「鼻ダゴ」は風のように坂道を駆け下りて来る。坂道は、海に近い村で直角に旧道と交わる。子どもたちが、旧街道に沿った古い漁師町のそこここに群れ集まっていて、「鼻ダゴ」が来ると一目散に逃げ出す。「鼻ダゴ」はそれを追う。一群の狼藉者たちは、疾風のように町並みを駆け抜け、路地や抜け道を通って浜へ出たり、出発地点である八幡神社の付近へと戻って来たりする。「鼻ダゴ」は子どもたちに追いつき、捉まえると、その顔に黒々と「スミ」を塗りつける。どっと歓声が上がる。
「鼻ダゴ」は「猿田彦」ともいう。
島原市有明町八幡神社の「風除祭」は、真っ赤な顔をして高い鼻を持ち、黒っぽい装束(もともとは白の衣装だがスミが付いて黒に近い灰色に変色している)に身を包み、榊の枝を手にした先導神「鼻ダゴ」の登場によって一気に祭りの興奮が集落に広がってゆく。この祭りは、神輿、馬に乗った神官、少年たちが太鼓を打ちながら続く「浮流」、日傘をさした神子(巫女)たちなどが、雲仙・普賢岳を背後に、有明海へ向かって行列する祭りである。二百十日の風鎮めの祭りと夏の疫病鎮めの「夏越し祭り」、雨乞いを起源とする「浮流(浮立)」などが混交した祭りである。
近くに「温泉神社」がある。「おんせんじんじゃ」と読むが、雲仙山頂付近の雲仙地獄に隣接する温泉神社は「うんぜんじんじゃ」と読むから、島原半島に点在する「温泉」は古くは「うんぜん」と呼ばれ、それが「雲仙」という地名の語源だったのだということがわかる。
私はこの祭りを20年ほど前に一度見ている。雲仙・普賢岳が噴火中のことで、当時は半島全域がその影響を受けて苦闘していたが、祭りは淡々と続けられていた。その時、私は、温泉神社や八幡神社の「スミつけ」の神「鼻ダゴ=猿田彦」は製鉄神の名残ではないか、と漠然と感じ、そのことを著書「火の神・山の神」(1995/海鳥社)に書いたのだが、今回、島原を再訪して、その直感が大きく外れてはいないことを確認した。半島全域から、古代製鉄の遺構の発見があり、それが火山活動を続ける雲仙・普賢岳がもたらす産物の一つであるということがわかったのである。時として大きな災害をもたらす火の山は、恵みの山でもあった。山麓に広がる肥沃な農地とそこで栽培されている野菜や果物、江戸時代後期から続く薬草園の存在などがそれを示している。
この地方には「猿田彦」と刻字された石碑が点在している。島原市域だけでも400基以上が確認されているという。地元の研究者の中には記紀神話に記される天孫降臨の舞台は島原半島で、ニニギノミコトを迎えた猿田彦はこの地の先住神であった、という人もいる。以前、伊勢市の猿田彦神社で開催されていた「猿田彦大神フォーラム」で、天草の研究者が、海流の調査にもとづき、「猿田彦の原郷は天草である」という説を展開して注目されたが、先導神「鼻ダゴ」を、島原半島の猿田彦伝承や天草の猿田彦伝承、対岸の吉野ヶ里遺跡との関連、この地を踏査した盲目の詩人・宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」などを参照しながら検証してみる価値はあるだろう。
「鼻ダゴ」の役は、二十代前半の脚力自慢の若者が選ばれる。真夏の、炎天下の集落を、全速力で子どもたちを追いまわしてほぼ半日、走り続けるのだから、体力を必要とする役である。子どもたちは次々に掴まり、スミを塗りつけられて子分のような存在となり、一緒に走ったり、鼻ダゴの代わりに榊を担いで歩いたりする。が、陸上競技選手のような走力に自信のある子もいて、懸命に逃げ回るから、鼻ダゴはなかなか捉えることができない。逃げ回る一群には少女たちも含まれていて、黒々とスミで化粧された顔とその嬌声が祭りに彩りを添える。少女たちにとって、鼻ダゴは、少し怖いけれど追いつかれて触れられてみたい(ひょっとしたら抱きしめられるかも・・・)、という淡い憧れの気持ちも抱かせる神様のようだ。このスミは、現在は墨液が使われているが、本来は、古代製鉄炉の煤(スス)を起源とする竈の煤である。「スミ=煤」は霊力を持つ火の山・火の神の産物であった。
・漁師町を駆け抜ける「鼻ダゴ」
・神輿の行列が行く
・小さな漁港があって、隣接する広場が「お旅所」になっている。突堤に恵比寿神を祀る祠がある。
・鼻ダゴが現れた。もうこのころは子供たちと鼻ダゴは仲間になっている。
・神輿が海に入り、禊が終わり、お旅所に安置される。神子神楽が奉納されて祭りの一日目は夜を迎える。
*夜の部に奉納される「神子神楽」については昨日の記事参照。
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bob
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