弘治2年(1556)、突然出家をした“長尾景虎”(上杉謙信)。
大河ドラマ「風林火山」では“山本勘助”(内野聖陽)もまた出家ではありませんが、
景虎(Gackt)の拠る高野山へと赴いていました。
景虎が家中の内紛に嫌気がさして遁世したのに対し、
勘助は“由布姫”(柴本幸)の死に心を痛め、
仏の慈悲にすがろうとします。
このとき景虎27歳、勘助57歳。
両者共に虚無感を抱えての遁世ですが、
もうひとつ妻子の不在という共通点があります。
景虎は生涯妻を持たず、勘助はドラマではミツ(貫地谷しほり)を娶りましたが、
武田家によって殺されてしまいました。
勘助はともかく、血気盛んな27歳の景虎が国主の座を投げ出し、
出家してしまうのは尋常ではありません。
景虎の演出とも言われますが、おそらく彼は本気だったのでしょう。
ある歴史家は、景虎が妻子持ちではないため出家したと説いています。
もし妻子がいれば、何がなんでも地位や領土を守ろうとしたはず。
言ってみれば景虎には生きがいがなく、出家するのは仕方がなかったと……。
別の歴史家も、生きがいや家庭の幸せがあった武田信玄や北条氏康に対し、
上杉謙信だけが「寂しい人」だったと説いています。
「(笑)」マークがついいているため、
この歴史家たちがどれほど本気で発言をしたのかはわかりませんが、
単に「寂しい人」と位置付けられるほど、景虎の人柄は単純ではないでしょう。
長尾家の末子に生まれ、幼い頃から寺で過ごした彼にとって、
求めて就いた国主の座ではありませんでした。
もし兄晴景が有能な武将であれば、
景虎は僧侶として一生を終えたかもしれませんし、
彼自身もそう思っていたはずです。
しかし、時代がそれを許さず景虎は国主となると、
否応なく戦乱に巻き込まれていきます。
武将である一方で仏道の求道者だった景虎。
この時代の武将たちは神仏に深く帰依していたとはいえ、
景虎とは一線を画します。
己の戦いを義戦とし、私利私欲のために戦わなかったと言われるそのスタイルは、
景虎独自のものです。
通常のものさしで景虎を測ろうとしても、
その深みに触れることはできません。
“生きがい”もまたほかの武将とは異なっていたはずです。
「坊さんになるより仕方がなかった」と言うより、
「坊さん」になりたくてそれを生きがいとしていたのかもしれません。
仏門に深く帰依する景虎にとって、
そこを己の居場所、あるいは乱世で唯一の“聖域”としていたのではないでしょうか。
そこに妻子の分け入る隙がないのは当然です。
己を毘沙門天の化身と信じた景虎にとって、
その聖域は次第に深遠なものになっていった思われます。
言ってみれば、弘治2年の出家は27歳だからこそできたのでしょう。
もっと年を経て国主としての責任感が重くなれば、
投げ出すように出家はできなかったはずです。
現代の感覚で言えば、青春がそろそろ終焉に近付いているその歳に、
青年と大人の狭間で揺れていたのかもしれません。
いわば、27歳は“聖域の人”になるギリギリのラインです。
一般的なものさしで測ろうとすれば途端にすり抜けてしまう上杉謙信という人物は、
「孤独」というより「孤高」の言葉の方が似合っています。
大河ドラマ「風林火山」では“山本勘助”(内野聖陽)もまた出家ではありませんが、
景虎(Gackt)の拠る高野山へと赴いていました。
景虎が家中の内紛に嫌気がさして遁世したのに対し、
勘助は“由布姫”(柴本幸)の死に心を痛め、
仏の慈悲にすがろうとします。
このとき景虎27歳、勘助57歳。
両者共に虚無感を抱えての遁世ですが、
もうひとつ妻子の不在という共通点があります。
景虎は生涯妻を持たず、勘助はドラマではミツ(貫地谷しほり)を娶りましたが、
武田家によって殺されてしまいました。
勘助はともかく、血気盛んな27歳の景虎が国主の座を投げ出し、
出家してしまうのは尋常ではありません。
景虎の演出とも言われますが、おそらく彼は本気だったのでしょう。
ある歴史家は、景虎が妻子持ちではないため出家したと説いています。
もし妻子がいれば、何がなんでも地位や領土を守ろうとしたはず。
言ってみれば景虎には生きがいがなく、出家するのは仕方がなかったと……。
別の歴史家も、生きがいや家庭の幸せがあった武田信玄や北条氏康に対し、
上杉謙信だけが「寂しい人」だったと説いています。
「(笑)」マークがついいているため、
この歴史家たちがどれほど本気で発言をしたのかはわかりませんが、
単に「寂しい人」と位置付けられるほど、景虎の人柄は単純ではないでしょう。
長尾家の末子に生まれ、幼い頃から寺で過ごした彼にとって、
求めて就いた国主の座ではありませんでした。
もし兄晴景が有能な武将であれば、
景虎は僧侶として一生を終えたかもしれませんし、
彼自身もそう思っていたはずです。
しかし、時代がそれを許さず景虎は国主となると、
否応なく戦乱に巻き込まれていきます。
武将である一方で仏道の求道者だった景虎。
この時代の武将たちは神仏に深く帰依していたとはいえ、
景虎とは一線を画します。
己の戦いを義戦とし、私利私欲のために戦わなかったと言われるそのスタイルは、
景虎独自のものです。
通常のものさしで景虎を測ろうとしても、
その深みに触れることはできません。
“生きがい”もまたほかの武将とは異なっていたはずです。
「坊さんになるより仕方がなかった」と言うより、
「坊さん」になりたくてそれを生きがいとしていたのかもしれません。
仏門に深く帰依する景虎にとって、
そこを己の居場所、あるいは乱世で唯一の“聖域”としていたのではないでしょうか。
そこに妻子の分け入る隙がないのは当然です。
己を毘沙門天の化身と信じた景虎にとって、
その聖域は次第に深遠なものになっていった思われます。
言ってみれば、弘治2年の出家は27歳だからこそできたのでしょう。
もっと年を経て国主としての責任感が重くなれば、
投げ出すように出家はできなかったはずです。
現代の感覚で言えば、青春がそろそろ終焉に近付いているその歳に、
青年と大人の狭間で揺れていたのかもしれません。
いわば、27歳は“聖域の人”になるギリギリのラインです。
一般的なものさしで測ろうとすれば途端にすり抜けてしまう上杉謙信という人物は、
「孤独」というより「孤高」の言葉の方が似合っています。
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