倉野立人のブログです。

日々の思いを、訥々と。

長崎原爆の日に思う / 「コロナ差別」 残念な真相心理

2020-08-10 | 日記

8/9 Sun.

 

◇長崎原爆の日に

8月9日は、さきの大戦の末期、長崎市に原子爆弾が投下された日です。

あれから75年、今年も 長崎平和公園において「祈念式典」が挙行されたことが報じられていました。

 

 

 

 

式典では、この1年に亡くなった被爆者など 合わせて3,406人の名前が書き加えられた18万5,982人の原爆死没者名簿が納めらたとのこと。

長崎市での平和式典も、新型コロナウイルスの影響を受けることとなり、さきの広島会場と同様に規模縮小を余儀なくされました。会場には 安倍総理はじめ68の国の代表、また被爆者やその家族など 関係者のみが参列、例年の1割ほどの500人規模の式典となったそうです。

 

そんな中 式典の主催者である長崎市長は『平和宣言』の中で「新型コロナウイルス感染症が自分の周囲で広がり始めるまで 私たちがその怖さに気付かなかったように、もし 核兵器が使われてしまうまで人類がその脅威に気付かなかったとしたら、取り返しのつかないことになってしまう。」と述べ、新型コロナウイルスの脅威と同じように、核兵器の脅威も世界共通の課題だとして、すべての人々が当事者として問題解決に向けて参加するよう呼びかけておられたのが印象的でありました。

そのうえで、「核兵器廃絶は、人類が自らに課した約束」として、被爆者の長年の悲願である核兵器禁止条約を日本政府が1日も早く署名・批准するよう求めました。

これに対し 安倍総理大臣は、広島原爆の日に続き 核兵器禁止条約には触れず「唯一の戦争被爆国として『核兵器のない世界』の実現に向けた国際社会の努力を、一歩一歩 着実に前に進めていくことはわが国の変わらぬ使命だ。」と述べるに止まりました。

 

また 被爆者代表として89才の方が「平和への誓い」を述べられ、その中で「被爆者が1人 また1人といなくなる中にあって『長崎を最後の被爆地に』との思いを訴え続けていく。」と決意を述べておられたのでした。

 

 

長崎市長の式辞にあったように、わが日本国は さきの大戦によって国難に陥り、その「止(とど)め」ともいうべき大被害を(原子爆弾によって)受け、その後「安全保障」という形で いかに戦争被害から国民を守るか、の議論が積み重ねられております。

しかしながら、かかる多様な社会情勢においては、今や「安全保障」は、単に 戦争から国民を守ることだけが全てでは無いと 私も強く認識するところであります。

 

現下の新型コロナウィルスの猛威は、武力による社会への影響を凌駕(りょうが)するに至っています。

現に (従前にも触れましたが)ウィルス感染により 米軍空母が機能停止に陥るなど、一発の銃弾も飛ばずして大国の軍事活動が止まる…今や 軍事兵器よりも脅威の存在になっていると言っても過言ではありません。

また、やや類(たぐい)は異なりますが、日本においては 食料自給率が未だ4割を下回っており、海外依存度が非常に高い状態…このことは ひとたび世界的な食料問題(食料危機)が起きれば、それは即ち 日本人の食生活の危機に直結するところであり、それは 言うなれば「食の安全保障問題」と言わざるを得ません。

(この〝海外依存問題〟は 図らずも「コロナ禍」における〝マスク不足問題(マスクの殆どを海外(中国)に依存していたことによる国内流通の逼迫)〟によっても顕著となりましたね)

 

 

 

・・・・・・。

長崎市への原爆投下は〝天候の気まぐれ〟であったことも伝えられています。

曇天の8月9日、たまたま米軍の爆撃手の目視に叶(かな)ってしまったことで標的にされ、大きな被害を受けることになってしまったナガサキ、そのうえでの負の歴史を経て現在に至る中「こんな被害はナガサキを最後にしてほしい。」との 被爆者の悲痛とも言える声を聞き、そのうえで 現下のコロナ禍をはじめ、さまざまな「安全保障」の必要性・重要性を再認識しなければならない。

 

 

図らずも大きな犠牲を強いられることとなってしまった 長崎の方々の悲痛な経験を無にすることのないよう、私たちは これからの「社会の安全保障」について心してゆかなければならないと 改めて思いをいたしたところであります。

 

 

 

 

 

 

 

◇跋扈(ばっこ)する「コロナ差別」

過般のニュースで、東京から青森市に帰省した人(60歳代)の自宅の玄関先に、そのこと(帰省したこと)を中傷するビラが置かれていたことが報じられ、心を痛めたところです。

 

 

 

 

ビラは7日に家の玄関先に置かれており「いい年して何を考えてるんですか?」など書かれていたとのことです。

取材に対し男性は「帰省前に 自費でPCR検査を2度受けていて、いずれも陰性だったため帰省した。こんな中傷を受けて悲しい限り。」と述べていました。

 

また これより前に、岩手県での「新型コロナウイルス感染者“第1号”」となってしまった男性の勤務先に 抗議の電話が相次いでいたことも報じられています。

この会社は 社員が感染したことを自主的に公表していましたが、そのことで社名が特定され 多くの電話やメールが100件近く寄せられたそうです。内容の大半は感染した男性を誹謗(ひぼう)中傷するようなものだったとのことです。

 

 

この手の〝コロナ差別問題〟については これまでも何度か触れていますが、一つには「恐怖の裏返し」があると思います。目に見えないウィルスが いかにも身近に迫ってきたような恐怖感に苛まれての当事者への攻撃(非難)。

そして もう一つには「排除の論理」があるのでは と。

ウィルスに感染していない自分は「善」で 感染した人は「悪」である。だから、それを懲(こ)らしめ排除するためにバッシングを行なう。そして その行為は正しいものであるという一方的な思い込みがある。

その歪んだ深層心理には、他者を攻撃することで 自分を優位に置き えも知れぬ安心感を得ようという、さもしい心理が増幅して (事例のような)心無い行為につながってしまう。

 

 

私はこれらの行為(心理)は「人の心の弱さ」の表れではないかと思います。

自分の心が弱くなるほど 不安に苛まれ、あげく「自分だけは助かりたい」と願い、そのことが排除の論理や誹謗中傷につながるのではないか。

 

しかして この社会現象は、社会構造そのものが不安定になるほど顕著になるとも思わされます。(ある事案に対して デモが起きるような)

社会(政治)が安定し、人心に不安が無ければ このような心無い行為も起きないのではないか。

すなわち 誹謗中傷・差別の発生は、そのまま「政治の不安定」を投影していると言わざるを得ません。

 

 

これ以上、地域社会の中で 人と人とが傷つけ合うような悲しいやり取りが起きることの無いよう、政治が 真に(国民が)安心できるメッセージ(政策)を打ち出し、自分のことだけでなく 他者をも思いやることのできる社会を再構築すべきである。

そう願うのは、私だけではないハズです。