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Left to Write

司法書士 岡住貞宏の雑記帳

方言?中国語?

2021-02-02 07:14:09 | できごと

 私は比較的「言葉にうるさい」ほうだと思います。「最近の若いモンは言葉遣いが」というヤツです。オヤジクセーと思われるかも知れませんが、実際オヤジなんで仕方ありません。

 言葉は時代によって変化して行くもの――それはそのとおりだと思います。源氏物語の時代から見たら、現代の正しい日本語もずいぶん変な言葉でしょう。また、「表現の妙」として斬新な言葉遣いを案出することも否定はしません。そういう表現に接して「面白い」と思うこともしばしばあります。文学では顕著にそう思います。

 しかし、だからといって、変化を安易に、無限定に認めてしまう訳にはいかないだろうとも思っています。変化して行こうとする力と、伝統を守ろうとする力と、その微妙なバランスの上に言語は成り立っているのではないでしょうか。

 

 さて、そのような「言語シーン」において、気になる傾向をひとつふたつ。

 

 最近の若いモンは(笑)、自分の知らない言葉に接すると、それを「方言」であると簡単に片づけてしまう傾向があるように見えます。

 自由民主党幹事長の二階氏が、保守分裂となった岐阜県知事選挙について、「しこってもしょうがない」と発言したことが報道されました。

   山形知事選敗北は「努力不足」 二階自民幹事長

 ハイ、「しこって」に妙な反応しない、第二次性徴期じゃないんだから。ここで「しこる(凝る、痼る)」は、無論「しこりを生じる」という意味です。「しこり」という言葉すら知らない人はあまりいないでしょう。

 ところが、ネット上では嘲笑気味に「どこの方言だ」という声が多く上がりました。嘲笑されるべきはどっちなんだ?と思いますが。一方、熊本には「カッコつける」という意味で「しこる」という方言があるそうで、「熊本出身でもない二階が何でわざわざ熊本弁使ってるんだ」と、ワケ知り顔で別の嘲笑をする輩も見かけました。だから嗤われるべきはどっちだって。

 私も以前、「しゃっちょこばる」と言ったらひどく笑われた経験があります。まさに「どこの方言だ」と。

 

 しゃちほこ‐ば・る【鯱張る】[動ラ五(四)]

 1 鯱のようにいかめしく構えた態度をとる。しゃちこばる。しゃっちょこばる。「―・って訓辞を垂れる」

 2 緊張してかたくなる。しゃちこばる。しゃっちょこばる。「―・ってお辞儀をする」

 

 どうだバカヤロウ。何が方言だバカヤロウ。

 

 方言とは違いますが、ネット上で「好好爺」という言葉を使った人が「中国人認定」される場面も先日目にしました。ネトウヨの多いWeb空間で中国人認定されるのはツラいものがあります(笑)これに対してはさすがに、「好好爺という言葉も知らないのか?小学生かお前は」という反論が数多くありましたが、それでもなお「『好好』というのは中国語だ」と頑迷に譲らない輩が見られました。

 

 知らない言葉あるのは仕方ないとして(もちろん私も知らない言葉だらけです)、笑う前に、中国語認定する前に、辞書で調べようと思わないのかなぁ?目にしたことない言葉に接すると、「どんな意味だろうと」と興味が湧くもんだけどな。辞書を「読む」のって、楽しいもんだけどな。

 そんなことないのかな、この頃は。

 


風の音にぞ

2020-08-26 19:58:34 | できごと

 厳しい残暑が続く毎日です。

 しかしそれでもこの頃は、朝夕ふと風に涼しさを感じることがあって、「秋は近付いているのだなぁ」と思ったりします。

 こんなときにいつも思い出すのは次の和歌。

 

   秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

 

 素晴らしいですよね。1000年以上の時を経て確かな共感を覚える。

 こんな言葉を残したいものです。また、大切にしたいものです。


時をかける…

2020-07-26 22:53:27 | できごと

 YouTubeで「時をかける少女」(原田知世)の動画を観ていたときのこと。

 「そういえば相手の俳優さんて、その後あまり見かけないな?」と、Wikiで調べたところ、慶應義塾高校在学時にオーディションから俳優となり、大学卒業と共に会社員になって俳優はお辞めになったと書いてありました。

 このとき「あっ!」と思い出しました。

 ごく最近、ご本人が書いたエッセイを雑誌で読んだはず。にわかに有名人となったことのご苦労、当時の級友と先生の反応など、確かに読んだことがあったはずでした。

 あれ読んだのいつだったかなぁ?今年に入ってから?いやもう少し前、昨年の暮くらいだったか?いずれにせよここ1年くらいと、雑誌のバックナンバーを繰ってみたら何と、201611月号でした。

 もう4年近くも前そんな馬鹿な、ついこの前、ごく最近のことだろう?いつの間にそんな時間が経ったのか?

 「時をかけるおじさん」。私はタイムトラベルの能力を身につけてしまったのか?あっ、ラベンダーの香り


53歳の誕生日を迎えて

2020-06-02 21:58:38 | できごと

本日、誕生日を迎え53歳となりました。

振り返れば苦しい後悔ばかりの人生、思い通りには行かなかった人生ですが、唯一誇れることと言っては、53年生きて来て「今がいちばん幸福」と思えること。その幸福を支えてくれる妻、家族、周囲の方々には感謝しかありません。

あと7年、60歳までは全力で精進努力して行くつもりです。その先はだんだんペースダウンして、のんびりした老後を迎えたいと考えております。

あーこんなこと若い時には1ミリも考えたことなかったな(笑)こんな心境を迎えることが不思議でなりません。人間は自然に年相応の考え方をするようになるものなのかも知れませんね。

でも、まだまだ、のんびりするには早過ぎる。

これからもどうぞよろしくお願いします!


餅まきイベント

2020-04-21 10:10:18 | できごと

ある雑誌を読んでいました。その雑誌は不動産の業界誌です。

写真が載っていました。まだ骨組みだけの建物の屋根部分に3人ほどの男達が登っていて、何かを「撒いて」います。地面には多くの人が集まり、屋根の男達に向かって手を挙げています。「こっちに投げろ」と言っているような。

そうです、建前(たてまえ、棟上げ、上棟式)の写真です。お餅やお菓子、小銭などを投げているのでしょう。ところが、その写真に添えられていたキャプションは何と!「餅まきイベント」でした。

餅まきイベント・・・(汗)そりゃ確かにそうだけど、字義のとおりだけど。

日本語の乱れ云々を言うつもりはありませんが、これはなんぼなんでもあんまりな。しかも不動産の業界誌でしょう?この業界にして、すでに建前は死語なんでしょうか?

悲しいというべきか、呆れるというべきか。


ブログ開設から5,000日

2020-04-17 10:45:10 | できごと

goo blogは編集画面にするとブログ開設日からの日数が表示されます。それによると、このブログは昨日で開設5,000日となりました。

5,000日=13.7年ですか。もっともこのブログには長大な空白期間があり、実質はその半分くらいかな(笑)あまり威張れたものではありません。

ブログタイトルのLeft to Writeは、Billy Joelの”The longest time”の下記歌詞から採っています。

 

If you said goodbye to me tonight,

There would still be music left to write.

 

music left to write まだ書いて(採譜して)ない音楽、これから書く音楽。ちょっといい言葉だなと思いました。「素晴らしい文章は、still in my head」というような負け惜しみも込めて、「これから書くよ!」とブログに名付けました。

人によってはLeft to Right(左から右まで)と勘違いし、「Writeはスペルミスだろ?」とか「お前は完全にRightだろ?」とか、要らぬお節介を言いますが、それ違いますから。

これからもあまり面白くもない記事を自分本位に書いて行きます。どうぞよろしくお願いします。


三枚橋病院の思い出5

2020-04-09 15:23:21 | できごと

三枚橋病院では、よく旅行に出かけた。

「ああ、社員旅行のような病院職員の旅行が多かったのね」と思われるかも知れない。

違うのだ。医師も看護婦もそれ以外の職員も、そしてもちろん患者さんも、行ける人みんなで行く。さすがに病院を空っぽにはできないので、前班・後班の二班に分けて行く。

当時の私は特に不思議なこととは思っていなかったが、しかし、入院患者を多数引き連れて旅行に出かける病院なんて、考えてみれば前代未聞だ。精神病院でなくても、まったく前代未聞だ。

院長先生はヒマラヤにも登った山男なので、行先は赤城山のバンガロー・キャンプや、冬は雪山スキーなどであった。

キャンプファイヤーでは天狗に扮した院長先生が、燃え上がる火を前に山の神々への祈祷を捧げた。私と兄、そしてAという少年(この少年のことはまた後日、別に記したい)は3人の小天狗になって、院長先生に付き従った。天狗のお面が臭くて閉口だったことを覚えている。

今となって気になるのは旅行の費用はどうしたのか、ということである。職員はともかく、患者さんに負担させる訳にもいかないだろう。この点について、おふくろは次のように説明する。

――旅行に行きたいという院長と、そんな金はないという事務長と、いつも喧嘩になる。そうすると院長は2、3日姿をくらまし、再び現れたかと思うと事務長に札束を叩きつけ、「これで文句はないだろう!」と言う。院長は温泉場に賭けマージャンに出かけ、旅行の金をこしらえて来るのだ。

んなわけあるかい!(笑)

さすがにこれはおふくろの作話ではないかと思うのだが、真相はどうなのだろう。お目にかかる機会があれば聞いてみたいが、「院長先生なら本当かも知れない」とも思ってしまう。

病院の旅行で先頭に立って楽しそうにはしゃいでいたのは、もちろん院長先生であった。

 

キャンプファイヤーの写真(クリックで拡大)

黄色い合羽の天狗は院長先生、一番小さい小天狗が私

 


三枚橋病院の思い出4

2015-09-10 19:15:40 | できごと
 もはや、言い訳がきかないほど長いブランクを経てしまったが・・・これを書き終えないことには、第1話で言った責務を果たせない気がするので、やっぱり書くしかないんでしょうねぇ・・・

 三枚橋病院はにぎやかな病院だった。いま思い出しても、大変な活気があった。それは、ただ職員がにぎやかだったというにとどまらず、患者さんも非常に元気だった。子どもの私には、職員なのか患者さんなのか、判断がつかない人もたくさんいた。

 にぎやかさの要因の一つは、病院行事の多さにあった。何だか、年がら年中、お祭り騒ぎをしていた。年中行事の文化祭や盆踊りなどには、病院外の地域住民なども参加していて盛況だった。患者さんの出す模擬店で、かき氷や焼きまんじゅうを食べた。舞台では職員と患者さんが入り混じって、演劇や歌舞伎のまねごとなどやっていた。おふくろが「シンデレラ」の意地悪な姉の役を演じて、はまり役だったのをよく覚えている(笑)。院長先生はまさに水を得た魚のようにはしゃぎ回っていた。歌舞伎の白浪五人男で「知らざぁ言って聞かせやしょう」とか言っていた。

 いま思えば重要なことは(当時は当たり前だったが)、その白波五人衆は、医師と病院職員と患者さんの混成チームであったこと。病院と患者さんとの間に境界がなかったのだと思う。なにしろ、私は学齢前の子供だったので偉そうなことは言えないが、病院職員と患者さんとの間に隔たりは感じなかった。私にとっては、両方ともただの「大人」だった。そんなことは当たり前なのだが、それが当たり前でないことを知るのは、私が(今の仕事に就いて)他の精神病院の姿を知ってからのことである。

 夜は、後に週刊誌等で有名になった「精神病棟でのダンスパーティー」なのであったが、実は私はあんまりその辺の実情を知らない。だって、ダンスパーティーの時間は、保育園児の私は「おネム」の時間だったのである。ただ、妙にノリノリの院長先生の屁っぴり腰のゴーゴーダンスを笑ったことは覚えている。

三枚橋病院の思い出3

2014-07-12 13:01:14 | できごと
開かれている病棟 おりおりの記
クリエーター情報なし
星和書店


三枚橋病院の思い出3

先の記事で,私は「患者さんや看護婦さんや事務所の人たちに遊んでもらっていた」と書いた。

これらのうち,主な遊び相手は患者さんであった。これは当然のことであって,おふくろを含む職員は忙しく,子どもと遊んでばかりもいられないのである。そうすると遊び相手の中心は,自然に,(比較的)ヒマな病棟の患者さんという成り行きになった。

私は病室にノコノコ出かけて行って,遊んでもらい,時にはそのまま病室でお昼寝させてもらったりしていた。不思議と,遊んでもらったのは男性の患者さんばかりで,女性の患者さんとは遊んでもらった記憶があまりない。たぶん,私自身が,女性の優しい可愛がり方を嫌い,肩車をしてもらったり,プロレスをしたり,仮面ライダーごっこをしたりするのを好んでいたからだと思う。

そして私のような幼児が病棟に自由に出入りできたのも,今思えば,鍵のない「全開放病棟」なればこそであった。

この話をすると,しばしば聞かれる。あるいは,いま,読者にもそう思っている人はいるのかも知れない。「子どもが精神病患者と関わって問題ないのか?」と。もっとはっきり言えば,「危なくないのか?」ということである。

結論的に言えば,そして私の実感としても,何の問題もなかった。

もちろん,患者さんの中には好きな人もいたし,嫌いな人もいた。優しい人もいれば,恐い人もいた。しかし,そんなことは,何も患者さんに限ったことではないであろう。患者さんでなくても,好きな人,嫌いな人,優しい人,恐い人が大人にはいた。そしてそれは,何も私に限ったことでもないであろう。全国の,いや全世界の子どもに共通のことのはずである。

ちなみに,私が三枚橋病院でいちばん嫌いだったのは,若い男性事務職員の「よしのぶちゃん」だった(笑)。よしのぶちゃんは妙に威勢が良くて,大声で子どもを囃し立てるので,恐かった。患者さんより,ずっと恐かった。

病院の特質上,子ども心にもやはり「普通ではない」と思える患者さんもいた。

自己の殻に閉じこもってしまっている人がいた。膝を抱えて座り込んで,長い時間,ひとつの所をずっと凝視しているのである。私は気になって尋ねた。

「ねぇ何してるの?」
「・・・」
「ねぇ何してるの?」
「・・・」
「ねぇ何してるの?」
「・・・」

私の方で飽きて,問題は起こりようがなかった。

いつも錯乱して,奇声を上げながら走り回っている若い女性患者のMがいた。鳥居みゆきという芸人がいるが,あんな感じだ。いつも白いだぼっとした服装をしていて,その点も似ている。ただ,Mはもっと切羽詰まった表情と声をしていた。

もちろん,私はMとは遊ばなかった。遊び相手とは思えなかったし,何というか,子どもである私の「管轄外」という気がしていた。つまり,私には無関係の大人の一人という印象だった。Mの方も,子どもには何ら興味がないようで,私の前はいつも素通りして行った。

私が嫌いなタイプの患者さんが私をかまって,私が泣いてしまうこともあった。しかしその時,すぐに「おい,やめろ!」と助けてくれるのも,また患者さんなのであった。

患者さんは非常に個性的だったが,それはまさに「個性」というのに過ぎないのであって,ことさらに危険視すべき人たちではなかった。少なくとも私は,三枚橋病院で(職員のよしのぶちゃん以外に)恐い思いをしたことはなかった。不幸にして,彼らは精神を病んでいた。しかしその一事をもって,どうして危険視されなければならないのか。彼らがいったい何をしたというので,危険視されなければならないのだろうか。

当時の私は,もちろん精神病という概念が分からなかった。逆に言えば,本当の意味で何の偏見もなく,彼ら患者さんと接していた。そして,私の患者さんに対する印象は,患者さん以外の普通の大人と,ほとんど何も変わるところがなかったのである。それはすでに述べたとおりであるが,患者さんの中には好きな人も嫌いな人もいるし,優しい人も恐い人もいるという,ごく当たり前の印象なのであった。

三枚橋病院の思い出2

2014-07-10 15:17:14 | できごと
開かれている病棟―三枚橋病院でのこころみ
クリエーター情報なし
星和書店


三枚橋病院の思い出2

私は太田市にある鳥山保育園に通っていた。そして保育園が終わると,おふくろか,あるいは小川さんが迎えに来て,同じ保育園の兄貴と一緒に三枚橋病院に帰るのが日常だった。私の記憶は,この時期から始まる。たぶん,3歳くらい,昭和45年頃のことだと思う。

おふくろは三枚橋病院に看護婦として働いていた。おふくろが日勤のときは仕事が終わるまで,病院で患者さんや看護婦さんや事務所の人たちに遊んでもらっていた。その当時,もちろん託児所があるわけではなく,私は病室やらナースセンターやらをウロチョロしていた。おふくろが夜勤のときは,そのまま病院に泊まった。看護婦の当直所で兄貴と寝ていた。

そういう生活が当たり前だったので,というより,物心ついたらそういう生活の中にいたので,当時はなんの疑問もなく,特別なこととも思わなかった。この生活が実はかなり特殊なものであったことに気付いたのは,高校生くらいになってからだったように思う。

よく保育園に迎えに来てくれた小川さんというのは,病院の運転手兼設備関係の仕事をしている60歳前後の男性だった。物静かで,優しく,それでいて頼りがいのある人物だったので,患者さんにも職員にもみなに好かれていた。私も本当の祖父のように慕っていて,わがままばかり言っていた。

私は昭和42年,富岡市に生まれたのだが,昭和44年頃には太田市の長手という地域に住んでいた。おふくろ,兄貴と私の母子家庭であった。このあたりの事情は本論に関係ないので省略。ともかく,そうだったのである。

おふくろは看護婦の資格を持っており,中学卒業以来,結婚するまで看護婦として働いていた。母子家庭となったとき,おふくろは再び看護婦として働こうと,いちばん近くにあった開院間もない三枚橋病院の求人に応募した。

面接の際,院長先生とおふくろとの間に,次のようなやりとりがあったとのことである。

「子どもが小さいので,保育園が終わる時間には帰らせて頂かなくてはなりません。夜勤も無理です」
「え,なんで?どうして?」
「ですから…!子どもが小さいので…」
「じゃあ子ども連れて来ればいいじゃん」
「は…?」
「夜勤のときは子どもも泊まればいいじゃん」
「……?」
「そうすればいいよ!」

この時,おふくろは知る由もなかったが,院長先生は思考も行動も常人ではないのである。

託児所もないのに,職場に子どもを連れてくればいいとは。夜勤も子連れですればいいとは。まして,ここは精神病院だ。本当に構わないのか,という疑問は抱きつつ,おふくろはありがたくその申出を受け,就職することにした。実際,母子家庭にはありがたいことだった。残業・夜勤ができるとできないとでは,収入が大きく異なる。

このようにして,私は三枚橋病院で多くの時間を過ごすことになった。

三枚橋病院の思い出1

2014-07-10 00:05:10 | できごと
心病める人たち―開かれた精神医療へ (岩波新書)
クリエーター情報なし
岩波書店


三枚橋病院の思い出1

三枚橋病院は群馬県太田市にある精神科の病院だ。創立者は石川信義医師(以下、「三枚橋病院の思い出」記事では「院長先生」と呼ぶ。それが私にとって彼に対する自然な、そして唯一の呼称だからである)。

三枚橋病院はわが国で初の「全開放病棟」の精神病院である。つまり、鍵付き・鉄格子付きの閉鎖病棟を持たない、すべてが開放病棟の画期的な精神病院である。記録を見ると,昭和43年5月に開院だという。

三枚橋病院の全容については、院長先生の書いた『開かれている病棟―三枚橋病院でのこころみ』(星和書店,1979年),『心病める人たち―開かれた精神医療へ』(岩波新書,1990年)という書籍が出版されているので、正確なところはそちらをお読み頂きたい。読んで頂ければ分かるが、スゴい(素晴らしいという意味の)病院である。しかし私は、この病院のスゴさを語るつもりはない。語るのは、もっと個人的な経験だ。

昭和42年生まれの私は、この三枚橋病院のほとんど開院当初から数年間、病院に関わった。というより、私は、物心ついたときに三枚橋病院にいた。

「それはいったいどういうこと?」という疑念はごもっとも。それをこれから語って行くつもりである。

院長先生は今年84歳らしい(ご存命である)。三枚橋病院は、かなり前に引退なされてるらしい。

そして聞くところによると、三枚橋病院の病院としての性格も、院長先生の引退の以後、ずいぶん変わったとのこと。そもそも斯界で有名な病院、著名な医師であるだけに、以前からとても事実とは思われない誹謗中傷もあった。

院長先生もお歳であるし、三枚橋病院の開院当時を知っている人々も高齢化して来ている。または,すでに鬼籍におられる。この後の記事にしばしば出て来る当時の若手看護婦であった私のおふくろも、もう73歳だ。

三枚橋病院の開院当時を知る最も若い証言者は、間違いなく私だ。このことを語っておくことは、私の責務であるとさえ思われる。

近頃、というかこの記事を書いた当日、精神病患者に対する偏見に満ちた記事を読んだ。しかもそれを書いたのは、(精神科でないにせよ)医師だ。

こういった事情も、私にこの記事を書くことを迫る一つの要因となっている。

もちろん、この記事を書く主要な目的には、精神病の患者に対する誤解・偏見を除きたいという意図がある。

ということで、三枚橋病院の思い出を綴って行きたい。なるべく事実をベースに、私自身の感想は最小限に。

現在,最も多用しているFacebookの記事で書いて行こうかと思ったが,こういうシリーズもの,後年に残したいものは,やっぱりブログかな。ということで,ブログとFacebookの併用で記して行きたいと思う。



auとの訣別

2010-07-11 17:31:23 | できごと
グーグルvsアップル ケータイ世界大戦 ~AndroidとiPhoneはどこまで常識を破壊するのか
石川 温
技術評論社

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 携帯をiPhoneに変えたので、必然的にキャリアをSoftbankに変更しました。

 auとは長年の付き合いでした。が、最近のauの対応や企業姿勢は、首を傾げざるを得ないことばかりでした。

 つまり、数え上げればきりがないほどauに「イヤな思い」をさせられたということ。解約の手続を済ませる、その最後の最後まで……

 Softbankに変えた今では、もう思い出したくもないので何も言いますまい。少なくとも、もう二度とauのユーザーに戻ることはないでしょう。

 一点だけ、ちょっと前、PC系の雑誌で読んだauの社長さん(だったか、とにかくお偉いさん)のインタビュー記事のことを。それは、docomoやSoftbankが次々にスマートフォンを市場に投入している時期のことでした(たぶん2年くらい前)。その記事の中で、auお偉いさんのこんな趣旨の発言があったのです。

 「スマートフォンにどれほど需要があるというのか?とてもそんな需要があるとは思えない」

 前の記事でも書いたとおり、私は大の情報端末好き。「auでスマートフォンを出さないかなぁ~」と期待していた時期だったので、ひどくがっかりしました。

 そもそも、なんて傲慢な発言なんでしょう?需要の有無を決めるのは、いうまでもなく消費者。それなのに、まるで「会社が需要の有無を決める」とでも言いたげな発言じゃありませんか。この記事を読んだときに、「ああ、auという会社はもうダメだな」と思いました。そして、その後のスマートフォン市場の隆盛、auのこの市場での致命的な出遅れを見るにつけ、私の予測は正しかったと独りほくそ笑んでいます。

 同時に恐さを感じます。人は、企業は、傲慢になったら最後。周囲に、市場に、見放されてしまうんだとしみじみ思います。

 私は8年以上もauの利用者でした。家族のものも含め常に2台~3台の回線を持ち、利用料は毎月2万円~3万円にもなっていました。イヤらしい計算をすれば、auにはこれまで200万円~300万円もの料金を払ったのです。

 そういう「長年の顧客」に「もう二度とユーザーに戻るもんか」と思わせてしまう企業って……そんなことで本当にいいのでしょうか、auさん?私の観察する限り、docomoとSoftbankのショップはとても混んでいるのに、auショップはずいぶんすいているように見えますよ。

iPhone

2010-07-11 17:20:58 | できごと
iPhoneアプリケーションガイド iPhone 3GS/iPhone 3G/iPod touch対応版
丸山弘詩,瀬古茂幸,小原裕太,霧島煌一,岡田拓人,玉津圭太
毎日コミュニケーションズ

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 とうとう変えちゃいました。携帯をiPhoneに!

 実は私、「情報端末」みたいのが大好きです。

 いままでも、Zaurusやカシオペア(って知ってますか?)などのPDA+airH゛、W-ZERO3やEM・ONEなどデータ端末、ネットブック+データカード等々、いろいろ試してきました。

 が、今まで満足できたものはひとつもありません。PDAは「おもちゃ」の域を出ないものでしたし、データ端末も速度が不満。ネットブックは大き過ぎ、重過ぎ、起動に時間がかかり過ぎ。

 そんな経験をふまえた後の今回のiPhoneですが……「ああ、やっとここまで来たか」という感慨にふけることしきり。ようやく携帯情報端末は、「実用」の域に達したと言ってよいでしょう。

 使用頻度の高いGmailとgoogleカレンダーとの同期がバッチリ、しかも同期に「もたもた」感がありません。Word文書やExcelシートの閲覧、編集もOK。Dropboxなどを介して、ドキュメントをいつでもどこでも開けます。

 出張があっても、もう重いノートパソコンを持ち運ぶ必要がありません。

 しばらくiPhoneに夢中になりそうです。


鹿児島

2007-07-31 22:49:11 | できごと


 7月28日に開催の鹿児島県司法書士会の研修会講師として、鹿児島に行ってきました。


 鹿児島といえば、わが国の明治期を創った偉大なる人物を数多く輩出した土地。なかでも、私が宿泊したホテルのある加治屋町こそ、西郷隆盛・従道兄弟をはじめ、大久保利通、大山巖、東郷平八郎といった「ミスター明治」と呼ぶべき偉人たちを生んだ町なのです。町内を散歩しながら、「西郷さんもこの道を歩いたのだろうな~」と、しばし感慨にふけりました。




 さて、かんじんの研修会ですが、不動産登記手続きにおける登記識別情報をテーマとした内容。2部構成とし、第1部「登記識別情報利用に関する現状分析 ~ あるいは『突撃!となりの識別情報』」、第2部「仮想ディベート ~ 登記識別情報を不通知とする実務慣行」と題して行いました。私としては第1部の方がウケると予想しており、第2部は「ちょっと冒険かな?」とも思っていたのですが……結果としては、第1部はイマイチ、第2部の方が受講者(鹿児島の司法書士さんたち)の興味を引いたようです。


 研修会後は、鹿児島県司法書士会の会長さん、研修部長さんをはじめ有志の方々と共に鹿児島郷土料理をごちそうになりました。そして!念願であった本場の「白くま」も食べることができ、大満足でした。


↑氷白熊 ちょっと食べかけ


 鹿児島県司法書士会のみなさま、大変にお世話になりました。社交辞令でなく、ホントに鹿児島が大好きになりましたよ。

 機会があったら、またゆっくり訪れてみたいと思います。


↑白熊の名店「天文館むじゃき」の前で
 鹿児島県司法書士会のみなさんと


どうぞ安らかに

2007-07-18 01:05:08 | できごと
 尊敬する先輩司法書士がお亡くなりになりました。

 高校・大学の先輩にもあたり、何かと目にかけて頂きました。

 61歳の早過ぎる生涯でした。


 ――先生、どうぞ安らかに。

 そして今後も天上から、後輩の私たちをお見守り下さい。

 先生が力を注がれた司法書士制度発展のため、私たちは弛まぬ努力を続けます。