SakuraとRenのイギリスライフ

美味しいものとお散歩が大好きな二人ののんびりな日常 in イギリス

Andreas Gofas and Colin Hay, eds., The Role of Ideas in Political Analysis (Routledge, 2010)

2014年06月16日 | 
Andreas Gofas and Colin Hay, eds., The Role of Ideas in Political Analysis: A Portrait of Contemporary Debates (Routledge, 2010)を読みました。



本書は近年の「アイディアの政治」アプローチを振り返り、それが存在論の次元では物質的利益重視vsアイディア重視、認識論の次元では因果関係による理解vs構造主義による理解、そして方法論の次元では定性的研究vs定量的研究という二元論がはびこっていることを問題視(pp.3-5)し、これを乗り越えようと試みるものです。
それぞれの章の著者たち(Mark BlythさんとVivien Schmidtさんによる本書へのコメントを除く)はこのフレームワークを前提として論述しています。

僕はこの本を読むことによって「アイディアの政治」アプローチをより広い視野で捉え直すことができるのではないかと期待していたのですが、結論から言えばその期待は大いに裏切られました。
まず、本書全体の共通枠組みとなっている「二元論」については、さほど真新しい論点を提示できていないように思われました。
これについてはMark Blythさんの以下の痛烈な批判がよく示しているように思います。

"[I]s there anyone out there among "ideas" scholars who doesn't already know much of what they say in their contribution to this volume and has indeed already said much of it in print?"(p.167)

だから、読んでいても、著者たちが何を主張したいのかがいまいちよく分からない。
特に残念だったのは、スピノザの内在因(immanent causality)をヒューム的な因果関係に代えて重視すべきであることを主張する第3章。
スピノザ好きな僕は本章を読むことをとても楽しみにしていたのですが、著者の言っていることはただ、アイディアはある結果を引き起こす原因となると同時にその結果に意味を付与する(我々はそのもたらされた結果の意味を、アイディアを通して解釈する)というようなことだけのように思われて、これだけのことであるならばなぜわざわざスピノザを持ち出したのか、理由が良く分かりませんでした。(もちろん、僕が著者の意図をちゃんと読み取れていないだけなのかもしれませんが。)

もう一つ残念な点は、いくつかの章において重要な論点が提示されている(危機じゃなくて日常政治に注目する第4章、ある事象をどうフレーミングするかにおいて重要な役割を果たすメディアに注目する第5章、我々が何を知っているかのみならず、何を知らないかを明らかにするものとしてのアイディアを提示する第6章、定性的研究が主流なアイディアの政治において、定量的研究も可能であり、また定性的研究と定量的研究を組み合わせるべきであることを主張する第7章)ものの、第7章以外はその論点が十分に展開されずに終わってしまっていたこと。
むしろこれらの章は「二元論」批判のフレームワークでない文脈で論じたほうが良かったのではないか。

結果として、本書で一番読み応えがあったのは、Mark BlythさんとVivien Schmidtさんによる本書へのコメントでした。
両者とも本書の各章について自分の立場と対照させながら批判していて、とても勉強になりました。(Blythさんの編者たちへの批判はちょっと強すぎるような気がしたけど。)
このコメントがついていることが本書を読む最も大きな意義になっているのではないかと思います。
二人に散々に批判されている編者たちがこのコメントに対してリプライするようなところがあったらさらに良かったかもしれません。


「アイディアの政治」アプローチに詳しい人が読んだらまた違った感想を抱いたのかもしれませんが、いまの僕にとってはあまりわくわくしない本でした。


蛇足ですが、「はしがき」に思わず笑ってしまった箇所があったので、最後に引用だけ。

"Our appreciation goes to our contributors and particularly those who submitted their drafts early and waited patiently for the book to appear."

いつまでたっても原稿を出さない人がいたのでしょうけど、すごい皮肉ですね…。


Wouter van der Brug et al., The Economy and the Vote (Cambridge University Press, 2007)

2014年05月04日 | 
以前、「経済と選挙」についての古典的な研究を取り上げたと思いますが、今日は、その古典的な研究の限界を乗り越えることを試みた本、Wouter van der Brug, Cees va der Eijk, and Mark Franklin, The Economy and the Vote: Economic Conditions and Elections in Fifteen Countries (Cambridge University Press, 2007) を取り上げたいと思います。



「経済と選挙」については、これまで何人もの論者が論じてきた大人気のテーマですが、その結果はお互いに不整合であったり一貫しないことが問題とされてきました。
著者らはその原因を、モデルが適切に組み立てられていないことからくるものだと主張します。

本書のモデルは以下のような2段階モデルになっています。
まず、第一段階目として、有権者は各政党を経済状況の評価を含む様々な基準で評価します。
その上で、評価された選好を比較して有権者が投票先を決めるのが第二段階目です。

ポイントとなっているのは、このモデルにおいて政党が互いに票をめぐって競い合うものだとされていること。
それまでのモデルではこの現実を無視して、経済状況によって与党が罰せられる/報われることのみに着目してきており、著者らによれば、これがこの研究の不整合さや一貫のしなさを生んできたそうです。

政党が互いに競争的環境に置かれていることが重要になるのは、以下のシチュエーションにおいてです。
ある個人1~5の政党支持度が以下のようになっていたとします。
(政党Aの支持度,政党Bの支持度)=個人1(9,4);個人2(8,5);個人3(7,6);個人4(6,7);個人5(5,8)
このとき、個人1~3は政党Aに投票し、個人4及び5は政党Bに投票します。

いま、与党Aのもとで経済が悪化したとします。
単純化のために全員同じだけ政党Aへの評価が減ると仮定すると、
個人1(7,4);個人2(6,5);個人3(5,6);個人4(4,7);個人5(3,8)
となり、個人1、2及び個人4、5の投票先はそれまでと変わらない者の、個人3の投票先は政党Bに変化する。(p.13)

こういう個人の選好を考えるならば、経済の影響によって少ししか政党の評価が変わらなかったとしても投票先に大きなシフトが起こる可能性があるし、逆に大きく政党評価が変わっても投票先が変わらないこともある。
有権者の選好がどういう分布になっているかは国によって違うし、経済による影響はすべての政党が同じように受けるわけでもない(本書においては政党のサイズが特に重要視されています。大きな政党は政策に影響を及ぼせるんだからより責任を課せられやすい)し、有権者の政治的洗練度合(sophistication)によっても変化度合は違う(洗練されている≒詳しい人ほど経済のような短期的要素よりもイデオロギーのような長期的要素を重視するから、投票先が変わりにくい)。

こうしてモデルを提示したうえで、retrospective/prospective、pocketbook/sociotropic、symmetry/asymmetryなどの諸論点について、統計的分析を多用しながら既存の研究と本書のモデルの違いを説明していきます。
計量分析がたくさんでてきて、未だにこれが苦手な僕は参ってしまうのですが、データの使い方や統計的処理の仕方についても詳しく考え方を説明してくれるので、(ちゃんと理解できた、とは言わないものの、)なんとか置いてけぼりにされることなく読み進めることができました。

本書の分析の対象はヨーロッパの15か国の1980年代以降で、たとえば日本はどうなのかはよく分かりません。
実は本書とは別のある論文によれば、日本を対象にした「経済と選挙」の研究はほとんど行われていないそうです。(少し前まで経済がすごくうまくいっていたから、経済が争点になることはほとんどなかったとかいろいろな理由があげられています。Christopher Anderson and Jun Ishii (1997), "An Economic Model of Electoral Outcomes in Japan", British Journal of Political Science, 27(4) 参照。)
残念ながら経済がうまくいかなくなってかなり経つし、政権交代も起こるようになってきたので、日本を対象にこういう新しいアプローチの研究をしたら何が見えてくるのか、気になるところです。

(投稿者:Ren)


Anthony McGann, The Logic of Democracy (The University of Michigan Press, 2006)

2014年05月02日 | 
今日はAnthony McGann, The Logic of Democracy: Reconciling Equality, Delibertation and Minority Protection (The Universty of Michigan Press, 2006)を簡単に取り上げようかと思います。



本書は民主主義が論じられる際の3つの主要な分野である、規範的政治哲学、社会的選択論、政治制度についての実証研究の統合を試みたものです。
一人の著者による本であるにも拘らず、政治哲学の議論の立ち入った分析、社会的選択論の数理的議論、回帰分析による実証がなされている大変な労作であろうと思います。

著者はダールの民主主義とは国民主権(popular soverignty)と政治的平等(political equality)を満たす政府の制度であるという定義からスタートし、結論的には以下のような主張をします。

・政治的平等は多数決ルール(majority rule)と比例代表制(proportional representation)を含意する。
・選挙においては比例代表制が採用されるべきであり、議会における決定は多数決ルールで行うべきである。
・多数決ルールは少数者を最も保護することのできる決定ルールである。
・比例代表制による選挙と多数決による決定手続きに基づく制度が民主主義における熟議(deliberation)を最も促進する。
・政治的平等と政治の安定、効率的な経済、経済的平等がトレードオフの関係にあるという証拠はない。

タイトルである民主主義の「論理」とは、民主主義の上記のような定義から「論理的に」このような結論が導き出せるということ。
サブタイトルの「平等、熟議、少数者保護を調和させる」ものとは、選挙における比例代表制&決定手続きにおける多数決ルールの組み合わせということになります。

上記の5点のうち、直観的にひっかかるのは多数決ルールが少数者保護を最も実現できるという点と、比例代表制が政治の安定や経済パフォーマンスを阻害する証拠はないという点。
前者から見ていくと、著者は多数決ルールと特別多数決ルールとを区別して、多数決ルールだと現状の仕組みを覆すのは比較的容易であるものの、特別多数決を得られるほどの同盟を形成するのは困難であるため現状維持バイアスが生じる、と指摘します。
ここでのポイントは、社会にはたくさんの争点が存在するので、ある争点における少数派も別の争点において妥協でいる別のグループと同盟を組むことで、自分たちにより有利な変革を実現しうるということ。

著者はここで、アローの不可能性定理を逆手に取っています。
多数決ルールを採用しても、選好の循環が起こってしまうというパラドックスは、「現在の秩序は固定的ではない」ということに置き換えられ、そのため、少数者も自分たちが有利になるような制度改正を実現することができるし、現在の多数派は自分たちの勢力の中を外部の少数派に分断されないように、少数派の利益をそんなに決定的に害したりはしないだろう(少数派をいじめてしまうと、いじめられた側はなんとか逆転しようとして、多数派の中で自分たちと同盟を組める人たちを見つけて、彼らはその人たちと権力を握ってしまうかもしれない。)とされます。
一方で、特別多数決だと、形成しなければならない多数派のハードルが高くなるので、実は少数者保護にはつながらない。

しかし、少数者がいつも逆転可能とはなかなか言えないんじゃないかなという思いはなくなりません。
だから簡単に権利が奪われたりしないように改正が難しい憲法に書きこんだりしているのではないか。
やはり、ある社会において、長い間マイノリティとして生きていかないといけない人たちは存在するだろうし、マイノリティという枠組みさえ与えられない人たちもいるだろう(そういう人たちがいるという認識さえされないので、そういう人たちの利益はほぼ無視される。)ことを考えると、少なくとも基本的な人権は多数決で簡単に否定されないようにしておくことに意味があるように思える。
確かにそれは現状の秩序を優遇しているわけだけれども、それは優遇するに値する秩序なのではないか。

次に、直観的にひっかかる後者の点について。
著者は計量政治学の手法を用いて比例代表制を採用している国々とそうでない国々を比較しているのですが、国の規模や発展度合などの変数をちゃんとコントロールできているのか、簡単に言うと、適切に比較できるもの同士を比較しているのかどうか、疑問があります。
おそらく小選挙区制のほうが効率的だったり政治が安定するという証拠もどこまで統計的に有意なのかどうか分からないのだろうけど、もう少し丁寧な分析が必要であるように思いました。


多数説に挑戦する主張がいろいろあるので疑問を抱いてしまう点は少なくありませんが、本書は民主主義に関わる様々な論点についてもう一度考え直すきっかけを与えてくれる良書だと思います。
政治哲学と社会的選択論と実証政治学をクロスオーバーしながら論じるという野心的な試みには、驚嘆を覚えずにはいられません。
ただ、大きな不満を一点だけ言わせていただくとすれば、繰り返しが多すぎること。
同じことをいろんなところで繰り返している(引用の仕方とか文言もほとんど一緒!)ので、重要なポイントを覚えることができるし、すべての章を読まなくても他の章の内容が分かって便利かもしれないという利点はあるにせよ、もっと繰り返しを減らせば、3分の2くらいの長さにできたのではないかと思います。


実はこの本、いま履修している必修科目のテキストとして大学のウェブサイトに挙げられていたものでした。
「この本のほとんどすべてを履修者は読むことになる」と書いてあったので、その文言を日本で読んだRenはSakuraにおねだりしてあらかじめ買ってもらっていたのですが、授業が始まってから言及されることすらありませんでした。(なのでいままでずっと読まずに来ました。読まなければならない他の論文がたくさんあったので。)
確かに、いま読んでみて授業内容とあんまりかぶらなかったのですが、じゃあ、ウェブサイトになぜ書いておいたんだろう。。

(投稿者:Ren)

Tony Wright, British Politics: A Very Short Introduction, 2nd Edition (Oxford University Press)

2014年04月29日 | 
僕は現在イギリスで政治学を勉強していますが、別にイギリス政治を勉強しているわけではありません。
英語が「ただイギリスにいるだけではできるようにならない」のと同様に、ただイギリスで政治学を勉強しているだけではイギリス政治は分かりません。

でも、せっかくイギリスにいるのにイギリスの政治の仕組みが全く分からないまま日本に帰るのももったいない。
そう思って、Tony Wright, British Politics: A Very Short Introduction, 2nd Edition (Oxford University Press, 2013)を読んでみることにしました。この本はまだ翻訳はなさそうです。(もしあったらごめんなさい。)



著者は1997年から2010年まで労働党の議員さんだっただけでなく、イギリス政治についての本もいくつか出している研究者(UCLの教授)。
その経験と知識を活かして、学問的な話の中に、実際に著者が議員だったときの体験談(議会の暗黙ルールを知らなくて苦労した話とか、そんなに知りたいわけでもなかったことについて質問主意書みたいなものを出してみたときの話とか。)も散りばめられています。
内側から見たイギリス政治とアカデミズムを通して見たイギリス政治がうまく組み合わさって、とても読みやすく、面白かったです。

本書ではイギリス政治の「伝統的」なあり方やそれを可能にした条件はもちろん論じられますが、それよりも近年の動向、特にブレア政権による「憲法革命」やキャメロン政権(保守党と自由民主党の連立政権)の成立によってその「伝統的」なあり方がどのような変容を迫られているかを論じることに力点が置かれているように感じられました。
末尾にはFurther readingとして50冊の本(古典から「著者が単に好きな本」まで)が挙げられていて、本書の次にどの本を読むか考える際に大変役に立ちそうです。

これだけの薄さでイギリス政治の概要をいきいきと教えてくれる本はなかなかなさそうなので、日本語に翻訳されても良いような気がします。
イギリス政治についての知識がほぼゼロだった僕にとっては、とても良い入門書でした。

ほとんど内容を紹介できていませんが、試験勉強もしたいのでこのへんで。

(投稿者:Ren)

Raymond Wacks, Philosophy of Law: A Very Short Introduction, 2nd Edition (Oxford University Press)

2014年04月19日 | 
アサインメントや試験勉強の必要に迫られているときに限って関係ない本を読みたくなるもの。
まったく関係ないとまでは言えないけれど、Raymond Wacks, Philosophy of Law: A Very Short Introduction, Second Edition (Oxford University Press, 2014)を読みました。



この本、第1版が2006年に出ていて、これは邦訳もされているようです(中山竜一=橋本祐子=松島裕一(訳)、中山竜一(解説)『法哲学(<1冊でわかる>シリーズ)』(岩波書店、2011年))が、さすがにこの第2版の翻訳はまだない、はず。

僕は第1版を読んでいないので今回の改訂によってどう変わったのか分からないのですが、出版社によると,
・法実証主義(legal positivism)、リアリズム法学(legal realism)、人権(human rights)の近年の理論的発展
・Dworkinの最後の仕事(=Justice for Hedgehogsのことですね)の考察
が付け加わっているということです。

本書の特徴は、著者が自分の主張を提示することを控えて、様々な学説の紹介に徹していることだと思います。
良い点としてはいろんな学説を知ることができること、悪い点としてはいろんな学説が紹介されているばっかりで体系的ではないということになるでしょうか。

「第1章 自然法」ではキケロ―やアリストテレスから最近のフラーやフィニスまで、自然法論の学説の変遷と発展が紹介されたあとで中絶や安楽死といった難しい問題(モラル・ディレンマ)に自然法の立場がどのように応答しうるか(また、困難を抱えるか)が論じられます。
僕にとっては、この章が一番クリアーに整理されていたように思いました。

「第2章 法実証主義」はベンサムやオースティンからH. L. A. ハート、ケルゼン、ラズ、シャピロの学説が紹介されます。
中心的に扱われているのはハート。ただ、法実証主義が複雑だからでしょうか、それぞれの論者がどういう点で違うのか理解するのが、僕には難しかったです。

第3章はドゥオーキンについて。
正義論の文脈だと羨望テストとか仮設的保険市場とか福祉の平等(equality of welfare)、つまりSovereign Virtueがクローズアップされる印象があるのですが、やっぱり法哲学の本なのでLaw's Empireの議論を中心に純一性としての法(law as integrity)やruleとprincipleの区別、法解釈の行われ方などが論じられています。
ドゥオーキンさんの生前最後の著作、Justice for Hedgehogsについては、法と価値という節で取り扱われ、彼の価値をめぐる議論が簡単に触れられています。

第4章は権利と正義について。
権利や正義についての考察抜きに法哲学について論じることは不可能だ、とされた上で、様々な論者の理論が紹介されていきます。
権利については、ホーフェルトによる権利概念の解明の試み、ドゥオーキンの切り札としての権利論、人権の発展史(第1世代から第3世代まで)が論じられ、
正義については、功利主義、法の経済分析(ポズナーの議論)、ロールズの議論が取り上げられています。

「第5章 法と社会」では、これまでの章が法の規範的側面に着目するアプローチの紹介であったのと違って、法がどのような文脈で機能しているかという社会学的なアプローチが取り上げられています。
取り上げられている論者は、デュルケム、ウェーバー、マルクス、ハーバーマス、フーコー。
それぞれの理論の解説がごく簡単にされているのみだったために、相互の関係(そもそも彼らは相互に理論的関係はあるのか?)や現代における意義があまりよく理解できなかったものの、このアプローチの議論を僕はこれまであまり読んでこなかったので、大変新鮮に感じました。

「第6章 批判法学」になると、体系性はもはやほとんどなくなります。
取り上げられているのは、リアリズム法学(アメリカ学派とスカンジナビア学派がある中で、主にアメリカ学派を紹介)、批判法学(Critical Legal Studies)、ポストモダニズム法学(ラカン、デリダ)、フェミニスト法学(リベラル・フェミニズム、ラディカル・フェミニズム、ポストモダン・フェミニズム、差異派フェミニズム)、Critical Race Theory(どう訳せばいいのか分からない。。)。
第5章以上に、ここでくくられた理論の意義や相互の関係がよく分かりませんでした。
そして、おそらく新しく発展してきた研究分野だと思われるのだけど、僕はあんまり魅力を感じませんでした。

第7章はすごく短い結論になっています。

これだけの多岐にわたる内容が小さい本のたったの130ページで紹介できてしまうことは本当にすごいことだと思います。
紹介されている論者の本や論文が読みたくなります。
しかし、やはり個々の解説がとても薄くなってしまっていて「これこれという理論がある」「だれだれはなになにということを主張した」くらいの理解しか得られない項目も少なくありませんでした。(特にポストモダニズム思想に疎い僕は、第6章でほとんど何が言われているか分かりませんでした。)
また、本書のところどころで、誰かからの引用や著者執筆の「コラム」が挿入されているのですが、それが本文とどう関係するのかどこにも解説されていませんでした。(そもそもコラムをなぜ入れたのか、趣旨が分からない。)

ということで、ちょっとこの本は評価するのが難しいです。
法哲学という分野を分かっている人が読むと、いろんな学説を短時間で整理しなおせて有益なのではないかなと思います。
でも、本当の初心者が最初に読むべき本なのかどうかはよく分かりません。
邦訳だとここらへんの難点は中山さんの解説でカバーされているのかもしれません。
第1章、3章、5章がすごく面白くて勉強になっただけに、残念でした。


(投稿者:Ren)

Alberto Alesina and Howard Rosenthal, Partisan Politics, Divided Government, and the Economy

2014年04月11日 | 
「どんな分野でも業績があるAlesina」。
ある先生がAlesinaさんについてこんなことを言っていました。
そのときに読んだ論文(共著)は、共産主義の国において個人の資本主義や再分配政策に対する選好(preference)がいかにその政体に影響を受けるか、東西ドイツの個人に焦点をあてて論じたもの。
Alesinaさんと言えば、中央銀行の独立性の話とか財政再建の話とかで名前をよく聞く人だと認識していた(原論文はまだ読めていない。。)のですが、確かに先生の言う通り守備範囲の広い人だなと思ったものです。

でも、Alesinaさんの活躍の舞台はそれだけではありませんでした。
今日取り上げる、Aleberto Alesina and Howard Rosenthal, Partisan Politics, Divided Government, and the Economy (Cambridge University Press, 2005)は、アメリカの政治システムと経済の関係について深く分析した作品です。



本書における主要な主張は以下の5点です(pp.1-3)。
(1)Downs(1957)の予測に反してアメリカの政党システムは二極化している。
(2)この二極化した政党の存在によってマクロ経済サイクルが発生している。
(3)政策は行政(大統領)と立法(議会)の相互作用の中から立案・執行される。
(4)有権者は上記の相互作用を利用して中道の政策を実現しようとする。行政と立法で違う政党が実権を握る分割政府は偶然の産物ではない。
(5)この結果として中間選挙で大統領の所属している政党と違う党が勝利しやすくなる。

これらそれぞれについて、著者らは数式を使った仮説の提示とそれの統計的検証を行っていきます。
主張は相互に結びついていて、これらを示すことにより著者らはアメリカの政治システムと経済の関係を包括的に理解しようとしていますが、ここでは(2)に注目した紹介をしたいと思います。

著者らが本書において提示するモデルは、Rational Partisan Business Cycleです。
僕は大まかに言って下記のようなモデルであると理解しました。(間違っていたらご指摘いただけると幸いです。…試験で減点されないためにも。。)

大統領選挙において勝利した政党はその前半において民主党は拡張政策、共和党は緊縮政策を行う。
すなわち、民主党政権の場合は成長率が平均より高く、共和党政権の場合は平均より低くなる。

ところで有権者には「何があっても民主党」の人もいるが、「どっちかというと民主党だけどそんなに極端な政策は嫌だ」という人もいる。(共和党についても同じことが言える。)
後者の中道の経済政策を好む人たちは、中間選挙(議会選挙)において大統領とは違う政党を勝利させることで経済政策のバランスを取ろうとする。
すると、議会と大統領の権力均衡(妥協が必要になる)によって、政権の後半には極端に党派的な経済政策は行われなくなる。
これによってアメリカのマクロ経済サイクルが発生している、著者らはそう主張します。

本当に個々の有権者がそういう行動をとっているかどうか、個々人に「中間選挙のときに支持政党に投票したか、反対党に投票したか」や「なぜそのような投票をしたか」などを聞いてみる必要がありそうだなと直観する(個人的には、中道の経済政策を志向する人がいるだろうことは理解できるけど、果たしてその人がバランスを取るためだけに支持していない政党に投票するかどうかについてはちょっと疑問。)のですが、テクニカルな数式によるモデルを積み重ねてアメリカの政治と経済の関係を合理的に解明しようとする(そしてそれを統計データによって確認する)スケールの大きさと強靭な論理に驚嘆しました。

なお、最終章において、本書の知見はアメリカのみならず他の先進諸国にも応用可能であることを著者らは主張します。
既にドイツの中央政府とラント議会選挙の関係が、本書で示された「中道を求める有権者」で説明できるとする研究もあるみたいです。
著者らは政党政治や収斂していない政党、分割政府、中道を求める有権者(大統領と議会だけじゃなく、中央議会と地方議会、中央議会とEU議会についてもこれが観察できるとのこと。)はアメリカだけでなく他の先進国でも見られるものだとしていますが、日本については当てはまらないような気がする。
それは著者らの理論に無理があるからなのか、日本の政党政治にどこか問題があるからなのか、ちゃんと考えてみる必要がありそうです。

(投稿者:Ren)

Mancur Olson, The Logic of Collective Action (Harvard University Press, 1971)

2014年04月08日 | 
今日はMancur Olson, The Logic of Collective Action: Public Goods and The Theory of Groups (Harvard University Press, 1971)を取り上げようかと思います。
前回の本とは違って今日の本は授業で登場したもの。僕の試験勉強の一環として紹介してみます。



本書は、もともと1965年に出たオリジナル版に新しい序文(Preface)やその後の研究動向をレビューしたAppendixを追加したリプリント版です。
著者は経済学者なのですが、経済学者以外にも広く読まれたいという著者の狙いがあって、数式等は第1章に少し出てくる程度で、あとはほとんど文章で構成されています。

本書はRational Choice Theory(合理的選択論)の論理を突き詰めて考えていくところに特徴があります。
まず、組織は構成員の共通の目的を達成(Collective Goods(集合財)の提供)するために結成されることが確認されたあとで、でも、構成員が合理的なアクターであるならばある程度以上の規模の組織においてはColective Action Problemが発生すると指摘されます。

では、Collective Action Problemとは何か。
人々が何かをするときには必ずコスト(費用、めんどくささ等)を伴うので、その何かを合理的な人にしてもらうにはそれを上回る便益がないといけない。
構成員の数が小さい組織においてはそれぞれの構成員の追加的な行動が大きな変化をもたらすため、collective goods(その存在はその人たちそれぞれにとって良いものであることが前提)の生成に貢献することの便益がコストを上回っていることが多い。(したがって、collective goodsは生成されやすい。)
ところが、組織が大きくなってくると、それぞれの構成員が何かしたところで、全体の結果には大きな違いをもたらさないようになってしまう。
つまり、それぞれの構成員について、自分が追加的に貢献するコストがそれによって得られる追加的な便益を上回ってしまうため、誰もcollective goodsの生成に貢献しようというインセンティブを持たなくなってしまう。
そうなると、本当はcollective goodsがあったほうがみんなにとって利益があるはずなのに、誰もそれに貢献しようとしないからcollective goodsがその組織で生成されることがなくなってしまい、結局みんなにとって不幸な事態が発生してしまう。
これが、Collective Action Problem(集合行為問題)です。

この問題を解決する方法としてOlsonさんが紹介しているのが、selective incentive(選択的インセンティブ)の提供です。
selective incentiveには、何らかの方法で強制するという負のインセンティブのほかに、その組織のメンバー(会費制)でいることで有益な情報満載の会報が送られてきたり、メンバーが困っていたら救いの手を優先的に差し伸べたりといった正のインセンティブが挙げられています。
こういったselective incentiveを提供することによって、大きな組織の中で貢献してくれるメンバーが維持され、その組織の政治的影響力を強めることが可能になる(なっている)と主張されます。

本書は以上の理論的な話をアメリカの労働組合や農業組合、産業団体などの具体例を交えながら示していくのですが、最も重要な主張は次の一文に尽きると思います。
"Only when groups are small, or when they are fortunate enough to have an independent source of selective incentives, will they organize or act to achieve their objectives" (p.167).

ある授業で「Olsonの議論はみんな援用するんだけど、実際に読んでいる人は案外少ない」と先生が話していたのが気になって今回ちゃんと読んでみようと思った(その授業で読めと指定されたのは、本書全体の理論が書いてある第1章&第2章のみでした)のですが、読んでみるとテクニカルな話もほとんどないし、また、昔の本なのに使われている単語や構文もそんなに難しくなく、非常に読みやすい本でした。
Appendixまで含めても178パージのみなので、広く社会科学に大きなインパクトを与えた古典を意外と手軽に読めるという意味でも非常にお得な本なんじゃないかと思います。

(投稿者:Ren)

Daniel Beland and Robert Henry Cox, eds., Ideas and Politics in Social Science Research

2014年04月07日 | 
学期中とは違って長期休暇中のいまは予習に追われることがないため、好きな本をじっくり読むことができます。
本当はアサインメントに必要な論文だったり試験のための復習をしたほうが良いんだけど、せっかくの機会なのでいろいろと手を出したりしています。

最近読んだのがこちら、Daniel Beland and Robert Henry Cox, eds., Ideas and Politics in Social Science Research (Oxford University Press, 2011)です。



本書はアイディアを重視する政治学のアプローチについて、編者によるIntroductionに加えて10編の論文を収めたものです。
「Social Science Research」という書名にはなっているものの、ほぼすべて政治学が主眼に置かれています。

一つ一つの章を全部紹介していくのも冗長になるので、特に印象に残ったのを3つだけ簡単に。

Vivien A. Schmidt "Reconciling Ideas and Institutions through Discursive Institutionalism" (Ch.2)
いわゆる新制度論は、通説では3つの潮流があるとされています。その3つとはすなわち、Rational Choice Institutionalism(合理的選択制度論)、Historical Institutionalism(歴史的制度論)、Sociological Institutionalism(社会学的制度論)です。
これらはそれぞれ、「合理的な選好計算」「歴史的な経路」「文化的フレーム」に焦点を当てるものですが、著者は、我々はもう一つの制度論、Discursive Institutionalism(言説制度論)も考慮に入れるべきだと主張します。
これまでの3つのアプローチでは十分でない理由として著者が挙げるのが、これらが安定的な制度を説明する理論であるために変化を説明するのが困難であることです。
一方で、Discursive Institutionalismはアイディアの生成、変化、正統化という双方向的なプロセスに焦点を当てるため変化を説明しやすい、と著者は主張します。

以前ここで取り上げた木寺元『地方分権改革の政治学』(有斐閣、2012年)にも詳述されていることでそんなに新しい主張ではないのだけど、新制度論の3つの立場がとても分かりやすく整理されており(個人的には、もはや古典となっているHall and Taylor (1996)よりもSchmidtさんのほうが分かりやすかったです)、その上でそれとアイディアを重視するアプローチがどう関わるのかが論じられており、理解の枠組みを作るのにとても有益でした。


Colin Hay "Ideas and the Construction of Interests" (Ch.3)
HayさんはSchmidtさんと問題意識を共有し、これまでの制度論では十分に取り扱われなかった構築主義に注目し、Constructivist Institutionalism(構築主義的制度論)を主張します。
わざわざSchmidtさんと違う用語を選択したのは何か深い理由がありそうですが、一読した限りではあまり明らかではありません。
ただし、この章の中でShmidtさんへの批判は繰り広げられていないので、ただの好みの問題なのかもしれません。

さて、Schmidtさんの章ではこれまでの新制度論との異同が中心的テーマでしたが、Hayさんによる本章ではアイディアがどのように働くのか、そのモデルが示されます。
すなわち、たとえば合理的選択論のようなモデルでは、
(1)あるアクターを取り巻く状況(C: Context)があり、それに依存して物質的利益(MI: Material Interests)が観念される。
(2)その物質的利益(MI)を実現するための合理的行動(B: Behaviour)を個人が選択する。
(3)したがって、CがBをもたらす
というふうに構築されていました(p.72)。

しかし、アイディアを考慮に入れる構築主義的なモデルだと、構造は以下のように変化します。
(1)CがMIを決定する(上記と同じ)。
(2)Bをもたらすのは了解された利益(PI: Percieved Interests)である。
(3)ところが、不完全情報の世界では、MIとPIは一致しない。MIは他者による説得や操作等の影響でPIに変容する。
(4)したがって、CがBをもたらすとは限らない(p.75)。

言うまでもなく、アイディアはここの(3)で重要な役割を果たします。
Hayさんは単に「利益」に注目するのではなく、「認識された利益」を重視すべきと主張します。
ここまで書いてきて何となく分かりました。Hayさんは「真の利益」がインターアクティブな言説のプロセスによって変容するというよりも、「真の利益」とは違う「認識された利益」が個人の行動を動機づけすると主張する点でSchmidtさんと力点が違い、したがって、彼女と違う用語を選択したのではないでしょうか。

これ以上の展開が行われているわけではないものの、モデルがクリアーに示されている点で、僕にはHayさんのこの章に最もわくわくしました。


John L. Campbell and Ove K. Pedersen "Knowledge Regimes and Comparative Political Economoy" (Ch.8)
この章はHall and Soskice (2001)的なVariety of Capitalism(資本主義の多様性論)とKatzenstein (1978)の政策過程の開放性の議論を組み合わせ(知ったかぶりをしましたが、Hall and SoskiceもKatzensteinも、Renは未読です。。)、それに「Knowledge Regime」がいかに結びついているか試論を提示したものです。
ここでKnowledge Regimeとは、経済・政策的知識がどう形成されるかに着目したもので、著者らはそれを外部の競争的知識市場が牽引するタイプ(米国、英国)、国家官僚が牽引するタイプ(フランス)、両者が協力してコンセンサスを形成していくタイプ(ドイツ)に分別します。

面白かったのはそのレジームが形成される過程の歴史的叙述です。
たとえばアメリカについてはこんな感じです。
アメリカのシンクタンクは、その初期は党派的なものではなく専門知識を活用して政策を合理的なものにしてほしいという民間企業の出資によってできた研究機関が多かった(Russel Sage FoundationとかBrookings Institutionとか。)が、1970年代頃からなんらかの価値や政策を実現したい団体が組織したシンクタンク(Heritage FoundationとかCato Instituteとか。)が増加した。
一方で、政党はそれほど強くなかったので、政党お抱えのシンクタンクは発展しなかった。
さらに、厳格な権力分立を反映して、それぞれの機関に研究機関が設立された(GAO、CBO、OMB、さらに大統領経済諮問委員会なども。)。
このように発展した制度的な理由としては、(1)プライベートセクターが出資しやすい税制度(その分が控除されたりとか)、(2)政治構造が分権的・開放的だった(英国みたいに中央政府の行政府に集中していない)ので、アカデミズムが政策形成に参画しやすかったこと、(3)政治任用が多く、内部の官僚よりも外部の専門家から知識を供給する構造、(4)政党が弱いので、政治家は外部の専門家から政策のアドバイスを求めたこと、が挙げられています。

英国、フランス、ドイツについても同じように知識レジーム形成の歴史とそれを可能にした制度的要因を提示していて、知識レジームが独立した分析概念としてどれだけ有用(魅力的)なものなのかあまり自信はありませんが、翻って日本はどうなのかなと考えるいいきっかけになりました。(シンクタンクがあまり充実していないこと、官僚制が政府のシンクタンクになっていることをよく聞く一方、多数の審議会等を通して外部の知見を取り入れようとしているように見えるし、多くの官庁に研究機関がくっついてもいる。それらがどれだけ新しいアカデミズムを行政や政府にもたらしているかはよく分からないけれど。)
次の第9章はアメリカにおいて保守系のシンクタンクがリベラル系のシンクタンクと比べて大きな影響力を持つようになった要因を分析していて、併せて読むことで日本においてそこまで存在感があるとはいえない(ので、いまいちイメージがつかめない)シンクタンクというものについての理解も深まる気がします。


もはや問いは「アイディアは重要なのか」ではなく、「アイディアはどのように重要なのか」になっている(第1章)。
本書において共有されているのはこの基本認識くらいで、あとはそれぞれの論者が自分の得意な話を限られたスペースで展開するので、多くの章を読んでいて消化不良をおこしてしまうのは多数の論者の合作である以上仕方がないことかもしれません。
ただ、イントロダクションと第1章でアイディアを重視する潮流の内部における多様なアプローチとともに多数の文献が紹介されており、Renのような初心者にとっては次に読むべき文献を考えるとても良い羅針盤にもなってくれるように感じました。


(投稿者:Ren)

Paul M. Kellstedt and Guy D. Whitten, The Fundamentals of Political Science Research, 2nd Edition

2014年03月06日 | 
Renが履修している授業では基本的な統計学や計量政治学の知識が前提とされています。
先学期、計量経済について質問しようと思ってある先生の研究室を訪ねたところ、学部生たちが先生の部屋の前で「説明変数」とか「回帰分析」とか「カイ乗」とか「Stataのコマンド」とかについて話していたのを目の当たりにして、「この大学では学部生の頃からこういうことをしているのか!」と愕然としたことがあります。
クラスメイトたちの当然の素養である基礎的な知識を欠いているのでは授業がちんぷんかんぷんなのも無理はない。
ということで、Paul M. Kellstedt and Guy D. Whitten, The Fundamentals of Political Science Research, Second Edition (Cambridge University Press, 2013)を読んでみることにしました。



本書の選定理由は以下の2点。
(1)学内の本屋さんに複数冊置いてあった。(→学部生の教科書に違いない!)
(2)新しい本なので最新の議論状況を踏まえて書いてありそう。

何冊かを比較検討した上で買ったわけではないので他の学部生向けの教科書と比べてどうかは分からないのですが、結論から言うと、非常に有益な本でした。
科学的な理論とは何かという話からリサーチデザインやデータの特性について一通り解説した上で、統計学や回帰分析についてその背景にある考え方や結果の解釈の仕方、起こりうる様々な問題とその対処法について丁寧に具体的な政治学の研究を例に挙げながら説明してくれます。
Renが特に苦しめられている「リサーチメソッド(上級)」の授業では計量経済学の教科書が指定されているのですが、経済学の素養がないRenのような人は本書のようなもので基礎的な知識を補ってから読むと、よりスムーズに理解ができるんじゃないかと思います。

現在の政治学のメインストリームは定量的研究です。
Renはそれがどういうことか十分に理解しないままイギリスに来てしまって、いま大変苦労しているのですが、これから政治学の修士に行こうという方はあらかじめ本書のようなものを読んでおくと予習になって良いんじゃないかと思います。(Renの留学予習教材は、R.ダール(高畠通敏訳)『現代政治分析』(岩波現代文庫、2012年)でした。これはこれでとても勉強になったのだけど、最先端の政治学の予習としては、不適当でした。)

ちなみに、各章の末尾にその章のキーワードが定義とともにまとめられていて、頭の整理にとても役に立ちます。
同じく各章の末尾についている練習問題の答えがついていないのは残念だけど、十分独習に使える本なのではないかと思います。

日本でもこういう本があれば良いのにと思わずにはいられません。
少し前に出た、久米郁男『原因を推論する――政治分析方法論のすすめ』(有斐閣、2013年)とかがそれにあたるのでしょうか。
帰国したら是非手に取ってみたい本の一つですが、未読なので、分かりません。
(G.キング=R.O.コへイン=S.ヴァーバ(真淵勝監訳)『社会科学のリサーチデザイン:定性的研究における科学的推論』(勁草書房、2004年)はもちろん必読文献なんだと思いますが(ある授業で、「みんな学部のときにKKVを読んだと思うけど、そこでは・・・」みたいなことを言われてショックを受けました。。)、この本も本書の後に読むべきものかも。KKVはRenのもう一つの留学予習教材だったのですが、正直に言ってあまりよく理解できませんでした。いま読んだら、もっと良く分かりそう。)


(投稿者:Ren)

Michael S. Lewis-Beck, Economics and Elections (The University of Michigan Press, 1988)

2014年02月07日 | 
今日は、Michael S. Lewis-Beck, Economics and Elections: The Major Western Democracies (The University of Michigan Press, 1988)をご紹介したいと思います。

本書は、「経済と選挙の関係(The Economy and the Vote)」という政治学において最も多くの研究を生み出してきたテーマの一つに関する様々な論点について、それまでの先行研究と著者の研究による知見の到達点を示すことによって、その後の研究において必ずと言っていいほど参照されるようになっている、いわば古典的な作品です。
副題に示されている通り、本書の射程は主要な西欧民主主義国(英、独、仏、伊、西、米の6か国)に限られていて、たとえば日本にそのまま当てはめることは難しいのですが、それでも本書の知見は現在の日本政治を考える上でも一定の示唆を有するのではないかと思われます。



さて、「経済と選挙」というと、Ronald Reaganさんが現職のJimmy Carterさんと大統領の座を争った1980年の選挙において、
「Are you better off than you were four years ago?」
と国民に(反語的に)問いかけ、勝利したという事例が有名です。

ではなぜ、この選挙において経済が重要だったのか。
もっとも単純なモデルは、それを以下のように説明します。
「経済が良ければ投票者は与党に報酬を与え(議席増)、経済が悪ければ与党に懲罰を課す(議席減)」(報酬・懲罰仮説)

しかし、物事はそう単純ではありません。
このものすごく単純なモデルをめぐっては、以下のような論点が提起されてきています。

1.投票者はその政党の過去の業績を基に投票しているのか、その候補者や政党がもたらすであろう将来の利得に期待して投票しているのか。
2.投票者は自分や家族の財政状況で政策を判断しているのか、、国全体の経済状況を見て政策を判断しているのか。
3.経済が良いときと悪いときで投票者の行動に差はあるのか(悪いときの懲罰は大きいけど、良いときの報酬はそれほどでもない、というようなことは起こるか)。
4.投票者の政策への感情は政策判断に影響を与えているのか。
5.国によって経済の影響の仕方は異なるのか。
6.政治的景気循環は存在しているのか(経済が選挙に大きな影響を与えるなら、政府は選挙前に様々な政策手段で経済を良くしようとするのでは?)。

先行研究の多くはそれまで時系列データの統計分析でこの問題にアプローチしていたところ、本書は個々人を対象にしたサーベイへの回答を分析することにより、より直接的に個人の投票行動を解明しようとします。(いわゆる「Colemanのバスタブ」の底の部分の推論がこの方法の採用によって可能になる、と理解できるのではないかと思います。初の試み(!)として、現時点でRenが理解している「Colemanのバスタブ」を下記のように描いてみました(Ren作成)。この方法の意義の解釈も「Colemanのバスタブ」の解釈もたぶん間違っているので、詳しい方がいらっしゃったらご指摘いただければ幸いです。)

実証部分を飛ばして本書の結論だけ書くと、以下のようになります。

1.先行研究の多くは投票者は過去の業績を基に投票している(将来のことはあまり考えていない)としていたが、実は投票者は将来の期待利得も同様に重視している。
2.国全体の経済状況を重視しての投票行動のほうが顕著。ただし、経済状況は将来的に自分の財政状況にも響いてくるからそう判断している可能性も捨てきれない。(確定的なことは言えない。)
3.先行研究の多くでは投票者は経済状況が悪いときの懲罰のほうが経済状況が良いときの報酬よりも大きいとしてきたが、実は投票者は両者に対して同じように反応している。
4.経済政策への「怒り」などの感情は、経済状況等をコントロールしても与党への投票にマイナスの影響を与える。ただし、そのメカニズムは明らかではない。
5.経済状況に反応した投票行動はどの国でも見られるが、そのあらわれ方は、それぞれの国の政治制度によって異なる。たとえば、連立政権はその政策に誰が責任あるのかが単独政権に比べて判断しづらいので、経済状況への反応の強さはその分弱くなる。
6.政治的景気循環は観察されない。その理由はおそらく以下の2点。(1)選挙のためにある政策を実施したとしても効果がいつ現れるか分からない、(2)投票者も選挙前にばらまき政策があっても選挙後にその分緊縮財政がされることを予想できるので、政府は短期的な景気浮揚策よりも中長期的な経済発展の道を示していないと評価されない。

それぞれの結論について今なお論争が続いていますが、Lewis-Beckさんの本書における結論の多くはいまだに維持されていると言っていいのではないかと思います。
(たとえば、Lewis-Beck, Michael S. and Mary Stegmaier (2009), "Ecnomic Models of Voting", in Russell J. Dalton and Hans-Dieter Klingemann (ed.), The Oxford Handbook of Political Behavior (Oxford: Oxford University Press), pp.518-537。)


ただ、、、こう言ってしまっていいのか分からないけど、どうもThe Economy and the Voteをめぐる話は、全体的に「そんなこと誰でも知ってるよ」というような話にしかなっていなくて、あまり「発見」という感じではないような気がしてなりません。
「そんなこと誰でも知ってる」からReaganさんは冒頭のようなことを問いかけたのだろうし、日本の選挙においても、経済政策(と与党の業績)は非常に大きな争点になるんだと思います。

やっぱり、「みんなの常識」について、「それがなぜ起こるのか」というメカニズムを解明しているのだ、ということでしょうか。
メカニズムが分かれば、その中の一つないし複数の変数を変化させたときに結果がどのように変わるか推測することができるかもしれない。
そう理解すれば、このテーマの研究も意味があると言えるのかな。

・・・バスタブの図を描いて満足してしまって考える気力がいまはないので、今後おいおい考えていきたいと思います。


(投稿者:Ren)