クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生城主・広田直繁伝(14) ―正覚院―

2018年06月30日 | ふるさと人物部屋
永禄9年(1566)1月26日、広田直繁は1通の文書を発給します。
それは、領内の正覚院という寺院に宛てたものです。
その内容はというと、
同院の僧が勝手に還俗してはならないと戒めたもの。

もしこれに反して還俗したらどうなるのか?
直繁は、例え親族や同心、被官であっても、
「その主従ともに追放する」としています(「正覚院文書」)。
容赦しないぞ、と直繁の意気込みが伝わってくるようです。

この頃、僧の勝手還俗は一般的なものでした。
僧侶というと、厳しい戒律を守りながら教えを説き、
迷える人々を導く聖人のようなイメージがあるかもしれません。
もちろん、僧侶といえども人間です。
多少の俗っぽさがあってもおかしくはありません。

ただ、戦国時代の僧侶は今日我々がイメージするよりも、
ずっと俗っぽさがあったようです。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスの報告によると、
僧は逸楽や休養の中に暮らし、労苦から逃れるために入信すると言います。

檀那を食い物にして、あらゆる手段を講じて自ら栄えることを計る。
飲酒は禁じられているのに、道を歩けば酩酊している僧侶に会うことはしばしば。
葬儀を重ねるのは、飲み食いをするためなのだとか。
勝手気儘に行動し、己の欲望と合致する高僧のもとへ行って従うなど、
欲望に忠実な僧侶が書き記されています。
(全ての僧侶が当てはまるのではなく、その一部でしょう)。

なお、フロイスの報告書によれば、
当時の僧は領主の伝令役や武略として働いていたということです。
実際に僧侶自身が兵として戦うこともあり、フロイスも根来寺の僧について、
戦争を仕事とし、戦闘に赴くために領主らに雇われる、と報告しています。

すなわち、僧は葬儀を執り行い、人々に教えを説くだけではなく、
政治や軍事に関わっていたということです。
純粋に信仰を深めていた僧もいたでしょう。
一方で、時の権力と深く結び付く寺院もあったのです。

さて、広田直繁が勝手還俗を戒めた正覚院が、
当時どのような寺院であったのか、それをうかがわせる資料はいまのところありません。
羽生領内で有力な寺院であったことは間違いありません。
それは、弟の木戸忠朝がのちに羽生領堅固の祈念を
同院に依頼していることからもわかります。

とはいえ、正覚院と羽生城の結びつきがどれほどのものだったのかは不明です。
僧侶が伝令や武略として奔走していたとする資料はありません。
正覚院の住持は徳のある僧侶で、
直繁や忠朝がたびたび教えを乞う存在であったのでしょう。
つまり心の拠り所。
彼らの精神を支える場でもあったと考えることができます。

あくまでも僕自身の考えですが、信仰だけではなかったように思います。
直繁が勝手還俗を戒める文書を発給したのも、
機密情報が外に漏れることを危惧してのことだったのかもしれません。
正覚院は、広田直繁の意図により政治的なことに関与していた。
勝手に還俗した僧が、敵に情報を渡さないとも限りません。

諜報として潜り込み、用が済んだから還俗。
そして、敵対勢力に情報を渡す。
それを危惧した直繁は文書を発給した、と推測できます。
あるいは、僧兵として軍事力の一旦を担っていたがために、
直繁は勝手な還俗を嫌がったのかもしれません。

というのが僕の推測です。
念のため繰り返し述べると、正覚院と羽生城の関係性の密度は不明です。
政治的な関与があったかどうかはわかりません。
最初に述べたように、正覚院は徳の高い住職で、
直繁や忠朝の心の師であった可能性も皆無ではないのですから。

ちなみに、永禄9年に広田直繁が発給した文書(判物)は、
現在羽生市指定の文化財になっています。
非公開資料ですが、
『羽生市史』や『新編埼玉県史』資料編6などで見ることができ、
後世に残したい文化財の一つです。

参考文献
ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』岡田章雄訳 岩波文庫

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