SakuraとRenのイギリスライフ

美味しいものとお散歩が大好きな二人ののんびりな日常 in イギリス

Alasdair Roberts, The Logic of Discipline (Oxford University Press, 2010)

2015年02月16日 | 
最近読んだ論文に引用されていて気になったので、Alasdair Roberts, The Logic of Discipline: Global Capitalism and the Architecture of Government (Oxford University Press, 2010)を読んでみました。



ちなみに、著者は「Suffolk University Law School」の教授とのことで、勝手に親近感が湧いていたのですが、ここでいうSuffolkはイギリスの州の一つ(素晴らしい教会がたくさんあります!)ではなくて、アメリカのBoston市がある群の名前のようです。
イギリスとアメリカで同じ地名があることはすごくよくあるので注意しないといけません。(せめてNewをつけるとかして違う地名にしてくれればよかったのに。)

さて、本書は1978~1980年以降の時代を「the era of liberalization」(自由化の時代)と呼び、この時代に共通する諸改革の精神を「the logic of discipline」(規律の論理(?))と名付け、それが様々な政策にどのように表れていたのか、そしてその妥当性が否定されていった(著者はそう主張します――p.14)プロセスを論じていきます。
ちなみに、なぜ1978年~1980年かというと、この時期に中国で改革・開放政策が始まったこと、サッチャー政権とレーガン政権の成立及び彼らの下で市場化政策が行われたことが理由として挙げられています。

著者によれば、logic of disciplineは以下の2つの要素から成り立っています(pp.4-6)。
(1)民主的プロセスを通した統治への深い懐疑
(2)それを是正するために、政治家と選挙民の行動を制約して、間違った決定を下せないようにする。その手段として、法律や条約、契約が頻繁に用いられる。

(1)の民主主義への懐疑の原因として、経済学における公共選択理論(政治家は自分の利益を最大化するように行動する)の発展だけでなく、Huntington, Crozier and Watanuki (1975)が提起した「overload thesis」(人々の政治参加が進み、人々は政治に多くの事を要求するようになったが、その要求は政府の応答能力を凌駕してしまった)も挙げられています(pp.9-10)。
ここまではよくある話なのですが、僕が特に勉強になったのは、(2)の手法をnaive institutionalism(ナイーブな制度主義)と呼んで批判するところ。

著者によればナイーブな制度主義の特徴は、ある国の制度を別の国に導入することで所期の目的を達成できると考えているところにあります(pp.15-17)。
Douglass NorthやPaul PiersonやPeter Hallなどの「新制度論者」は制度の重要性を主張して学界に大きな影響を与えたけど、彼らは制度として公式な(formal)ものだけでなく、文化や習慣などの非公式な(informal)ものも含めた。
formalな制度は簡単に変えやすいけれど、informalな制度はなかなかすぐには変わらない。

新制度論者が指摘していたこの点は、しかしナイーブな制度論者によって忘却されます。
そもそも制度のナイーブな見方は、第二次世界大戦後すぐの政治学者によって否定されていたものだったそうです。
しかし、制度改革をしたい人たちは時間や資源に制約を抱えているためにinformalな制度のことまで考えていられないことや、改革の成果を測定するためにはformalな制度の変化を見るのが分かりやすいから、彼らはformalな制度の変更ばかりを目指すようになってしまった。
でも、たとえば、法文上で素晴らしいことを意図していたとしても、それを適用する段階で政治、行政、社会経済の様々な主体の地からによってその意図は容易に歪められてしまう(1970年代のGreat Societyがあまり大きな変化を起こせなかった理由を著者はこの点に帰しています)。
著者はある論者の次の言葉を引用しています。
「政策の企画と適用は複雑で、多面的で、断片化されていて、予測のつかないプロセスだ」(p.17)。

「ナイーブ」とされた側からは、「文化とか習慣とかがなかなか変えられないからこそ、変えられる制度を改革することでよりよい社会にしようとしているんだ!」と反論されるような気がしますが、この指摘はとても重要なんじゃないかなと思いました。

本書でケーススタディの対象になっているのは、中央銀行の独立性付与(2章)、財務当局の権力増大/財政ルール(3章)、主に途上国における徴税当局の権限増大(4章)、海港や空港の管理運営の民営化(5章)、海外投資の規制緩和(6章)、インフラ整備の契約手法(PFIとか)(7章)。
僕の興味は2章&3章でしたが、多岐にわたる主題が簡単にまとまっていて、世界で起こっていることを概観できた気になりました。

ただ、著者が本書で示そうとした、「logic of disciplineの妥当性が否定されつつある」ことについては、あまり成功していないんじゃないかと思ってしまう。
世界金融危機によってこの精神の説得力は弱まった、と著者は繰り返し語っているけど、現実には世界の各国の政策はそんなに変化していない(ちょっと前に取り上げたGrant and Wilson (2012)とか、もっと露骨にはPhilip Mirowski (2013) Never Let a Serious Crisis go to Wasteとか。外在的な批判でしかないけど)。
Colin Hayが言うように、我々はalternativeを保持していないのであり、説得的なalternativeなしではそれまでのアイディアは、いかにそれが「失敗」だったと言われようと廃棄されない(Hay (2011) "Pathology Without Crisis?", Government and Opposition 46(1), pp.1-31; Blyth (2002))。
でも、それは、本書を2008年~2009年にかけて書いた(Acknowledgementsより)著者に言うのはちょっとズルいかもしれない。

(投稿者:Ren)

Wyn Grant and Graham K. Wilson, eds., The Consequences of the Global Financial Crisis

2015年02月11日 | 
そんなにすごくおすすめというわけではないのですが、こういう本があるということを紹介する意義はあると思うので、今日は、Wyn Grant and Graham K. Wilson, eds., The Consequences of the Global Financial Crisis: The Rhetoric of Reform and Regulation (Oxford University Press, 2012)を取り上げたいと思います。



タイトルから、世界金融危機を受けた諸国の政策対応が分析されているんだろうなと思っていたのですが、どちらかというと本書の主眼は「世界金融恐慌が起こったというのに、ネオリベラリズムに基づく政策がほとんど変わらず行われている」ことを主張する点にあるようです。

本書は多岐にわたるトピックと国をカバーしています。
取り上げられている国は、イギリス(第3章)、アメリカ(第4章)、フランス・イタリア・スペイン(第9章)、デンマーク・スウェーデン(第10章)、フランス(第11章)、中国(第12章)。
トピックとしては、国際経済ガバナンス(第2章)、店頭デリヴァティブ市場の規制(第5章)、東アジアの地域主義(第6章)、資本移動規制(第7章)、格付け会社(第8章)。
あまり取り上げられるテーマやアプローチに体系性や統一性は感じられず、それぞれの論者たちが自分の得意なことを書いたのを寄せ集めた、というような印象。
それにもかかわらず、危機を経ても政策はあまり変化していないという上記の結論が多くの分野から出てくることが重要なのかもしれません。

読んでいて特に勉強になったのは、イギリスの政策対応がとても分かりやすくまとまっていた第3章(Andrew Gamble)、資本主義の危機が中道左派の危機をもたらしたという皮肉をアメリカを事例に分析した第4章(Graham K. Wilson)、従来のVoC研究に異議を唱え、国家主導型の市場経済(State-Influenced Market Economies)という類型が必要なことを主張し、それを構成する諸国としてフランス・イタリア・スペインの危機の影響を比較分析した第9章(Vivien A. Schmidt)。
国以外のトピックに着目したものは、結局「いろいろあったけど、でもやっぱり本質的にはそれまでと変わっていない」という結論になるので、読んでいてダイナミズムを感じられず、あまり面白さを感じませんでした。(それぞれの章を書いた人が悪いというわけではなく、ただそのトピックの性格によるもの。)


特に新しい理論が提示されているわけではないけど、世界金融危機が様々なものにどういう影響を与えたか、論点を知ったり事実を整理する上では有益な本だったと思います。

(投稿者:Ren)

Mark Blyth, Great Transformations (Cambridge University Press, 2002)

2015年02月11日 | 
政治におけるアイディアを重視する文献でほぼ必ず引用・参照されているMark Blyth, Great Transformations: Economic Ideas and Institutional Change in the Twentieth Century (Cambridge University Press, 2002)をやっと読むことができました。



「Great Transformations」というタイトルは、もちろんKarl Polanyiを意識したものです。
ただし、本書全体がポランニーさんの学説について書かれているわけではありません。
ポランニーさんの『大転換』は本書のモチーフとして使われているだけです。

著者は冒頭においてポランニーさんの「double movement」という概念を紹介した上で、それは次のような欠陥があると指摘します。
すなわち、ポランニーさんは「double movement」を一方通行のプロセスとして描いてしまっているけれど、実は市場の埋め込みと脱埋め込みは現在もまだ続いている(p.4)。
20世紀には2つの大きな転換(1920~30年代及び1970~80年代)が起きており、本書において著者はその両者を整合的に説明しようと試みています。
(なので、「Great Transformation」(『大転換』の原題は、The Great Transformation)ではなく、「Great Transformations」という複数形のタイトルが付けられています。)

2つの大転換を説明するために著者が注目するのが、「アイディア」の役割です。
人々の利益(interest)ももちろん大事なのだけど、何がその人の利益であるかは実はそんなに明らかではない(p.27ff)。
本書が注目する大転換が起こったときのように「ナイトの不確実性」(Knightian uncertainty)が社会経済を覆っているときにおいてはなおさら、どうすることが利益になるのかがよく分からなくなる。
その人の利益は何らかのものによって定義されなくてはいけなくて、ここにおいてアイディアが重要になってきます。
アイディアはナイトの不確実性の状況下において、現状がなぜそうなっているかを診断し、その診断によってどんなアウトカムが可能か、どのアウトカムが望ましいのかを定義します。
アイディアをこのようにとらえることによって、合理的選択論者のようにアイディアを残余(auxiliary)の説明変数として扱うのではなく、もっと積極的な役割を果たすものと位置付けることが可能になる。

本書における仮説は次の5つです(pp.34-42)。

仮説1:経済危機の時代において、アイディアがその危機の原因と処方箋を提供することにより不確実性を減少させる。
仮説2:不確実性が減少した後、アイディアは様々な主体の共通の枠組みとなることで集合行為や連合形成を可能にする。
仮説3:既存の制度を脱正統化する際において、アイディアが武器として使われる。
仮説4:アイディアは既存の制度に取って代われるべき新しい制度の青写真となる。
仮説5:制度構築の後、アイディアは制度の安定性をもたらす。


ちなみに、本書の表紙の絵は上記の2つ目の仮説を表現したものと言えます。
描かれているのは、裕福で恰幅の良い資本家と貧しい労働者。
彼らの利益は普通に考えると異なっているはずなのに、なぜか2人は腕を組んで歩いている。
このような連合を可能にするものこそがアイディアだという意味が、この絵に含意されています。

これら仮説の実証はアメリカ合衆国とスウェーデンのそれぞれの大転換を詳細に描くことによって行われています。
このケースの選択は、most different case strategyであるということ及び、これがcrucial case study(最もその状況が起こりやすそうなケースと最も起こりにくそうなケースをペアにすることによって説明能力を高め得る)であるということによって正当化されています(p.11ff)。
それぞれのケースについて著者は丁寧にそのプロセスを叙述してくれているのですが、いろんな場所で「あるアイディアに基づく政策が失敗したという事実だけではその思考の型を覆すのに十分でない」ことが強調され、「旧来のアイディアに取って代わるアイディア」の存在と「そのアイディアを支持する連合を形成する動き」の重要性が主張されていることが特に印象的でした。


おそらく本書の最も重要な貢献は、アイディアが大きな役割を果たすのが「いつ」(When)で、それはどういう理由によるかを示したことなんだと思います。
ある状況がナイトの不確実性の状況かどうかというのは後付けじゃないのかとか、そもそも「平時」は存在するのか(政治を見ていると、常に何らかの大きな課題がある気がする。)とか疑問もあるけど、アイディアが活躍する条件を著者は我々読者に見事に示している。
でも、「なぜあのアイディアではなくてこのアイディアだったのか」はやっぱり十分に明らかではないように思われる。

もちろん、あらかじめ、どのアイディアが勝利するかを予想することは不可能だとは思うけれど、今後の研究は「どういう」(What)アイディアがどういう条件で影響力を持ちやすいのかという方向で行われていくのかなあと漠然と思いました。
そういう意味で、それぞれの国の政治制度とアイディアの関係(coordinative discourseとcommunicative discourse)を分析したVivien Schmidtさんの研究(2002)などと組み合わされる必要があるし、また、政策変化には課題の認識とその課題を解決できそうな政策アイディア、その政策アイディアを推進できる都合の良い政治的状況の3つがすべて揃っていないといけないと主張するJohn W. Kingdonの研究(Agendas, Alternatives, and Public Policies)等の再度の読み直しも実り多いかもしれません。

(投稿者:Ren)

Judith Goldstein and Robert O. Keohane, ed., Ideas and Foreign Policy (Cornell University Press)

2014年11月23日 | 
とても有名な本で日本語でも何人もの人が紹介していそうな気がするのですが、せっかく最近読み終わったので、Judith Goldstein and Robert O. Keohane, ed., Ideas and Foreign Policy: Beliefs, Institutions, and Political Change (Cornell University Press, 1993)を今日は取り上げようかと思います。



本書(の特に第1章)は、政治におけるアイディアの役割を重視する文献において必ずと言っていいほど引用される基本文献の一つです。
10章をすべて紹介すると長くなってしまうので、特に心に残った3つの章だけ取り上げます。

まず一つ目は、もちろん第1章「Ideas and Foreign Policy: An Analytical Framework」(Judith Goldstein and Robert O. Keohane)
編者二人による第1章は、この本全体の問題意識と分析のフレームワークを提示します。

著者らはまず、本書は人々の利益(interest)よりもアイディアが世界を動かすと主張するのではなく、「アイディアも利益も」("ideas as well as interests")人間の行動を一定程度説明することができると主張するものだ(pp.3-4)とします。
著者らがそれを示すために採用する戦略が、以下の帰無仮説を各章において棄却することです(p.6)。

H0:政策が国ごとに違っていたり、同じ国でもその時間によって違っていたりすることは、アイディア以外の要素によって説明することが可能である。

こうした上で、GoldsteinさんとKeohaneさんは、アイディアを3つのタイプに分けます。
著者らによるアイディアの3つのタイプとは、
world views:どんな行動がそもそも可能かに関わる信念。文化の中に埋め込まれていて、思考や言説の型に影響を及ぼす(p.8)
principled beliefs:正しい/間違っている、正義/不正を区別する規範的な信念。world viewsと特定の政策を媒介(p.9)
causal beliefs:原因と結果の関係についての信念。個人が目的を達成するためのガイドとなる(p.10)

本書は概ねこの第1章の枠組みを意識して書かれている(第二次世界大戦後の脱植民地化の規範の生成を説明したRobert H. Jacksonさんによる第5章は特にこれに忠実なように感じました。)し、一番理論的にまとまった議論をしているのはこの章だから、本書からこの章ばかりが引用されるのもよく分かります。
でも、個人的には、第1章の最後のこの文章に心を打たれました。

"As scholars, we devote our lives to the creation, refinement, and application of ideas. If we really thought ideas were irrelevant, our lives as social scientists would be meaningless. Our exploration of the impact of ideas on foreign policy is also a search for personal meaning and relevance in our own life." (p.30)


僕もそう願って、勉強しています。


さて、心に残った二つ目は、第3章「Creating Yesterday's New World Order: Keynesian "New Thinking" and the Anglo-American Postwar Settlement」(G. John Ikenberry)
この章のポイントは、アイディアが機能するための"enabling circumstances"(p.85)の重要性を指摘したことだと思います。

戦後の(ブレトンウッズ合意につながる)秩序形成におけるアメリカとイギリスの交渉過程が本章のケーススタディーの対象です。
ケインズを代表とするイギリスは、貿易の自由化を求めるアメリカと、経済に一定の国家の関与が認められるような秩序(「埋め込まれた自由主義」)を合意しようとします。
貿易の自由化をめぐる交渉で双方が譲らずに行き詰ったことから、イギリスは議論を金融システムにシフトさせる。
このことによってケインズの主張に共鳴するアメリカ側のアクターと協調することが可能になって、経済システムの合意が導かれた。

本章によれば、これが実現したのは、以下の理由によります。
・英国と米国のエコノミスト及び政策の専門家に、望ましい国際的な金融秩序についての見方が共有されていたこと(p.80)
・新しい金融秩序がどうなっていくか不明瞭だった中で、新しいアイディアを持っていた専門家たちが、新しい"winning coalition"を形成することに成功したこと(p.83)

新しいアイディアの存在だけでは足りなくて、それが影響力を持つ様々な環境が整って初めて、アイディアは重要になるということをとても説得的に示していて、僕はこの章が読んでいて一番わくわくしました。
著者が以下のように言うのは極めて適切だと思います。
すなわち、
・たとえば、T.H. Greenのsocial resonsibilityに関する講義やWilliam Beveridgeの著作が福祉国家をもたらしたわけではない。
・良いアイディアがいつも良い聴衆を得られるわけでもないし、それに悪いアイディアも世の中にはたくさん出回っている。
・そのアイディアがエリートたちに新しい政治連合を作る機会を付与するとき、アイディアは政策に影響を与えることができる。(p.84)

興奮して余白に書き込みを思わずびっしりしてしまった本章ですが、、いまgoogle scholarで調べてみたら、この章は第1章と比べるとそんなに引用されていないようです。
もっと注目されても良さそうな論文だと思うのですが、、、なぜだろう??


最後に取り上げるのは、第9章「Westphalia and All That」(Stephen D. Krasner)
この章は、ウェストファリア条約は「主権国家」という制度を作った、画期的な出来事だったと言われるけど、実はそうではない、ということを主張したもので、確か何年か前に「ウェストファリア神話」みたいなことが言われていた(ような気がする)ことを思い出すとあまり新規な主張ではないのですが、でも、本書が1993年に出ていることを考えると当時は新しかったのかもしれません。

本章の主張を乱暴にまとめると、
・ウェストファリア以前から自律的な政治主体は存在していた(北イタリアの都市国家等)
・ウェストファリア後も神聖ローマ帝国は残っていた(ナポレオンに廃止されるまで様々なアクターに利用されながら制度としてちゃんと存続。)
・のちの時代を見ても、19世紀~第一次世界大戦の頃に欧州は盛んに東欧・中欧・小アジア・南アメリカの国々に内政干渉していた(主権の侵害)し、経済的権限のみのEEZもあるし、南極はいくつもの国でシェアされているし、極め付けに、ECもある。
・ウェストファリアは現在の主権国家体制の起源だ!と言えるほど画期的な条約ではない。

実は、この章は読んでいる分にはとても面白かったものの、本書全体の文脈にあまりフィットしない感じがしました。
ではなぜわざわざ取り上げたかというと、次の著者の主張が特に興味深く思えたからです。

著者によれば、ヨーロッパにはその政体や政策を正当化するための思想的道具がたくさん揃っていた。
それは、多様な政体がそれぞれをライバルとしながら存在していて、それぞれが思想家たちに身体の保護と物質的援助を与えていたことによって可能になっていた。
他方で、たとえば中国のような強力な帝国だと、新しいアイディアを考える人たちはその帝国の圧力によって圧殺されてしまう。
ヨーロッパはこうした意味で、多様な政治的アイディアが生成するのに理想的な場所だった。

このストーリーが妥当かどうかは分かりませんが、さらに著者は続けます。
多様なアイディアがあることによって、政治リーダーがその中から最も自分たちを正統化するものを選べるし、そのレパートリーの広さのおかげで、劇的な変化が起こっても人々は思想的についていくことができた(その変化やその意味を説明できる思想があった、ということか?)。(pp.261-263)

アステカ文明がスペイン人に遭遇したときのショックの大きさ(彼らはその出来事を説明する概念を持っていなかった)に言及したあと、著者はこう言います。

"Where the number of ideas is limited, sudden external shocks can be devastating. In Europe the rich mix of available ideas facilitated the construction of new legitimating rationales for political entities, soverign territorial states, whose material situation had been advantaged by economic and military changes." (p.264)


ちょっと壮大すぎて本当かな?と思わないわけにはいかないものの、でも、人文社会科学を勉強している僕にとっては、とてもencouragingな主張だなと思いました。

(投稿者:Ren)

Ben Clift, Comparative Political Economy: States, Markets and Global Capitalism (Palgrave Macmillan)

2014年11月17日 | 
今日は、Ben Clift, Comparative Political Economy: States, Markets and Global Capitalism (Palgrave Macmillan, 2014)を紹介したいと思います。



タイトルからすぐ分かるように、これは比較政治経済学の教科書です。
裏表紙にAndrew Gamble、Colin Hay、Ben Rosamond、John L. Campbell、Vivien A. Schmidtという、Renからしたら超スーパースターの方々による賛辞が載っているのを見て、思わず買って読んでしまいました。

本書は、政治・経済・社会を一体のものとしてとらえたアダム・スミスやカール・マルクス、フリードリッヒ・リストといった人たちの精神に立ち返ることの重要性を説いた上で、国家と市場の関係を分析するための次の4つの基本的な視角を提示します(pp.31-37)。

(1)国家と市場は相互に作用しあっている(特に、カール・ポランニーの議論を参照。両者を別々のものととらえるのは誤り)。
(2)市場の形成及びその機能のために、国家の介入は不可避。
(3)市場の機能は社会的・歴史的・政治的コンテクストから離れて行われるものではない。
(4)資本主義のあり方は変化しうるし、実際、変化してきた。

これらは本書を読み進めていく中で何度もリマインドされ、それによって市場や資本主義のあり方を規定する上での政治や制度の重要性が強調され、あるいは、グローバル化による収斂論(資本主義の型であれ福祉国家のレジームであれ)が批判されています。

僕が本書に感銘を受けたのは以下の点です。

比較政治経済学の諸アプローチが詳細に論じられていること。歴史的制度論(5章)と合理的選択制度論(6章)からのアプローチだけじゃなくて、アイディアを強調するアプローチ(7章)まで、たくさんの先行研究を鮮やかに整理して紹介してくれています。

文献が大量に引用されていること。何も文献が引用されていないパラグラフはほとんど存在しない。アカデミズムの作法としてとても誠実だという印象を受けました。ちょっと読むだけで興味深い議論が引用文献とともに紹介されていて、そのたびに末尾の引用文献表からその文献を探していたこともおそらくあって、この本を読み終わるのが予想よりだいぶ遅くなってしまいました。特にこれは読んでみたい!というものをその際にチェックしていたのですが、かなり厳選したはずなのにそういう文献が大量にチェックされていて困っています。著者は先行文献の魅力を読者にとても上手に伝えてくれていると思います。見習いたいものです。

日本の事例が頻繁に紹介されていること。Chalmers Johnsonの開発志向国家(Developmental State)論の紹介だったり、グローバル化を受けて日本の資本や産業の構造がどう変化しているか(「資本主義の多様性論」の関係)の検討だったり。僕は別にナショナリストではないのですが、東アジア研究とか日本研究とかの専門書ではない一般的な比較政治経済学の教科書に日本の事例を入れてくれたことが、なんだか嬉しかったです。こういうところで日本が面白い研究対象として取り上げられるように、政府には日本の世界政治におけるプレゼンスを低下させないように頑張ってほしいし、研究者には日本を対象にした面白い研究を世界の学者がアクセスできるような形でどんどん発表していってほしいです(自分のことは棚上げ。)。

比較政治の方法論についてのまとまった議論が展開されている(12章)こと。本書は、定性的研究と定量的研究にはそれぞれの目的や特徴があってそれぞれに短所があるということを認識し、それらを補うように両者を組み合わせていくべき(methodoloical pluralism)と主張します。その背景にあるのが、定量的研究の方が優れているとする(著者によれば、LijphartもKKVもそういう立場であるとのこと(pp.295-296))、アメリカで主流の政治科学(Political Science)への批判的立場です。イギリスではアメリカとは違って1960年代の行動論革命(behavioural revolution)によって「行動論主義者による科学至上主義」が"never took hold within British political science"だ(p.294)と書いてあったのは本当かなと思うのですが(というのも、去年Renがいたウサギ大学は、まさに「行動論主義者による科学至上主義」の中心地だったと思うので…。)、イギリスでは「political science」よりも「political studies」のほうが用語として多くの場合好まれている、という指摘はとても興味深かったです。僕はまさに「political science」の世界で昨年度を過ごして(そこでshockとaweを受けて)、今年度から「political studies」の世界にやってきたことになるのですが、両者がどう違うのか意識しながら学んでいきたいと思います。


この分野の魅力がいきいきと伝わってくるとともに、理論の枠組みや先行研究の紹介等、大変勉強になる教科書でした。
特に実証分野の政治学では修士課程にちょうどいい教科書がなかなかない中で、これはとても貴重な本なんじゃないか!?と思って、この本を使っている授業を探してみたところ、、、なんと学部2年生向けの「国際政治経済入門」という授業の、いくつか指定されている教科書のうちの一つでした。
学部生のための教科書で「大変勉強にな」ってしまったことがショックです。。

(投稿者:Ren)

Mark Blyth, Austerity: The History of a Dangerous Idea (Oxford University Press, 2013)

2014年10月15日 | 
最近本の紹介をしていませんでしたが、久しぶりにあまり日本語で紹介されていなさそうに思われる、Mark Blyth, Austerity: The History of a Dangerous Idea (Oxford University Press, 2013)を取り上げようかと思います。



本書における著者の主張は「緊縮政策は行うべきではない」という一言にまとめることができるかと思います。
著者は最近のサブプライム危機及び欧州危機の原因と現状を確認(第2章及び第3章)し、現在の状況において緊縮政策は有効でなく、むしろ状況を悪化させるのだから行うべきでないと主張します。(経済学の知見が僕にはあまりにも乏しいので断定することはできないけれど、著者はケインズ経済学の立場に立っていると思われます。)

行うべきでない理由は下記2点。
(1)緊縮政策の有効性は理論的に否定されている(特に4章及び5章)
(2)緊縮政策の有効性は歴史的に否定されている(特に6章)

本書の「売り」はもちろんこの4章~6章にあります。
著者は緊縮政策の思想的淵源をAdam SmithやDavid Humeまで遡って語っていきますが、僕が最も興味深く読んだのは、Alberto Alesinaの登場と彼の「栄枯盛衰」を描いた箇所(pp.167-177、pp.205-216)です。
Alesinaや彼と一緒に緊縮財政が経済成長にむしろ寄与することを主張した論者たち(Francesco Silvia Ardagna、Guido Tabellini、Roberto Perotti、・・・)がみんなMilanoにあるBocconi大学の卒業生だったというトリビア(知られざる人間関係(?))はもちろん、一時期飛ぶ鳥を落とす勢いだった(と僕はいろいろな論文を読んで思っていた)Alesinaたち(というか、Bocconi学派の人たち)の研究が最近はその計量分析手法の疑義等から批判されているということは、経済を勉強されている方にとっては旧知に属することかもしれないけど、僕は本書で初めて知りました。
著者の「IMFが緊縮財政が・・・危険思想であることを思い出したときAlesinaの時間は終了した」という評価(p.215)が妥当かどうかは分かりませんが(今度、経済を勉強している友人に聞いてみよう。)、現在の世界経済を見通す上でこのAlesinaらの栄枯盛衰の物語は知っておいたほうがよさそうな気がします。

著者の専門は国際政治経済学。
経済学を専門とする人ではないのに、サブプライム危機や欧州危機の原因を分かりやすく丁寧に説明し、緊縮財政と経済成長をめぐる最近の経済学の学説まで鮮やかに整理する著者の力量に敬服しました。

Oxford University Pressから出ている本ですが、筆致はそこまで固くなく(academic writingのルールに厳格には沿っていない)、学術書と新書の中間くらいな印象です。
いままでよく分かっていなかったことが整理されたり、新しいことを知ることができたりと、知的にわくわくしながら楽しんで通読できました。
経済学を勉強している方にも、僕のような経済状況を理解していたいと思う素人にもおすすめできる良書だと思います。

(投稿者:Ren)

Vivien A. Schmidt, The Futures of European Capitalism (Oxford University Press, 2002)

2014年08月02日 | 
読んだのは少し前だけど、やっぱり重要な本だったので、内容を思い出すためにVivien A. Schmidt, The Futures of European Capitalism (Oxford University Press, 2002)を紹介したいと思います。



本書は、グローバル化及びヨーロッパ統合によって収斂するだろうと言われていた各国の経済体制が未だにそれぞれの特徴を保持していることを確認し、その理由を考察するとともに今後の展望を論じるものです。

著者によれば、グローバル化及びヨーロッパ統合にどの程度影響を受けるかは
(1)経済の脆弱性(経済危機の有無、競争力)、
(2)政治制度の態様(政府がどの程度政策変更を主導できるか)、
(3)これまでの政策(その政策変更がこれまでの政策実践にどの程度フィットするか)、
(4)政策選好(これまでの選好にどの程度フィットするか、新しい政策に対する開放性)、
(5)言説(経済の脆弱性やこれまでの政策についての認知に影響を与えることによってアクターの政策選好を変容させる能力)、
に依存します(pp.62-67)。
これらが各国によって様々であることにより、欧州においては3つ(2つではなく)の資本主義のモデルが並立していると主張されます。

3つのモデルとは、
①市場中心の資本主義(Market Capitalism):イギリス、アメリカなど
②管理された資本主義(Managede Capitalism):ドイツ、オランダ、スウェーデンなど
③国家主導型資本主義(State Capitalism):フランス、イタリアなど
です(p.113)。

グローバル化及びヨーロッパ統合によって、それぞれのモデルはより自由主義化しているけれど、まだそれぞれの特徴を保っていると著者は主張します(p.142, p.144)。

本書においては主にイギリス、ドイツ、フランスの3か国がケーススタディの対象とされ、上記の5つの関わりとともに論じられているものの、最も強調されているのが言説の重要性です。
そして、アイディアの政治学の文献において本書が必ずと言っていいほど引用されることにも示されているとおり、本書の最も重要な貢献もここにあると思われます。

僕の見るところ、本書における特に重要なところは以下の二点。
(Ⅰ)その国の政治制度によって言説がどう作用するかが異なることの理論化
著者は、言説の態様はcommunicative discourse(主に選挙民にアピールするもの)とcoordinative discourse(エリート間で交わされるもの)に区分できるとした上で、権力が執政部(政権中枢)に集中している国では公衆へのcommunicative discourseが、権力が様々なアクターに分散している国ではアクター間のcoordinative discourseがより重視されるとします(p.211)。

(Ⅱ)言説の内容をcognitive function(人々の認知に働きかけるもの)とnormative function(人々の規範に働きかけるもの)に区分し、後者の重要性を示したこと
前者(cognitive function)においては、その政策が他の政策に比べて優れていることを示すことによってその政策を正当化するのに対して、後者(normative function)においてはその国に根付いている価値観に沿っていることを示すことによってその政策の正統性を主張するとされます(p.213)。
著者は前者を「justifies through logic of necessity」、後者を「legitimizes through logic of appropriateness」とまとめています(p.218)。
そして、前者のみが存在したケースでは政策変更はうまくいかなかったものの、前者に加えて後者があったケースではうまく政策が変更されたと主張します。

本書の枠組みを取り入れている木寺元さんの本に熱狂した僕ですから、もちろんSchmidtさんのこの理論化にも感動するのですが、やっぱりまだ明晰に理解できないのは(Ⅱ)の区分。
necessityとappropriateness、あるいはjustifyとlegitimizeの区別は、観念としては分かるけど、現実の政治/政策の世界においてどれだけ分けられるのか。
appropriatenessはその国の価値観に照らして測られるとされるというけど、「その国の価値観」はどうやって知るのか(後付けにならないか)。
ものすごく可能性のある議論だと思っている(というか、僕はこれをもっと研究していきたい)ので、ちゃんと理解したいところです。


本書はアイディアの役割を重視する潮流の文献のイメージが強かったのですが、
・アイディアの政治
・資本主義の多様性
・ヨーロッパ統合の各国への影響
のいずれに興味がある読者にとっても得るところが大きいと思います。

(投稿者:Ren)

Barbara Vis, Politics of Risk-taking (Amsterdam University Press, 2010)

2014年07月09日 | 
このところ本の紹介ばかりになっていてこのブログの趣旨に沿わないような気もしないでもないのですが、今日も本の紹介をしたいと思います。
今日取り上げるのは、Barbara Vis, Politics of Risk-taking: Welfare State Reform in Advanced Democracies (Amsterdam University Press, 2010)です。



本書は、福祉国家改革の政治を「Politics of Risk-taking」ととらえ、それがいつ、どのような条件で行われるかを解明しようとする研究です。
福祉国家改革、特に福祉給付の削減を含むような政策は選挙民に人気が悪く、そういう政策を行った政権は選挙で選挙民に処罰されるリスクがあります。
でも、そうであるにもかかわらず、そのような不人気な政策はいくつもの国で行われている。
しかも、同じ国であっても、不人気な政策を行う政権もあればそれを行わない政権もある。

それを説明するための理論として著者が着目するのがProspect Theoryです。
Prospect Theoryは、KahnemanさんとTverskyさんによって1970年代の終わり頃に実験により構築された心理学理論で、その中心的な主張は「人間は何かを失う局面においてはリスク回避的に行動し、何かを得る局面においてはリスク受容的に行動する」というもの。
福祉国家の改革をリスクの受容(Risk-taking)ととらえ、著者はそれは政府及び選挙民が何かを失っている(事態が悪化している)と認識しているときのみにおいて行われると主張します。

具体的な本書の仮説は以下です。
福祉国家を改革する不人気な政策は、社会経済的状況が悪化している状況下においてのみなされる。ただし、上記条件は(1)政権の安定度が悪化している、または(2)右派政権である、のいずれかと組み合わさることが必要である。

ポイントは、社会経済的状況が「悪い」ではなく「悪化している」というところ。
たとえば、失業率が二桁もあったりするような経済状況はとても悪いんだけど、状況が改善しつつある中での二桁たったりすると、人は「事態が悪化している」とは認識しない。
また、いずれかが組み合わさる必要がある(1)はその政権が選挙民に不人気な政策を行うというリスクを取ろうと思うかどうかに関係し、(2)は右派政権はもともと福祉改革を行いたいというイデオロギーを持っているということに関係しています。

この仮説を著者はfuzzy-set analysisなる(僕が)初めて聞く手法を用いて確かめていきます。
Prospect Theoryに基づく理論と並んで、Fuzzy-set analysisによる実証をしているところがおそらく本書の新しいところ。
僕はこの手法を本書で初めて聞いたので詳しくはよく分からないのだけど、生のデータをそのまま使うのではなくて、データを研究者が評価してそれに0.00~1.00のdiscreteな値(たとえば、ある数字X以下だったら値0.00、ある数字Xからある数字Y(X<Y)までは値0.17、…)を付与した上で、その値を使って統計分析するような手法のようです。
これによって、定量的分析と定性的分析の両方の利点を活かすことができる、と著者は主張しています。
(値を付与する作業が恣意的になっちゃうんじゃないかという批判はあり得るところだと思いますが、もちろん著者はその値を付与した根拠を様々提示しています。)

著者がここで分析の対象としているのはイギリス、オランダ、ドイツ、デンマークの4か国(25内閣)のみで、他の国でこの理論が成り立つかどうかは分かりません。
ただ、野田政権においての消費税増税法案の成立(2012年。これは「不人気な政策」だったと思う。)をこれに当てはめてみると、確かに経済的状況は悪化していたような気がするし、政権も不安定だった。
でも、よく考えてみたら、その前の菅政権も経済的状況は悪化していたし政権も不安定だったのに、「不人気な政策」は実現できていないような気がする。(菅政権から消費増税に動き出したと評価することはできるかもしれない。でも、やっぱり野田政権がなぜできて、菅政権はなぜできなかったのかという問いは解消しないと思う。)
他の国で仮説が成立するかどうかは今後の課題と著者はしていますが、今後の研究が待たれるところです。


理論、実証分析ともに僕にとってはとても斬新で、読んでいてとてもわくわくする本でした。
カードゲームをしている人たちを描いた表紙のデザインも秀逸だと思います。(本棚に本を飾るのが好きなRen的には背表紙もきれいだったのが嬉しい。)
本書は著者がアムステルダム大学に提出した博士論文が元になっているとのこと。
僕もこういうイノベーティブな研究ができればいいのに、と思いながら、、、まずは修士論文に頑張って取り組もう。

(投稿者:Ren)

John Guy, The Tudors: A Very Short Introduction, Second Edition (Oxford University Press, 2013)

2014年06月24日 | 
修士論文の提出期限までまだ時間があるので、論文で使わないとは思うけど面白そうな本を少しづつ読んでいます。
でも、そういう本ほど意外なところで発見があったりするのが不思議なところです。これも読書が好きな理由の一つ。

最近読んでいたのは、John Guy, The Tudors: A Very Short Introduction, Second Edition (Oxford University Press, 2013)です。



The Tudorsと聞いてもいまいちピンと来ない僕のような人のために簡単に説明すると、時代的にはヘンリー7世がリチャード3世との戦いに勝利して国王に即位した1485年から、エリザベス1世が子供を産まないまま亡くなってしまってスコットランド王だったジェームズ6世がジェームズ1世として即位する1603年までということになっているようです。
この中に英国国教会の設立やトマス・モアの処刑、「ブラッディ・メアリー」の治世、アルマダの海戦におけるスペイン艦隊の撃破などが含まれています。
そして、この次の王朝が市民革命の時代のスチュアート朝ということになります。

本書はチューダー朝の始まりから終わりまで、一人ひとりの君主とその側近たちの権力をめぐる闘争を軸に描いたものです。
誰がどのように権力を握ったかが中心なので、この時代の文化の特徴や政治制度の生成と変化、当時の国際関係などは、あまり詳しく書かれていません。
イングランドを中心とした英国の国内政治史といった感じでしょうか。

本書を読んでいると、この時代は宗教が大きな影響を与えていたことが改めて分かります。
ちょうどこの時期はルターやカルヴァンが登場した頃で、キリスト教社会全体が大きく揺れていました。
イギリスにおいても国王がカトリック派かプロテスタント派(この中にもいろんな立場があったわけですが)かはものすごく重要だったようで、国王の宗教と違う宗教を信じている人たちが厳しく弾圧されたり、時には捕らえられて処刑されたりといったこともあったようでした。

こうした人的被害だけでなくて、相次ぐ戦争のための費用調達のために、あるいは宗教上の理由(反対派を弾圧するため)から教会財産が没収されたり、破壊されたりといったこともあったようで、この時代に失われた文化財も相当あったのではないかなと思ったりしました。
ただし、この時代を経て聖職者たちが没落し、政治的な力を失った(代わりに聖職者じゃない人たちが政治の実権を握ることになった)ことはイギリスのその後のユニークな(?)発展に寄与したんじゃないかと妄想してみたりもして。


ほとんど知らなかったイギリスの歴史をほんのちょっと知れて楽しい読書でした。
ただ、この本の中に頻繁にParliament(議会)が登場したのだけれど、これがどういうものなのかいまいちイメージがつかめませんでした。
ここにはどういう人たちがいて、どういうふうに集められて、どういう権能があったのか。
こういう政治制度についての説明がもう少しあったりすると、政治学を勉強している身としてはもっともっと嬉しかったです。

イギリスを歩いているといろんな街で「昔」の遺跡や建築物を発見できますが、その説明を聞いたり読んだりしてもよく分からない。
歴史を勉強するとこういうものがちょっとは分かるようになるのかなとも思うので、これからも少しづつ勉強していきたいと思います。

(投稿者:Ren)


Junko Kato, Regressive Taxation and the Welfare State (Cambridge University Press, 2003)

2014年06月21日 | 
ずっと気にはなっていたけれどなかなか読む機会がなくてここまで来てしまいましたが、ようやくJunko Kato, Regressive Taxation and the Welfare State: Path Dependence and Policy Diffusion (Cambridge University Press, 2003)を読むことができました。



本書は福祉国家研究の中でもあまり研究されてこなかった、社会保障政策を行う際に必要となる財源に注目した研究です。
著者は、1980年代の福祉縮減の時代を経験しても、各国の福祉国家のタイプ(たとえばEsping-Andersen(1990)で提示されているような)には収斂が認められないことを確認し、そこに経路依存(path dependence)の存在を推測します。
各国の経路が異なることが、福祉国家のタイプに収斂が見られない理由ではないか。

著者の仮説によると、この経路を分岐させたものが逆進的な税の導入時期です。
逆進税として具体的に取り上げられるのが付加価値税(Value Added Tax。日本では「消費税」として制度化されています)です。

なぜ逆進税が重要なのか。
それは逆進税が、所得税などの累進税と比べて政府の歳入の安定的な確保にとても優れているからだとされます。

一方で所得が高い人からも低い人からも平等な税率で取る付加価値税は、所得の低い人のほうが高い人よりも所得に占める負担の割合が高くなる(だから「逆進」税なのですが)といってよく反対されるけれど、安定的な財源があればそこから社会保障給付を十分に支出することができ、税制の外で逆進性を手当てすることが可能になる。
そのため、歳入に占める付加価値税の割合が高い国のほうが手厚い社会保障給付を行いやすくなるのではないか。

そんなに優れた税なのであれば、どの国も高い付加価値税&福祉を実現できているはずなのではないか。(でもそうはなっていない。)
著者は、付加価値税を「早い時期」に導入できたかどうかが分かれ道だったと主張します。
時期の「早い」「遅い」を決めるのが、低成長時代を迎えて財政がひっ迫してきた時期の前か後かというものです。

著者によれば、早い時期に導入することができた国においては、まだ財政赤字もなく、付加価値税が歳入を増加させる能力が高い税であることを知っている人は少なかった。
そのため、公衆は反対する理由も特になく(だいたいその分所得税とかを引き下げたし)、その安定的な財政を使って再分配政策を行ってきた(縮減の時代を迎えても削減しなかった)ので公衆はそれを支持し、また税率の引き上げに対しても比較的寛容になった。

他方で導入時期が遅かった国においてはすでに財政がひっ迫していたこともあって、公衆は「どうせ増税しても財政赤字に使われるだけでは?」と疑った。
そういう状況で高い税率を課すことはできず、結果、歳入安定化にはつながらなかった。
そうすると、財政が足りないので80年代には社会保障支出をカットせざるを得なかった。

このような仮説を著者は定量的及び定性的に検証していきます。
定性的分析の対象となっているのは、スウェーデン、イギリス、フランス(第2章)、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド(第3章)、日本、韓国(第4章)の9か国。
これら9か国の付加価値税導入の経緯やその後の福祉国家政策の変遷が分かりやすくまとまっていて、そのほとんどを知らなかった僕のような人にとっては大変興味深く読めると思います。

僕が最も感銘を受けたのは、本書で提示されているオリジナルな仮説です。
「この理論をこの事例に適用してみたらうまく説明できた/違う側面が見える」という研究以上の新しさがあって(もちろんそういう研究も十分価値があると思うのだけど)、こういう研究ができるようになりたいと思いました。

「はしがき」によれば、著者は、日本は他の先進諸国と比べると税負担が低いにもかかわらず消費税を導入するときに激烈な反対があったことに驚いたことに研究の着想を得たそうです。

"I was amused by this discrepancy between the politicization of tax issues in Japan and the Japanese tax revenue structure compared with other countries. There seemed to be a completely different criterion from one country to another about "high" and "low" tax levels that was very likely related to how much revenue a country would raise from what kind of taxation. Politics matters in the public's tolerance for and its expectation of taxation" (ix).

上に引用した最後の政治の重要性を指摘する一文はとても大切なんじゃないかと思います。


ただ、本書を読んでいると、日本のこの歴史的経路からすると財源確保も難しい中で、もう福祉を削減していくしかないように思われてしまう。
それは果たして多くの人たちが望んでいることなのだろうか。(僕は福祉が充実した国に住んでいたい。税負担がもっと重くなってしまっても。)

経路依存はそうだとして、そこから抜け出すためにはどうしたらいいのか。
政治への信頼でしょうか。でも、どうしたら政治が信頼できるようになるのだろう。

(2014年6月21日午前1:57に若干修正)
(投稿者:Ren)