クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生城主・広田直繁伝(18) ―評定―

2018年07月26日 | ふるさと人物部屋
臼井城攻略の失敗を機に、
関東の国衆たちは次々に上杉謙信から離反しました。
そして、後北条氏に従属。

永禄9年(1566)比定の閏8月25日付の北条氏照の書状には、
宇都宮氏を始めとして、皆川氏、由良氏は我らに与し、
成田氏も調停によって従属した、と綴られています(正木時忠宛。「荻野研究室収集文書」)。

後北条氏の働きかけもあり、
国衆たちはその立場を決めたことが窺えます。
忍城主成田氏が後北条氏に与すれば、
自ずと騎西城主小田氏も同様です。
忍城と同時期に上杉氏から離れたのでしょう。

悪夢のように上杉離れが相次ぐ中、羽生城はどうしたか?
成田氏のように後北条氏に与したのでしょうか?

いえ、変わりません。
後北条氏になびくどころか、
上杉方の姿勢を崩そうとしませんでした。
周囲が北条一色となり孤立無援状態になっても、
どういうわけか忠節を貫くのです。

これが羽生城の特色であり、魅力と言える点です。
一方で、謎と言ってもいいでしょう。
隣接する成田氏に対抗しうる軍事力さえ持っていなかったにも関わらず、
反北条の姿勢を崩さなかったのですから。

上杉方として行く。
そう方針を示したのは羽生城主広田直繁だったでしょうか。
少なくとも、最終判断は直繁だったはずです。
例えば、「上杉氏従属に係る契約更新について」という文書が関係部署を回り、
最終的には長である直繁の手元に来て、その手で決裁印を捺したのでしょう。

ただ、これは羽生城の将来を左右する重大な案件です。
通常の決裁とは異なります。
こうした重要な案件について、誰がどのように決定したのでしょうか。

現代の感覚で言えば、議会に諮る案件です。
議決を経た上で羽生城の指針が示されます。

戦国時代において、「議会」に当たるのが評定(会議)でしょう。
城主をはじめ、重臣たちが参加。
そこで審議をした上で今後の方針を決めていく。
羽生城においても、そんな評定が行われていたはずです。

そこには誰が出席していたか?
広田直繁はもとより、弟の木戸忠朝も参加したと思われます。
城主一族であれば、永禄9年当時に存命と仮定して直繁の父範実。
また、忠朝の息子重朝や、次男の元斎の姿もあったかもしれません。
直繁の子為繁は、この頃越後にいたので不在。

なお、永禄9年当時の重臣クラスについては臆測の域です。
挙げるとすれば、渋江氏、岩崎氏、鷺坂氏らの姿が想定されます(「関東幕注文」『新編武蔵風土記稿』)。

何人が参加し、どのような人物が参加していたのか、
それを示す資料は現在のところありません。
現在の地方自治法では、議員の定数は条例で決められています(第91条)。
何人でもいいというわけではありません。

また、普通地方公共団体の議会は、定例会と臨時会があります(第102条)。
周囲の城が後北条氏になびく中、羽生城のその後を決めるのですから、
おそらく臨時会のような評定が開かれたのでしょう。

そんな評定の中に、一般の領民はいたでしょうか。
つまり羽生城主一族でもなく、幹部でもない、
領内で普通に生活を営んでいる領民です。

現在の議会では、選挙によって選ばれた議員が代表して参加しています。
日本国憲法でも、議会の議員などは
「その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する」と定めています(第94条)

戦国時代に選挙はありません。
が、領民を代表して評定に出席する者がいたとすれば、
だいぶ民主的な政治が行われていたと言えます。
すると、上杉謙信に従属し続けるという指針も、
羽生領民の民意によって決定されたということになるわけです。

広田直繁の独自の判断ではない。
羽生城の重臣たちの意志でもない。
民そのものの意志である、と。

しかし、資料が何もないため、一般領民が評定に参加していたかは不明です。
可能性としては低いでしょう。
参加したとしても、公募というよりも村の代表者だったと思います。

その場合、議場は城の中心部よりも
やや外側の建物で開かれていたのではないでしょうか。
村の代表と雖も、敵に内通していないとも限りません。
領民が城に避難するときも、立ち入り場所をある程度制限されていたくらいですから、
本丸ではなかったように思われます。

いずれにしても、羽生城は上杉方の姿勢を採ります。
そこには広田直繁の意志が大いに反映されていたのでしょうか。
それとも、評定で決まったことにやむなく同意のしたのか。
直繁の内面をどんなに想像しても、
現代人である我々の感覚では、その領域に達することはできないのかもしれません。

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