新潮文庫、太宰治の「新刊」です。
もちろん黄泉の国の太宰が書き下ろした訳ではなく、これまで文庫に収録されることのなかった作品を集めたもの。特に太宰治のペンネームを使用する以前の初期作品を中心に収録されています。
太宰は才気走った「早熟の天才」というイメージもありますが、中学時代の作品などを読むと、稚拙な文章が何とも微笑ましいです。「すっかり」という語が「しっかり」と表記されていたり、「すきとおる」が「しきとおる」になっていたり・・・津軽弁で「はずめますて、つすますんじです」と自己紹介する津島修治少年の姿が思い浮かびます。
さて、本書収録の『断崖の錯覚』という作品ですが、当初は「黒木舜平」という筆名で発表され、1980年代になって太宰の作であることが確認された作品です。太宰が大学生のときに起こした心中事件(太宰は助かり、相方の女性は死亡した)をモチーフに、作品では心中ではなく、「男が女を断崖から突き落として殺す」という内容になっています。
この『断崖の錯覚』が太宰の作であると判明した当時のこと、「この作品によれば太宰は殺人を犯したことになり、その文学に対する評価は大きく変わらざるを得ない」という記事を読んだことがあります。
ひどくアホらしい論評ですね。
アホらしさその1。言うまでもありませんが、作品と作家の実体験は、同一ではありません。作家が実体験しか書けない(書かない)とするなら、フィクションという言葉は不要となりますね。「なんで日本を沈没させたんだ!」と、小松左京さんを非難するバカがどこにいるのでしょう?数々の殺人事件を起こした内田康夫さんなんか、死刑になっちゃいそうです。
アホらしさその2。万が一、本当に太宰は女を殺したんだとして、それに対する倫理的あるいは法律的な批難が、太宰作品に対する文学的あるいは芸術的な評価に、どのような影響を与えるというのでしょうか?優れた芸術家は、人格高潔でなければならない?その逆はよく聞くように思いますがねぇ・・・それこそ「倫理的には不謹慎」な言い方かも知れませんが、清廉・高潔な人物が創る芸術なんて、ツマラナイに違いないとは思いませんか?
太宰は生前から、このような「作品と実生活の混同」に基づく難癖を付けられやすい作家だったようで、それを嘆く小説も数多くあります。ストーリーや表現が、それだけ真に迫っていたということなのかも知れませんね。