一九一〇年に二十九歳で亡くなったクララというチェコ女性の墓であることを示す。裏にはチェコ語で「日本の東京から来た建築家ヤン・レツルが作る」と刻まれている。
不思議な墓石は長い間忘れられていたが、日本文化に興味を持つ美術史家ラデク・リシャーネクさん(38)が八年前、デートの待ち合わせ中に偶然発見。四年前に地元紙で報じられチェコ国内で話題となった。
ただ、クララの死亡時、レツルは日本に滞在しており、どのような経緯で墓石が作られたかは不明。リシャーネクさんは「当時のチェコでこれほど変わったデザインを採用したからには、よほどの理由があったはずだが、何の資料も出てこない」と残念がる。
三年後の一九一三年、東京で設計事務所を開いていたレツルは後に原爆ドームとなる陳列館の設計を始める。工事は翌一四年に始まり、建物は一年余り後に完成した。
レツルは自身の作品が平和と反核を願うシンボルの「原爆ドーム」となり、世界遺産にまでなろうとは夢にも思わなかっただろう。リシャーネクさんは言う。
「戦争の歴史は人間がわかり合う努力を忘れてはいけないと教えてくれる。鳥居形の墓石からは異文化に興味を持ち、偏見なく受け入れたレツルの人柄が伝わってくる」
◼ヤン・レツル(1880~1925年)
明治末期から大正時代に日本で活躍したチェコ人の建築家。プラハで建築を学び、1907年に来日。15年の帰国までに広島県物産陳列館(後の原爆ドーム)のほか、聖心女子学院や雙葉高等女学校の校舎、宮城県営松島パークホテル(いずれも現存せず)などの設計を手掛けた。

★ヒロシマ68年 6日原爆の日
◆中国新聞 2013年8月5日
広島は6日、原爆の日を迎える。米国が原子爆弾を投下してから68年。被爆者や遺族は老いを深める。被爆の記憶は風化しかねない。語り継ぐ努力を怠れば、被爆者が「絶対悪」と呼ぶ核兵器を肯定する危なっかしい考えが勢いを増す。私たちはもっと危機感を持つべきだ。
被爆者健康手帳を持つ被爆者の平均年齢はことし3月末で78・80歳。被爆者の数は20万1779人で、昨年同期に比べて9051人減った。被爆者や遺族の肉声を聴く機会は、少なくなっている。
1発の原爆によって当たり前の日常が奪われる。戦争体験のない世代には容易には想像できない。ならば、自分の身に置き換えて考えてみよう。例えば、ある日突然、一家の大黒柱を失ったとしたら。残された妻や子どもはどう生きていくのか―。
この夏、中国新聞社は連載「ピカの村 川内に生きて」に取り組んだ。広島県川内村、いまの広島市安佐南区川内地区が舞台。国の命令で国民義勇隊として、市街地の建物疎開に動員された約180人が全滅したのだ。
夫を失った妻は70人以上。畑で泥にまみれ、家族を養った。歳月は流れ、その女性たちもいま、野村マサ子さん(92)ただ一人になった。「戦争は嫌です、若い人が平和を守ってくれなきゃ」。託された使命は重い。
松井一実市長はことしの平和宣言で、世界の指導者に「核の威嚇」から「信頼と対話」に基づく安全保障への転換を求める。ヒロシマの訴えは国際社会に響いているのか。
4月、スイス・ジュネーブであった核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会。核兵器の非人道性に焦点を当て、不使用を求める共同声明に約80カ国が賛同した。
廃絶を目指す新たな潮流に被爆国日本は背を向け、声明に賛同しなかった。米国の差し出す「核の傘」に自国の安全保障を依存しながら、廃絶を訴える矛盾をあらためて露呈した。安倍晋三首相はその依存度を高め、平和主義を掲げる憲法の改正に意欲を示す。
悲しみや怒りを核兵器廃絶の願いに変えてきたヒロシマ。その土台である体験と記憶を受け継ごう。担うべき使命をかみしめるために。
【写真説明】夕陽を浴び、静かにたたずむ原爆ドーム。被爆地広島は6日、祈りの朝を迎える=4日午後6時(撮影・浜岡学)