Addicted To Who Or What?

引っ越しました~
by lotusruby

Mr. Vengeance に興味あり(終)

2006-04-25 23:57:50 | K-Movie Notes


 Mr. Vengeance
筆者:IAN BURMA 掲載日:2006年4月9日 掲載紙:New York Times
(*なお、ここに挙げる翻訳文はあくまでも、個人で楽しむ目的なので、リンク・転載・引用はご遠慮願いたい)

訳文(最終回) translated by lotusruby

筆者が再度パクに会ったのは、冬の午後、江南のヨーロッパ様式のレストランでのこと。江南地区は、ソウルの新興地域で彼の作品の雰囲気にぴったりである。インターネットカフェやワインバー、デザインオフィス、高級ブランドブティックが立ち並ぶモダンな界隈である。パクは、普段どおりカジュアルな黒の装いだったが、以前に会った時よりも陽気である。彼のホームグラウンドだからなのか。彼の横には、愛想の良いベビーフェースの持ち主、『オールドボーイ』で主演をつとめたチェ・ミンシクが座っていた。チェは、国内きってのビッグスターであり、舞台俳優として名声を得た後、数々の映画に出演し、19世紀の画家、北朝鮮のスパイ、トランペットを愛する音楽教師、ヤクザなどあらゆる役をこなし有名になった。パクの作品では、『オールドボーイ』で復讐に燃える男、『親切なクムジャさん』で殺人者と、2度出演している。

スターであるがゆえに、精神的に厳しい撮影シーンにも耐えてきた。活タコを飲み込むだけでなく、凍りついた川の中に立ち、血のプールで泳ぎ、また、長いワンカットのシーンで、何人もの人に殴られ切りつけられる。この長いワンカットシーンは、『オールドボーイ』の一場面だが、チェが最も苦労したシーンだったそうだ。パクは笑いながら、「私が『カット』と言うたびに、彼は哀れな子犬のような目で私を見上げたが、私はもう一度と言わなければならなかった」と語る。どんな映画監督も心にサディスティックな部分が潜んでいると思うか、とチェにたずねてみた。チェは、「彼の場合はまちがいなくそうだ」と答えた。パクはまた笑いながら、「男優に接する場合だけです」と言った。 この2人には、特別な信頼関係があるように見えた。

チェは、『オールドボーイ』の脚本制作でパクに協力した。「脚本制作の過程で、私たちは何度も話し合った。」「この過程は、有名な俳優が自分の思い通りに演技するためではない。脚本を共同で制作するには、互いに絶大なる尊敬と信頼が必要である。」 パクが後に語ったことだが、彼は、いつも他の人々からアイデアをもらいながら脚本を執筆している。彼はコンピュータを2台所有し、1台は自分用、もう1台は制作に参加する彼の協力者たちが使用する。協力者は、演技者だったり、スタッフであることも。アイデアをあれこれ投入し、セリフを増やしたり減らしたり、ト書きを修正したり、最終的にはパクの夫人が目を通す。この過程は驚くほど早い。『親切なクムジャさん』の脚本は、20時間ぶっ通しで書き上げた。

具体的に、『オールドボーイ』で、チェはどんなアイデアを出したのだろう。チェは以前舞台でハムレットを演じたことがある。アジアでは、「ハムレット」を復讐劇として解釈することが多い。韓国の演劇は、復讐劇が多いためだろうか。チェが演じた「ハムレット」も同様の解釈であったそうだが、チェもパクも、それは韓国の伝統とは無関係だと言い切った。パクいわく、日本の作品にも復讐劇は多いが、韓国文化は「復讐というより許しであり、いとも簡単に許す」文化なのであると。

この発言はかなり大胆であるが、パクは、通常、文化や伝統について一般論を述べることには慎重である。ニューヨークで、「恨」という言葉について触れたことがある。韓国人が自国の国民性を語るときによく使う言葉である。恨は、国民性を説明する決まり文句であるが、それを解釈(翻訳)するのは容易くない。恨は、「過去の過ちに対してくすぶる憤り」のようなもの。筆者は、これが、パクの復讐への執着を知る手がかりとなると考えた。しかし、パクは、それを一蹴した。「私たちは、そういった類の言葉はもう使おうと思わない。」 彼は、女性が子供を産めないがゆえに一生恨みを抱いて過ごした時代、そんな因習的な社会を思い起こすのだそうだ。

さらに、パクの作品には韓国や日本文化特有の要素がある。ひとつは、幽霊が出現すること。パクの復讐3部作では、殺人犯が、殺された子供の幽霊にさいなまれる。たとえば、『親切なクムジャさん』では、溺死した娘が、死後何日もずぶ濡れの姿で父親のアパートに現われる。(水は、偶然ではなく、東アジアにおいては不吉な暗示がある。悪霊は沼や湖から出現することが多い。) 韓国の幽霊は、悪意のない霊なのか、それとも復讐に燃えて執念深い霊なのかと、チェにたずねてみた。チェは、「どちらの霊
もある」と答えた。そして、韓国の神話に登場するキャラクターに触れた。それは、女性に化ける100歳のキツネ。そのキツネは、人間を妬み、危害を及ぼす。しかし、人間と和解しようとする。「西洋の幽霊は悪魔だが、韓国の幽霊は和解の姿である。これが韓国的な精神である。」

パクは、「そう、私はそのことに実にうんざりしている。だからこそ、反発として、復讐を自分の作品のテーマにしている。」と真顔で語った。チェは笑いながら、イタズラっ子を扱うようにパクの脇を突付いた。しかし、キツネの話は興味深い。筆者は、パクの作品の登場人物を思い出してみた。『親切なクムジャさん』では、娘を誘拐した男を殺す良き父親、犯人に対しておぞましいほどの復讐を強要する天使のような女、復讐の行動に苦悩する「オールドボーイ」。キツネ女同様、だれもが曖昧な道徳観にさいなまれている。

パクの描く殺人や復讐の世界にないものは、性欲である。確かに、彼の作品にセックスシーンはある。『オールドボーイ』では近親相姦、『復讐者に憐れみを』では隣室から聞こえる女のうめき声で自慰行為にふける男、『親切なクムジャさん』では囚人のレズビアン行為。しかし、こうした場面はどれも、快楽的ではなく、また官能的でもない。パクの作品において、愛情は、父と娘の間、または兄弟姉妹間に存在するのである。『JSA』は例外である。

この作品において、男同士の間に愛情が存在するのは疑いようもない。この作品では、2人の韓国国境警備兵が、気楽に38度線を越えて北朝鮮兵に会いに行くようになる。彼らは酒を飲み、歌を歌い、プレゼント交換し、子供のようにはしゃぐ。ところがある日、北朝鮮の将校にその現場を目撃され、その際、発砲によって2人の北朝鮮兵士が殺されてしまう。韓国兵のうち1人はなんとか韓国側に無事に戻るが、もう1人は負傷してしまう。兵士の1人は、両国の仲間を巻き込むより、自殺を選ぶ。

『JSA』は、今日数多くの韓国の若者の心をとらえている左派寄りの愛国心を現代風に表現するメロドラマである。北朝鮮の人間は親切で穏やかな人物であり、また、残忍な行動は韓国側で見られることが多く、朝鮮半島の分裂は外国人の仕業だと。この作品で注目すべき点は、熱き男の絆ではなく、感傷的な言動である。国民感情の話になると、パクでさえも、ハードボイルドな空気を失っているのである。 もちろん、暴力は、激情のひとつの形であるが、唯一の人間の対話(コミュニケーション)の形であるかもしれない。パクの作品では、身体的な接触のない世界、伝統的な癒しや抑圧的な家族関係あるいは集団社会生活が消えた社会が描かれている。そこでは、個人が私的空間に閉じ込められながら、インターネットや機器を使ってコミュニケーションをする。韓国は、世界でも最も変わった社会のひとつである。以前、パクのオフィスで、暴力は、新興の仮想社会に対する過剰な反発ではないかと尋ねたことがある。

パクは筆者の質問にすぐに答えなかったが、しばらくしてから、目を細め、返答を頭の中で整理しながら、現代社会の本質における政治的テーマに怒りを向けた。「資本主義のせいで、人間とコミュニティ(家族、仲間、地域)の関係は、大きく壊れた。とくにアジアにおいては。」 彼は以前、欧米の映画製作者と比べて、韓国の映画製作者は「個人と社会の関係に非常に敏感である」と語ったことがあった。彼いわく、彼の作品のキャラクターは、「世間からの隔絶感、孤独感を味わっている」。だから、彼は、直接人と会うより、メールや携帯電話でコミュニケーションをとるキャラクターの姿を描くのである。「そこに、人間同士の距離があり、それが誤解を生むから興味深いのである。」

現代社会でも同様のことが言えよう。しかし、パクは、ネット社会においてさえも、昔からの慣習がどれだけ意味をもつかという話をしてくれた。「オフィスで働くある若い女性は、インターネットを通じてある男に恋をした。その男は、彼女に夢中になり、彼女のブログを覗くだけでなく、ブログのリンク内容をすべて追跡した。彼は、彼女の家族関係はもちろん、高校時代にまで遡って彼女が付き合ったボーイフレンドなど、彼女のプライバシーまで調べ上げた。ボーイフレンドの名前はもちろん、リンクから見ることのできるデジカメ写真まで。結局、彼は、探偵を雇う必要もなく、彼女のすべてを把握したのである。」 

パクはさらに続けた。「これは、プライバシーの侵害で、ちょっと怖ろしいと思うだろうが、韓国の若者はこういうことが好きだ。これは、ある意味、小集団生活(村)の復活、コミュニティの復活で、みんながお互いのことをすべて知っているということだ。」 しかし、これは特異なコミュニティである。身体的な接触がないのに、人間の密接なかかわりが存在する。筆者は、さきほどの暴力についてまた問いただした。「そう、暴力は、コミュニケーションの形の1つで、良いか悪いかは問題ではない。これは、象徴的な人間のコミュニケーションのようなものである。」

そして、パクの作品は、現代世界の本質はもちろん、血と罪と抑圧にさいなまれる朝鮮半島の過去をも描いている。パクは、東アジアの作家、画家、脚本家がそうであったように、激しい政治問題に影響されてきた。暴力的な感情をファンタジーで表現し、残虐性を様式化し、恐怖を理不尽な美の世界で描くことによりその恐怖を取り払う。おそらく、こうしたことが、何よりも、韓国、中国、そして日本の監督が不条理を描くことに長けている理由であろう。パクの次回作は、精神病院にいる人間の泥棒に恋するサイボーグをとりあげる。これ以上奇妙な話はなさそうだ。

 ベビーフェイスなオールドボーイ?
欧米人からみると、ミンシクssi のお顔はベビーフェイス なのか・・・
いや、どうも役柄でしか彼の顔を思い出せないので、実物はそうなのかな
写真↑を見ると、このお二人のアジョシ、なんだか雰囲気似てるよね。

 S な監督
監督が、俳優に対してサディストであることは、使命みたいなもの。俳優に無理難題を課して、自分のコマである俳優を追い込みながら演技させる。そんな、製作現場がなんとなく想像できるな。
 
 暴力はコミュニケーションの形
言われてみると、韓国映画は、暴力を扱う作品が実に多いが、これは、韓国映画の特長だと思う。『甘い人生』でも、キム・ジウン監督が、「暴力は、他にコミュニケーション手段をもたない愚かな人間のすること」みたいな発言があったから、似たような定義だと思う。

 ファジーだから・・・
訳しながら思ったのだけど、暴力や復讐は、ある意味、社会への反発と言いながらも、国民のセンチメンタルな部分に配慮っていうところが、ファジーな彼の良さなのかもしれない。どちらかとガッチリ組みそうで、どちらともガッチリ組むことはない、なんかそういうところがアジア的と言われるのかな。

ようやく終わりました。ながいよ、カンドクニム!。って監督のせいじゃないけど。
こんな拙訳でも、映画を見る新たな視点の発見に役立てばうれしいですわ。
って、思い切り自己満足ですが・・・



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2 コメント

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福袋じゃなくて (lotusruby)
2006-04-27 01:55:31
haru さん、4回もお付き合いくださってありがとう。



『タイフーン』より『JSA』の方が解釈に幅がありますよね。最初に見たときはちょっと分かりにくかったもの。



脚本の制作に色々な人にかかわってもらって、アイデア収集しているというところが面白かったわ。彼の作品は、お楽しみ袋みたいな感じがするわ。

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パク夫人とJSA (haru)
2006-04-26 16:57:48
lotusrubyさんお疲れ様でした~

いや~この記事面白かったですよ。とっても。ご紹介感謝です。

最終回を読んでの私のツボをとりあえず二つだけ。

パク夫人・・・羨ましい・・実に羨ましい。

一体どんな方なのか・・興味わくわく。

それから『JSA』

今日、『タイフーン』やっと観てきたんだけど同じ南北問題を扱っていてもこんなにスタンスが違うのかって・・改めて思いました。タイフーンはこれまでの流れに近くって『JSA』は異質なんでしょうね。

だからBrianも脚本を読んで惹かれたのだと勝手に解釈して喜んでいます。

でも、『復讐よりは許しの文化』なんだ。まだまだ韓国映画奥が深そうで。

また楽しみが増えました。
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