永禄4年に上杉謙信が就任した関東管領は、
公方を補佐し関東の政務を司る役職です。
謙信がこれに就任したとき、公方は“足利義氏”でした。
義氏は北条の血を引いた人物です。
本来ならば“藤氏”という人物が古河公方になるところを、
北条氏康の圧力によって強引にその座に就いたのでした。
したがって、謙信は義氏を退位させ、藤氏の擁立を目指します。
その当時、古河公方も関東管領も名ばかりの役職になっていました。
しかし、政治的手段として利用することは可能です。
特に、義に厚い謙信にとって、
古河公方を奉じることで己の出陣を“侵略”ではないとしたのです。
北条もまた、名ばかりの古河公方とはいえその権力を利用し、
北関東への進出を目指していました。
それに、古河城は水運の要衝です。
古河公方および古河城とその周辺の諸城の掌握は、
今後の勝敗の行方を左右するほど重大なものでした。
永禄4年に古河城を手中にし、足利藤氏を同城に入れた上杉謙信。
これにより新たな古河公方が誕生します。
すなわち上杉方の足利藤氏、北条方の足利義氏という2人の古河公方が生まれ、
争いの火種となるのでした。
謙信は越後に帰国すると、休む間もなく川中島に出陣。
そして、武田信玄と激突しました。
世に言う“第4次川中島合戦”です。
結局勝敗がつかないまま両者は退陣し、
共に大きな損害を出すという不毛な結果に終わっています。
そんな激闘を終えた謙信でしたが、北条が不穏な動きを見せていると聞き、
再び関東に出陣。
両者は武蔵国児玉郡生山で干戈を交えました。
この戦いでも決着がついたわけではありません。
両者の戦いは泥沼と化していくのでした。
(「狭間の花崎城(8)」に続く)
※画像は“足利義氏”の墓碑です。
公方を補佐し関東の政務を司る役職です。
謙信がこれに就任したとき、公方は“足利義氏”でした。
義氏は北条の血を引いた人物です。
本来ならば“藤氏”という人物が古河公方になるところを、
北条氏康の圧力によって強引にその座に就いたのでした。
したがって、謙信は義氏を退位させ、藤氏の擁立を目指します。
その当時、古河公方も関東管領も名ばかりの役職になっていました。
しかし、政治的手段として利用することは可能です。
特に、義に厚い謙信にとって、
古河公方を奉じることで己の出陣を“侵略”ではないとしたのです。
北条もまた、名ばかりの古河公方とはいえその権力を利用し、
北関東への進出を目指していました。
それに、古河城は水運の要衝です。
古河公方および古河城とその周辺の諸城の掌握は、
今後の勝敗の行方を左右するほど重大なものでした。
永禄4年に古河城を手中にし、足利藤氏を同城に入れた上杉謙信。
これにより新たな古河公方が誕生します。
すなわち上杉方の足利藤氏、北条方の足利義氏という2人の古河公方が生まれ、
争いの火種となるのでした。
謙信は越後に帰国すると、休む間もなく川中島に出陣。
そして、武田信玄と激突しました。
世に言う“第4次川中島合戦”です。
結局勝敗がつかないまま両者は退陣し、
共に大きな損害を出すという不毛な結果に終わっています。
そんな激闘を終えた謙信でしたが、北条が不穏な動きを見せていると聞き、
再び関東に出陣。
両者は武蔵国児玉郡生山で干戈を交えました。
この戦いでも決着がついたわけではありません。
両者の戦いは泥沼と化していくのでした。
(「狭間の花崎城(8)」に続く)
※画像は“足利義氏”の墓碑です。
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