Mr. Vengeance
筆者:IAN BURMA 掲載日:2006年4月9日 掲載紙:New York Times
訳文(その2) translated by lotusruby
パクの成功は、近年活気づく韓国映画界の成果であり、いわゆる韓流の一翼を担う。韓流は、まずアジアを席巻し、欧米にも波及している。1980年末期、韓国の軍事政権の終焉は、厳しい検閲の廃止を意味し、また韓国の映画産業もかつては厳しく統制されていたが、より多くの観客を魅了し始めた。(韓国文化相はつい最近まで2002年ベネツィア国際映画祭の受賞作『オアシス』の監督イ・チャンドンであった。) 近年の韓国映画の多くが、暴力を扱っているのは明らかである。カン・ジュギのヒット作『シュリ』、キム・ギドクのハードボイルドノアール作品、キム・ジウンのホラーヒット作『箪笥』。しかしそれだけではない。セックスを扱う作品もあり、中には『死んでもいい』のように、70代の老人のセックスシーンを取り上げ、かなり特異なものもある。この映画は、当初、国内の映像物等級委員会(日本の映倫にあたる)から、上映禁止措置を受けた。また、過去を時代背景とした繊細なヒューマンドラマもある。コミック作品もあるし、さらには、『冬のソナタ』のような涙を誘うTV作品もある。この作品は、日本や韓国で数百万人の視聴者を毎週涙の渦に巻き込んだ。
韓国には、多くの映画制作者が羨むような政府による支援制度がある。1966年以降、韓国の劇場は、国産映画を年間一定の日数上映しなければならない義務がある。1984年以降、その日数は146日と定められている。(この上映日数は先月米韓貿易協定交渉で半分になることになったが、国内の映画業界から広く反発の声が上がっている。)韓国映画最大の配給会社CJエンターテインメントは、国内の複合型映画施設の3分の1を所有しており、また親会社は、パクの制作会社モホフィルムのようなプロダクションに資金援助を行っている。しかし、資金援助や配給の容易さが、必ずしも国産映画の成功を保証するものではないが、国産映画は、しばしばハリウッド超大作をしのぐことがあり、それが自信過剰な愛国心の表れであり、韓国の新しい傾向なのであろう。「私たちは自信を持っている。おそらく、少しばかり過剰な自信を」とパクは語る。
韓国映画における表現には、何の制約がないように見える。映画にはタブーがあるのかとパクにたずねてみた。パクはしばらく考えてから、首をふり、「1つある」と応えた。それは、「外部審査(レーティング)」と呼ばれるもの。セックスや暴力が過激すぎると、制限付き範囲でしか映画が上映されない。作品が政治的な内容で非難されることはないのかとたずねてみた。
すると、パクはこう答えた。「『JSA』の公開時、観客はかなりショックを受けた。なぜなら、北朝鮮の兵士が、化け物ではなく、人間として描かれていたから。しかし、それが却って映画を興行的に成功させた」。しかし、もちろん「北朝鮮の政治を賞賛することはできない。それは大変な論議を呼ぶことになるだろう。」それだけなのか?パクはそれだけだと答えた。検閲もすでにない。その答えに驚いたし、私にはまだ韓国が軍事政権だった頃の記憶が残っていることもあり、もう一度彼にたずねてみた。彼は、再び目を閉じて考え、そして次のように語った。「韓国では決して口に出せないことがひとつある。それは、日本による占領が韓国にとって有益であったということ。これは、北朝鮮を賞賛する映画よりさらに敵意を招くだろう。ユダヤ人にホロコーストがなかったと言うようなものだ。」
道徳の曖昧さを問う男が語る驚くべき発言である。日本の占領は1910年から第二次世界大戦の終結まで続き、ときに残虐的であったが、ホロコーストではない。国内の多くのエリートたちは、戦後の独裁政権でもそうであったように、敵と協力した。なぜなら、占領は利益をもたらしたからである。鉄道、学校、産業、効率の良い管理システム。パクは、敵への協力の矛盾には興味深いものがあることを認めており、そうした問題を扱った小説や本はあるものの、映画では触れることができないと語っている。これは、奇妙な話である。韓国映画では、子供を折檻するほどのおぞましい暴力を描写することができるのに、愛国者の歴史には触れることができないのである。
子供、とりわけ少女は、パクの構想の中では大きな役割を果たす。少女たちは、時に溺れ死んだり、折檻を受けたり暴力をふるわれて死んでしまう。『美しい夜、残酷な朝』に収められている短編映画『Cut』は、順調な人生を歩んでいる映画監督の話で、ある晩、彼が帰宅すると、以前彼の映画に出演したエキストラの1人が妻をグランドピアノに縛りつけている。そのエキストラは、脅えながらソファに座っている誘拐してきた子供を殺さなければ、ピアニストである妻の指を一本ずつ切り落とすと監督を脅す。
もしかすると、家庭を大切にする物静かなパクと、残虐性を表現するパクの間には、何の矛盾もないのかもしれない。彼の作品は、子煩悩な父親の悪夢として解釈できるのである。これは、復讐3部作の第1作目、そしておそらく最も暗鬱な作品『復讐者に憐れみを』(2002年)の中で、はっきり表れている。とある聴覚障害者が、自分を解雇した元上司の子供を誘拐する。しかし、解雇したことが理由で誘拐するのではない。耳の不自由な男は、腎臓移植をしなければ生きられない姉のためにお金が必要なのだ。左翼系テロ組織の一員である彼の恋人は、誘拐が、その父子にとって良いことなのだと言う。お金をもらった後(子供を返して)、親子が再会すれば嬉しいはずだと。しかし、男の姉が、2人の企みを知り自殺してしまう。さらに、子供を返す前に、子供が誤って川で溺れ死んでしまう。激怒した父親は、誘拐犯のアキレス腱を削いで死なせる。こうしたシーンは、水中で撮影されており、水が真っ赤に染まり、殺人をより不気味に見せている。
パクにとって、『復讐者に憐れみを』は、珍しく興行的に失敗した。その理由を尋ねると、彼はこう説明した。「この作品の前半、観客は耳の不自由な誘拐犯に感情移入してしまう。そして、後半は一転する。観客は、父親に自分を重ね合わす。私は、この作品の構成は面白いと思っている。なぜなら、観客が犯人にも被害者にも自分を重ね合わせるからである。そして、観客は、必ずしも自分を重ね合わせたがらない。」
to be continued....
韓流の行方
韓国映画界は確かに熱い 評価と興行のバランスをうまく取れる作品が多いと言うが、駄作もかなりあるのだとか。そういう作品は日本語字幕付きDVDにならないから、私たちの目に触れないだけなのかな。
それでも韓流は、どんどん多様化し、この先、どこへたどりつくのだろうか?
興味深いところだ。
韓国映画のタブー
この部分についてはメディアで真っ先に取り上げらていたけど、パク・チャヌクはこの質問にはかなり慎重に応えていたのね。韓国の民主化は1980年代後半、つい最近のことなのである。筆者が、まだ文化・芸術の分野に政治的な圧力があるのではないかと勘ぐるのも無理はない。パク・チャヌクがこの問いに慎重に応えたのは、文化・芸術がある意味政治的に屈している部分があることを認めざるを得ない、痛いところを突かれたからかな、とふと感じた。
親子関係
パク・チャヌクの復讐3部作の共通点のひとつは、この親子関係だろう。残虐なシーンで流される夥しい血が表面的には印象に残ってしまうのだが、一方で親子で結ばれている血が作品の根底を支えているような気がする。
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四方田犬彦さんの著書を2冊ほど買い込みましたが、まだ読んでない。
読んだら感想 up しますね。
そうね、私も韓国映画には、常に民族意識的なものを感じるわ。その象徴が、血だったりするのかしら。
でも、映画には匂いがあるっていうのは、わかるわ。日本映画は侘びさび的な匂いがしたりするし・・・
(↑どんな匂いじゃ)
ああー、この記事、ようやく半分ぐらいにたどりついたって感じ。
長すぎるよぉ・・・
続きはのんびり up しますので、またお付き合いくださいね。
うむうむ。
なるほどね。。。
この記事を読みながら昨年の末ぐらいかなぁ。私が雑感日記に書いた『四方田犬彦』先生のお話を思い出しました。
本当に韓日関係の話は奥が深くてね。
パクちゃん、慎重だったんだ。わかる気がしますね。
そう、チャヌク監督の映画は特にそうだけど往々にして韓国映画からは血の匂いがする。・・・ドピュッとかじゃなくて・・・う~ん。濃いって言おうか流れてるって言おうか。
難しいけど。何せ嗅覚な女なので。
民族性っていうのかな。ちょっと日本人が薄くなりかけたものがそこにある気がするんですよね。