本との出会いは、ときどき人生を左右する。
『利根川図志』は、高田馬場駅前の書店に並んでいた。
復刻版として刊行されたばかりで、
平台に乗っていたのを覚えている。
ぼくはちょうど利根川熱に浮かされていたときで、
タイミングとしては的のど真ん中だったと思う。
江戸時代に書かれた書物というだけあって、
文字をすらすら追える代物ではない。
漢文で記された史料をそのまま引用した、
漢字だらけのページも少なくなかった。
『利根川図志』の著者は“赤松宗旦”。
下総の布川で町医師を務めながらこの書物を著したという。
初めて見る名前だったが、
新しい世界の始まりを感じた。
さながら、空からシータ(「天空の城ラピュタ」)が落ちてきたようなものである。
『利根川図志』を買い、しばらく電車の中で読んでいた。
対岸のヨシノさんに再会したのもその頃である。
高田馬場で出会った『利根川図志』は、
明らかにぼくの日常を変えた。
週末は図書館で受験生に交ざって利根川について調べたり、
利根川に関する本や写真集、漫画本を買い集めるようになった。
ときめいていた。
恋みたいなものである。
図書館で調べたあとに見る利根川は、全然違って見えた。
飛行石がラピュタを指し示す石ならば、
『利根川図志』は道しるべみたいなものだったと思う。
『利根川図志』の著者“赤松宗旦”は、
文化3年(1806)に布川で生まれた。
父も町医師であり、宗旦は幼い頃より医術を学んだ。
そして、20歳のときに独立。
26歳から各地を遊歴したが、33歳のときに布川に移住した。
以来、文久2年に没すまで、この地で暮らしたという。
同地では、宗旦の生家跡が復元されている。
閑静な佇まいで、目の前には利根川の高い土手が迫っていた。
宗旦が幼い頃は、家から利根川が望めたのかもしれない。
川を揺りかごに育ったからこそ、
その源流と川の果て、そして沿岸に残る寺社や伝説などに関心を持つのは、
自然の流れだったのだろう。
“柳田國男”は幼い頃に体験した飢饉が、
のちの民俗学創始に大きく影響しているが、
宗旦もまた大きな時代のうねりの中で、
思うものがあったのかもしれない。
何気なく入った書店で、そんな世界との出会いがあるかもしれない。
手に取る本は、現在の自分の心を映し出す鏡のようなものである。
いま何に関心が強く、何を求めているのか……
したがって、本を貸すときは強引であってはならない。
その人にとっては心に響く本でも、
相手が現在抱えているテーマは全く別のものかもしれない。
本を貸したところで、心に響くどころか、迷惑になる可能性がある。
そのとき、その瞬間でしか読めない本はあるのだ。
だから、本は紹介するだけに留めて、
それを読むか否かは相手の判断に委ねたい。
もし高田馬場で出会う半年前に、誰かに『利根川図志』を渡されていたら、
心の琴線には引っ掛からなかったと思う。
布川は閑静な町である。
『利根川図志』に見える布川の景観は変わった。
高い土手がそびえ立ち、その上を車が通り過ぎている。
しかし、利根川はいまも悠々と流れている。
そんな利根の流れのごとく、
『利根川図志』によって新しい世界に飲み込まれていく読者は、
今日もどこかにいるかもしれない。
赤松宗旦生家跡の復元(茨城県利根町布川)
同上
『利根川図志』は、高田馬場駅前の書店に並んでいた。
復刻版として刊行されたばかりで、
平台に乗っていたのを覚えている。
ぼくはちょうど利根川熱に浮かされていたときで、
タイミングとしては的のど真ん中だったと思う。
江戸時代に書かれた書物というだけあって、
文字をすらすら追える代物ではない。
漢文で記された史料をそのまま引用した、
漢字だらけのページも少なくなかった。
『利根川図志』の著者は“赤松宗旦”。
下総の布川で町医師を務めながらこの書物を著したという。
初めて見る名前だったが、
新しい世界の始まりを感じた。
さながら、空からシータ(「天空の城ラピュタ」)が落ちてきたようなものである。
『利根川図志』を買い、しばらく電車の中で読んでいた。
対岸のヨシノさんに再会したのもその頃である。
高田馬場で出会った『利根川図志』は、
明らかにぼくの日常を変えた。
週末は図書館で受験生に交ざって利根川について調べたり、
利根川に関する本や写真集、漫画本を買い集めるようになった。
ときめいていた。
恋みたいなものである。
図書館で調べたあとに見る利根川は、全然違って見えた。
飛行石がラピュタを指し示す石ならば、
『利根川図志』は道しるべみたいなものだったと思う。
『利根川図志』の著者“赤松宗旦”は、
文化3年(1806)に布川で生まれた。
父も町医師であり、宗旦は幼い頃より医術を学んだ。
そして、20歳のときに独立。
26歳から各地を遊歴したが、33歳のときに布川に移住した。
以来、文久2年に没すまで、この地で暮らしたという。
同地では、宗旦の生家跡が復元されている。
閑静な佇まいで、目の前には利根川の高い土手が迫っていた。
宗旦が幼い頃は、家から利根川が望めたのかもしれない。
川を揺りかごに育ったからこそ、
その源流と川の果て、そして沿岸に残る寺社や伝説などに関心を持つのは、
自然の流れだったのだろう。
“柳田國男”は幼い頃に体験した飢饉が、
のちの民俗学創始に大きく影響しているが、
宗旦もまた大きな時代のうねりの中で、
思うものがあったのかもしれない。
何気なく入った書店で、そんな世界との出会いがあるかもしれない。
手に取る本は、現在の自分の心を映し出す鏡のようなものである。
いま何に関心が強く、何を求めているのか……
したがって、本を貸すときは強引であってはならない。
その人にとっては心に響く本でも、
相手が現在抱えているテーマは全く別のものかもしれない。
本を貸したところで、心に響くどころか、迷惑になる可能性がある。
そのとき、その瞬間でしか読めない本はあるのだ。
だから、本は紹介するだけに留めて、
それを読むか否かは相手の判断に委ねたい。
もし高田馬場で出会う半年前に、誰かに『利根川図志』を渡されていたら、
心の琴線には引っ掛からなかったと思う。
布川は閑静な町である。
『利根川図志』に見える布川の景観は変わった。
高い土手がそびえ立ち、その上を車が通り過ぎている。
しかし、利根川はいまも悠々と流れている。
そんな利根の流れのごとく、
『利根川図志』によって新しい世界に飲み込まれていく読者は、
今日もどこかにいるかもしれない。
赤松宗旦生家跡の復元(茨城県利根町布川)
同上
貴方のブログに出会った時は、私は久しぶりに岩瀬に友の墓を詣でた時で、無意識にあなたのブログのようなものを、実は求めていた。
今まで、御迷惑も顧みず投稿したりしたのに、何かとコメントしていただきありがとうございました。
お邪魔しすぎたので、申し訳なく思っています。そのため、実は、ブログを立ち上げました。何時か、見て下さい。
、
できれば、アドレスを教えてください。
出会いはどこでどう繋がるかわからないですよね。
それに出会いは人間とは限らない。
本だったり、埋もれた遺跡だったりする。
書き手はいい作品にも影響を受けますよね。
いまという瞬間は、過去の事跡が積み重なった上にあるようなもの。
改めていまを見ると、『利根川図志』との出会いをはじめ、
いろいろな縁が重なりあっているなぁと、ちょっとだけしみじみします。