中学生のとき、利根川で一緒に過ごす同級生たちがいました。
自転車を河原にとめ、集めた流木で火を焚き、打ち上げるロケット花火。
川は音もなく流れ、頭上から降り注ぐ雲雀の声。
川ではときどき魚が飛びはね、1度だけ大群のハクレンが壮大なジャンプを繰り広げていました。
河原で多くの時間を過ごしたのに、ついに一度もしなかったのは水泳です。
川の中に入るとしても、膝まででストップ。
それ以上奥へは入りませんでしたし、
僕らの関心はどちらかと言えば水源や川の果てだったかもしれません。
僕らが遊んだ利根川の河原は埼玉県羽生市で、
その対岸は群馬県明和町になります。
対岸は高い土手が連なっているため、河原からでは町の様子は望めません。
強いて見えたのはおそらく会社の看板の一部で、
全くの無関心ではありませんでしたが、
僕らは自転車で館林市へ行くことはあっても、なぜか明和町へ向かうことはなかったのです。
したがって、中学生の僕らにとって明和は遠い町だった気がします。
目の前にあるのに、その前に横たわるのは坂東太郎。
浅瀬はなく、泳いで渡るほどの熱もありません。
むろん、往古のように渡し船があるはずもなく、
自転車で行くには昭和橋か埼玉大橋まで行かなければなりませんでした。
前者は当時歩道がなく、後者は隣町。
中学生の僕らには、明和町は近くにあって遠い町だったのです。
だから、明和町の“江黒古墳”も遠い古墳になります。
ちょうど、東北自動車道の近くに所在しているので、
中学生の僕らが利根川の河原から自転車で行くには大きく迂回しなければなりません。
当時、江黒古墳を知っていたわけではないし、
対岸の永明寺古墳(埼玉県羽生市)も蚊帳の外でした。
「古墳」や「城」といったものは、社会の授業に限定されており、
身近なものとは捉えていなかったのです。
江黒古墳は円墳で、住宅や会社の中に隠れるようにあります。
直径10mで、高さは3m。
墳頂には稲荷神社が祀られており、だからこそ現存しているのでしょう。
この古墳は町の史跡に指定され、その説明板も建っています。
7世紀後半の築造と考えられているようです。
ところで、現在は利根川の北側に存在する江黒古墳ですが、
往古はどうだったのでしょう。
利根川の流れは複雑で、時代によって流れを変えています。
そもそも、羽生―明和間を流れていなかった時代もあるくらいで、
谷田川を本流とする時期もあったことが考えられています。
とすれば、僕らが遊んだところから、
江黒古墳の建つ地域までは簡単に行くことができます。
川が皆無ではないにせよ、僕らを阻むほどの大河ではなかったかもしれません。
(江黒古墳築造の頃は、現在の明和―羽生間に利根川の流れはあったようですが)
現在は消滅している旧河道もわずかながら確認できることを考えれば、
現在我々が目にしているものとは全く別の光景が広がっていたはずです。
中流域においては、川の流れを読むことも歴史を解く一つのカギになるということでしょう。
出会いというのはタイミングがあります。
存在を知ったとしても、関心を持つかはまた別です。
もし、中学時代に江黒古墳に出会ったとしても、興味は覚えなかったかもしれません。
僕らの話題の中に「古墳」が出てくることも皆無でした。
ただ、利根川の河原で対岸を望んだときを過ごしたから、
大人になって川や流域の歴史に目を向けるようになった気がします。
いまでも利根川の果てに足を運びますし、
夏になれば大水上山も射程に入ってきます。
思春期に影響を受けたものは、その後の人生にも大きく関わっていくのでしょう。
江黒古墳は高速道路に架かる陸橋の近くにあります。
コンビニの南側で、注意深く見なければ気付かないかもしれません。
中学時代から遠く離れたいま、江黒古墳は簡単に行くことのできる場所です。
車で橋を渡れば利根川も何のその。
ただ、少年時代の「冒険」からはかけ離れているのでしょう。
大人になれば知的冒険で盛り上がることはできます。
が、利根川の河原ではしゃいだあの頃の感性はもはやありません。
悠久の歴史の流れの前では、14歳の僕らの時代はほんのひと時であり、
ロケット花火のように儚いものです。
江黒古墳(群馬県明和町上江黒)
自転車を河原にとめ、集めた流木で火を焚き、打ち上げるロケット花火。
川は音もなく流れ、頭上から降り注ぐ雲雀の声。
川ではときどき魚が飛びはね、1度だけ大群のハクレンが壮大なジャンプを繰り広げていました。
河原で多くの時間を過ごしたのに、ついに一度もしなかったのは水泳です。
川の中に入るとしても、膝まででストップ。
それ以上奥へは入りませんでしたし、
僕らの関心はどちらかと言えば水源や川の果てだったかもしれません。
僕らが遊んだ利根川の河原は埼玉県羽生市で、
その対岸は群馬県明和町になります。
対岸は高い土手が連なっているため、河原からでは町の様子は望めません。
強いて見えたのはおそらく会社の看板の一部で、
全くの無関心ではありませんでしたが、
僕らは自転車で館林市へ行くことはあっても、なぜか明和町へ向かうことはなかったのです。
したがって、中学生の僕らにとって明和は遠い町だった気がします。
目の前にあるのに、その前に横たわるのは坂東太郎。
浅瀬はなく、泳いで渡るほどの熱もありません。
むろん、往古のように渡し船があるはずもなく、
自転車で行くには昭和橋か埼玉大橋まで行かなければなりませんでした。
前者は当時歩道がなく、後者は隣町。
中学生の僕らには、明和町は近くにあって遠い町だったのです。
だから、明和町の“江黒古墳”も遠い古墳になります。
ちょうど、東北自動車道の近くに所在しているので、
中学生の僕らが利根川の河原から自転車で行くには大きく迂回しなければなりません。
当時、江黒古墳を知っていたわけではないし、
対岸の永明寺古墳(埼玉県羽生市)も蚊帳の外でした。
「古墳」や「城」といったものは、社会の授業に限定されており、
身近なものとは捉えていなかったのです。
江黒古墳は円墳で、住宅や会社の中に隠れるようにあります。
直径10mで、高さは3m。
墳頂には稲荷神社が祀られており、だからこそ現存しているのでしょう。
この古墳は町の史跡に指定され、その説明板も建っています。
7世紀後半の築造と考えられているようです。
ところで、現在は利根川の北側に存在する江黒古墳ですが、
往古はどうだったのでしょう。
利根川の流れは複雑で、時代によって流れを変えています。
そもそも、羽生―明和間を流れていなかった時代もあるくらいで、
谷田川を本流とする時期もあったことが考えられています。
とすれば、僕らが遊んだところから、
江黒古墳の建つ地域までは簡単に行くことができます。
川が皆無ではないにせよ、僕らを阻むほどの大河ではなかったかもしれません。
(江黒古墳築造の頃は、現在の明和―羽生間に利根川の流れはあったようですが)
現在は消滅している旧河道もわずかながら確認できることを考えれば、
現在我々が目にしているものとは全く別の光景が広がっていたはずです。
中流域においては、川の流れを読むことも歴史を解く一つのカギになるということでしょう。
出会いというのはタイミングがあります。
存在を知ったとしても、関心を持つかはまた別です。
もし、中学時代に江黒古墳に出会ったとしても、興味は覚えなかったかもしれません。
僕らの話題の中に「古墳」が出てくることも皆無でした。
ただ、利根川の河原で対岸を望んだときを過ごしたから、
大人になって川や流域の歴史に目を向けるようになった気がします。
いまでも利根川の果てに足を運びますし、
夏になれば大水上山も射程に入ってきます。
思春期に影響を受けたものは、その後の人生にも大きく関わっていくのでしょう。
江黒古墳は高速道路に架かる陸橋の近くにあります。
コンビニの南側で、注意深く見なければ気付かないかもしれません。
中学時代から遠く離れたいま、江黒古墳は簡単に行くことのできる場所です。
車で橋を渡れば利根川も何のその。
ただ、少年時代の「冒険」からはかけ離れているのでしょう。
大人になれば知的冒険で盛り上がることはできます。
が、利根川の河原ではしゃいだあの頃の感性はもはやありません。
悠久の歴史の流れの前では、14歳の僕らの時代はほんのひと時であり、
ロケット花火のように儚いものです。
江黒古墳(群馬県明和町上江黒)
そして、前述の、国指定史跡となったのが「磯浜古墳群」。私は、茨城県中央部で生まれ育ち、その後も、その周辺で生活しております。
「茨城」の場合、同じ北関東の「栃木県」や「群馬県」と競うことはあっても、「埼玉県」には一目置いてる?感じですね。(^。^)
ちなみに、私の兄は、長年埼玉県在住です。^_−☆
北埼玉からだと茨城は近くて、戦国期には公方さまの御座所があったり、海の近くに鹿島神宮があったり、坂東市に楽しい自然系のミュージアムがあったりと、個人的には一目置き、かつ親しんでいます。
今年の大河ドラマも水戸藩が登場したので、コロナが落ち着けば観光客が増えるかもしれませんね。
「磯浜古墳群」は、まだ一度も足を運んだことがなかったです。
今度改めて訪ねてみようと思います。
海の町にある古墳群ということで、コロナ収束後の楽しみにとっておきます(^^)
あれに乗って群馬に渡って見たかった。
渡舟の風景は情緒的だったでしょうね。
現在渡るとしたら、赤岩ー葛和田間でしょうか。
病気が落ち着いたらまたブログを再開したいと思います。
どうぞよろしくお願いします。