クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

狭間の花崎城(7)―子ども昔語り(87)―

2007年10月23日 | 子どもの部屋
永禄4年に上杉謙信が就任した関東管領は、
公方を補佐し関東の政務を司る役職です。
謙信がこれに就任したとき、公方は“足利義氏”でした。

義氏は北条の血を引いた人物です。
本来ならば“藤氏”という人物が古河公方になるところを、
北条氏康の圧力によって強引にその座に就いたのでした。
したがって、謙信は義氏を退位させ、藤氏の擁立を目指します。

その当時、古河公方も関東管領も名ばかりの役職になっていました。
しかし、政治的手段として利用することは可能です。
特に、義に厚い謙信にとって、
古河公方を奉じることで己の出陣を“侵略”ではないとしたのです。

北条もまた、名ばかりの古河公方とはいえその権力を利用し、
北関東への進出を目指していました。
それに、古河城は水運の要衝です。
古河公方および古河城とその周辺の諸城の掌握は、
今後の勝敗の行方を左右するほど重大なものでした。

永禄4年に古河城を手中にし、足利藤氏を同城に入れた上杉謙信。
これにより新たな古河公方が誕生します。
すなわち上杉方の足利藤氏、北条方の足利義氏という2人の古河公方が生まれ、
争いの火種となるのでした。

謙信は越後に帰国すると、休む間もなく川中島に出陣。
そして、武田信玄と激突しました。
世に言う“第4次川中島合戦”です。
結局勝敗がつかないまま両者は退陣し、
共に大きな損害を出すという不毛な結果に終わっています。

そんな激闘を終えた謙信でしたが、北条が不穏な動きを見せていると聞き、
再び関東に出陣。
両者は武蔵国児玉郡生山で干戈を交えました。
この戦いでも決着がついたわけではありません。
両者の戦いは泥沼と化していくのでした。
(「狭間の花崎城(8)」に続く)

※画像は“足利義氏”の墓碑です。


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