花と山を友として

何よりも山の花が好き、山の景色が好き、山で出逢う動物が好き、そして山に登る人が好き。
写真と紀行文で綴る山親父日記

筑波山自然展が始まりました

2013年10月08日 | 登山

今日から始まった筑波山自然展の案内表示


会場の窓際には、筑波山に生息する動物の剥製も
展示されている。

筑波山自然展は、筑波山の御幸ヶ原にあるケーブルカー山頂駅の
2階で開かれている。
詳しくは「つくば環境フォーラム」のホームページをご覧ください

筑波山でどうしても撮りたい花が有ったので、会場にNさんを尋ねて
ふらりと寄ってみた。
会場で花情報などを聞いていたら、観察会でご一緒するSKさんも
会場に来て、「スライドショーを見ましたよ」といきなり言う。
一瞬なんのことか判らず、「 ?? 」と思ったのだが、少し話しを
聞いて、このブログに載せた那須の紅葉のスライドショーの事だと
判った。
彼女も紅葉の時期では無いが姥ヶ平には行った事があるという。

近所のスタンドに、午後2時に車のオイル交換を頼んでおいたので、
ちょっとだけ男体山の入口で写真を撮って帰るつもりだった。

ウスキツバメエダシャクと思われる白いガが吸蜜している写真を
撮っていたら、SKさんもやってきたので何なのか聞いてみると
インストラクターとしてガイドする為の下調べをしているという。
そのSKさんから面白い形をしているといって教えて貰ったのが

ミツバウツギのこの実である。何かがスボンをはいたようで可愛いと
言うのである。SKさんごめん、最近耳が遠くて、、、。オイ(笑)
それはともかくとして、この実を見たのは初めてである。感謝
(光っているのは雨で濡れた為、光沢ではない )

男体山の入口ではサラシナショウマが風に揺れていた。


会場に行く前に見たアケビの実、口が開きかかっている。


アケビも食べごろである。

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minoさんの独り言
9月の森ボラに参加したとき、「私も71歳になったが誕生日が乙女座
なのが笑えるよね、いかつい顔でさ。」とNさんに言っていたら、今回から
参加している女子大生に「可愛い!!」なんて言われてしまったけど、もちろん
私が可愛いのではない。乙女座の事である。

問題なのは、年と共に聴力と視力が落ちていることである。
車の中なぞでは、半分も話がわからないときがある。
といって、何度も聞き返すのも失礼な気がして、聞けないでいる。

そのことを花友にも打ち明けたら、私に話しかけても返事がないから
おかしいと思う時が有ったという。
kさんは、聴力は1歳を境にしてどんどん落ちていくのよと慰めてくれたが
そのことで誤解されるのはつらいことである。

それにしても補聴器は値段が高いよね。









あなたはマルティン・ニーメラーをご存じですか

2013年10月08日 | 日記

金精トンネル付近から見る男体山、最初は頭の上だけの
小さな雲だったが、やがて雲と霧で全身が覆われて見えなくなった。

マルティン・ニーメラーの書いた詩

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
(ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった)
(なぜなら)私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
(なぜなら)私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
(なぜなら)私は労働組合員ではなかったから

彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった
(なぜなら)私はユダヤ人などではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった


ネットで調べると色々な訳文が載っていますが、その中から一つを
引用しました。またわかりやすくするため「なぜなら」という言葉を
付け加えてみました。

マルティン・ニーメラー、1892年生まれ1984年没
ドイツのルター派の牧師、最初はナチスの支持者だったが、後に
教会のナチ化に反対して、1937年から1945年まで強制収容所に収容
されて、かろうじて生還した。
牧師になる前は、ドイツ海軍のUボートの艦長(第一次世界大戦時)
という経歴を持っている。
1945年の終戦で強制収容所から生還した彼は、1950年代から平和主義者
反戦運動家として活動し、半核運動でも活動した。
元々は保守派でナチスの支持者だった。

この詩は、世界中で社会的無関心層に対する啓蒙として良く引用されている
という有名な詩だが、日本の現代社会でも次のような言葉に置き換えて
見るとドキリとするかも知れない

生活保護者が非難されたとき、私は声をあげなかった。
なぜなら私は生活保護者ではなかったから

原発の再開を決めたとき、私は声をあげなかった
なぜなら私は汚染地域ではなかったから