安倍元首相が銃撃され、死亡するという恐るべき事件が起こりました。まずは謹んで安倍元首相のご冥福をお祈り申し上げます。
かつて安保法制をめぐって、当時首相であった安倍氏に対し、「病気になれ、入院しろ」などと酷い声が上がったことがありました。そのとき私は、「いくら安倍氏が嫌いでも生身の人間にそんなこと言うもんじゃない」と窘める趣旨の投稿をFacebook上でいたしました。が、それに対して、ある知り合いから、「私は病気にでもなればいいと思いますけどね」というストレートな反論(コメント)を受けました。嘘を言っては問題なので再度確認してみましたが、上記コメントは一字一句そのままの言葉です。2015年8月のことでした。その投稿及びコメントをここに晒し上げてもいいのですが、コメントした人も一時の熱狂から勇み足を踏んだだけのことなのかも知れませんので、やめておきます。
社会に憎悪が蔓延している。膨張した憎悪が爆発した――今回の事件に、そのような印象を受けています。
安倍元首相のような公人、とりわけ彼のようにファンが多いだけアンチも強烈という人に対して向けられる社会の憎悪は、もはや看過できないレベルに達しています。公人はどれだけ口汚く罵ってもよい、欠点・失点は最大限に誇張して(ときには捏造のレベルに及んで)叩くことも許される、そのような風潮さえ感じます。
暴力はいけない、それは多くの人々が同意することでしょう。しかし、暴力にさえ訴えなければ何を言ってもいいということではありません。憎悪はむしろ言葉から生まれ、言葉によってこそ増幅される。そうして極限にまで膨らんだ憎悪の果てが暴力です。
与野党の政治家、マスコミ、言論人、憎悪の拡大に加担してはいませんか?あなたがたのその言葉は本当に適切でしょうか?相手が、政敵が憎いからと、極端すぎる批判を向けてはいませんか?
そしてSNSを使うみなさん。SNSによって、かつてのサイレントマジョリティはもはやサイレントではありません。あなたの流したその憎悪が、どこかで爆発してはいませんか?憎悪が爆発する事態までを想定して発言を、投稿をしていますか?
この憎悪が蔓延する社会を鎮めるにはどうしたら良いのでしょうか?私はもはや悲観的な気持ちでいますが、それでもほんの少しの期待を込めて提案するなら、一歩立ち止まって冷静に考えること、理性と知性を大切にすること。あまりに陳腐かつ月並みで、口にするのもいかがなものかということですが、それしかないと思います。誰かがそうするのではありません、自分が、ひとりひとりがそうするんです。陳腐、ではありますが、多くの人々はそうできていません。
しかし――もう無駄かも知れない。絶望。