
・八幡神社を出発する祭りの一行
[島原半島の神子神楽 島原市有明町八幡神社の「風除祭」]
島原市有明町八幡神社の「風除祭」では、有明海沿いの旧街道を疾風のように走り抜ける「鼻ダゴ」(猿田彦)に先導されて、太鼓を打ち鳴らす少年たちの「浮流」、馬に乗った神官、神輿などが行列するが、ひときわあざやかな神子さんたちの一群も目をひく。日傘をさした巫女装束の少女6人が、行列の中ほどを歩くと、古い漁村の風景が一変するようで、道に出て神々の御幸を持つ人々の間から、思わず
「ほう!」
とか
「まあ、綺麗!」
などと声が上がるのである。
この祭りは「風除祭」と呼ばれ、夏の終わりの二百十日近くに行なわれる風鎮めの祭だが、夏の厄除け・祓いの「夏越し祭り」や雨乞いを起源とする「浮流」などが混交している。神子たちは、行列が海辺に近い「お旅所」に着くと、「神楽」を奉納する。島原半島では神子と表し「みこ」と呼ぶ。この祭りでは、「神楽」といえば「神子神楽」で、宮司さんの祝詞と禰宜さんの太鼓以外は男性の神職は勤めない。


・漁村を巡幸する神輿と神子の行列。


・神輿の行列がお旅所に着くと、神子が着座し、神楽が始まる。


・鈴を受け渡す所作も美しい。
・はじめに、鈴を右手に持ち、左手は袂を摘んで舞う。終始下を向き、面(おもて)を上げずに旋回を繰り返す静かな舞。


・次に、左手に扇を採り、同じ所作を繰り返す。
・続いて、鈴と扇を置き、両手で袂を摘み、顔を隠して舞う。これで、お旅所到着の舞は終わる。何の装飾もない、清澄で厳粛な気配さえ漂う舞で、これが古式の神事舞の系譜をひく「巫女神楽」であることがわかる。




・海辺の村が夕闇に包まれた。ご神燈が灯り、お旅所も提燈の灯りに照らされた。
・広場には屋台が建ち並んで、人々が集まってきた。


・お旅所で「神楽」が始まる。神輿到着後に奉納された三曲に浦安の舞が挟まれ、次に両手に扇を採り、くるくると回しながら舞う舞いへと続いてゆく。




・二人の神子が短剣を採って舞う「剣(つるぎ)」の舞。剣を掲げる所作、鞘を払うく所作も美しい。剣の霊力による鎮魂の舞で、まさに古式の「神楽」である。二人は旋回し、行き違い、また旋回を繰り返し、舞う。


・最後に、神子が一人ずつ、扇を広げ、鈴を採って激しく旋回する舞。


・「神がかり」を思わせる表情が一瞬、現れて消えた。
・この「神楽」は、お旅所に神輿が安置される三日間、連続して舞われるという。合計16番の演目があり、その中には宮崎県の山間部に伝わる夜神楽と同系列の演目名もある。私は20年ほど前にこの祭りを訪ね、この神子神楽を見て、大変強い印象を受けたので、今回も訪ねたのだが、祭りは縮小されてやや寂れた感じを受けたものの神楽そのものは変化することなく、粛々と受け継がれ執行されていた。
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「神楽」は、戦後の神楽研究における第一人者・本田安次先生の分類によれば、それぞれの特色に従って、①巫女神楽、②出雲流神楽、③伊勢流神楽、④山伏神楽・番楽と太神楽を含む獅子神楽、⑤奉納神事舞の5つに分けられており、巫女神楽が首座ともいえる位置を占めている。宮崎県の「岩戸流神楽」(日向流神楽あるいは高千穂流神楽と呼んでもいい)は分類の中には入っていない。九州北部から中部へかけて分布する「湯立て神楽」も含まれていない。これでは九州の神楽や宮崎の神楽を説明できない(③の伊勢流神楽は本場の伊勢地方では断絶していて検証できないし、農耕儀礼や海神の儀礼を含む宮崎の神楽を伊勢流でひとくくりに括ることも乱暴すぎる分類である)が、巫女神楽の重要性を知ることはできる。九州・宮崎の神楽を日本の神楽史の重要な位置づけとする仕事は、これからの私どもの大切な仕事であり、巫女神楽=神楽の女舞、女面の舞などの起源を訪ねる旅も、いま始まったばかりだといえよう。このような時期に、島原半島の訪れる人も少ない祭りに、古式の「神子神楽=巫女神楽」が伝えられていることを確認できたのは、ありがたく、貴重な機会であった。