クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

埼玉で古墳をあつめる“御墳印”が始まった?

2023年06月13日 | 考古の部屋
令和5年6月10日より、埼玉県内で「御墳印」プロジェクトがスタートした。
御朱印や御城印ならぬ、御“墳”印である。
つまり、県内の古墳を巡ってスタンプ(御墳印)を集めるというもの。

古墳の熱い季節がやってきた。
古墳の存在感に惹かれるのはなぜだろう。
なぜ、古代の人がその場所に、どんな理由で、
どのようにして古墳を築いたのかという想像をかき立てられるからだろうか。

古墳を築造するにも政治的・経済的理由があったわけで、
気まぐれに思いついて作ったわけではないだろう。
古墳の規模や形態、副葬品から被葬者の人物像に想いを馳せれば、
出土した埴輪も歴史に彩りを添える。

僕は古墳の研究者ではないが、昔から不思議と惹かれるものがあった。
身近に古墳があったせいかもしれない。
保育園の卒園アルバムを開くと、
“丸墓山古墳”の階段に並んだ集合写真があることに驚く。
おそらく人生で初めて行った“さきたま古墳群”だったのだろう。

“初山祭り”でおでこにハンコを捺してもらったのは、
羽生の毘沙門山古墳の墳頂に祀られた神社だった。
0歳だから記憶があるはずもないが、人生初の古墳との接点だったに違いない。

中学生のとき、誰の発案からか自転車で向かったのは吉見町の“百穴”だった。
日本一の川幅を自転車で越えて百穴へ向かい、現地ではみそおでんを食べた。
一緒に行った同級生に古墳好きがいたとは思えず、
誰が何のために言い出したのか、もはや永遠の謎である。

中学1年生のときに校外学習で行ったのは隣町の行田市で、
忍城コースとさきたま古墳群コースの2種類があった。
もし僕らの班がそのとき古墳コースを選んでいたら、
僕は大人になって歴史の中でも古墳時代に目を向けていたかもしれない。

1995年の行田からの帰り道でいつも目にしていた真名板高山古墳で、
息子がまだ幼児のときに連れて行ったのは、
深谷の鹿島古墳群や東松山の将軍塚古墳だった。

身近にあった分、古墳に対する親近感は自ずと育まれてきたように思う。
いまでも古墳を見るのは好きだし、その歴史的背景に想いを馳せてしまう。
職場の同期は、「古墳へ行くまでが好き」と言った。
なるほど、あの行くまでのワクワク感はなんとも言えない。
それは自転車でも車でも変わらない。

御墳印プロジェクトは、そんなワクワク感に満ちた企画ではないだろうか。
すでに行ったことのある場所、未知の古墳、
初めて行く地域もあれば、見知った町なのに知らなかった古墳というのもあるだろう。
御墳印をきっかけに、古墳の熱い風に吹かれてみてはいかがだろうか。
今回用意された御墳印は以下のとおり。

・さきたま古墳群の9古墳(埼玉県行田市)
・小見真観寺墳(同上)
・八幡山古墳(同上)
・地蔵塚古墳(同上)
・真名板高山古墳(同上)
・浅間塚古墳(同上)
・宮塚古墳(熊谷市)
・甲山古墳(同上)
・永明寺古墳(羽生市)
・天王山塚古墳(久喜市)
・将軍塚古墳(東松山市)
・若宮八幡古墳(同上)
・鹿島古墳群(深谷市)
・吉見百穴(吉見町)

ちなみに、拙著『歴史周訪ヒストリア』(まつやま書房)で取り上げた古墳もある。
参考までに、この機会に参考にしてもらえれば幸いです。


天王山塚古墳(久喜市)


鹿島古墳群(深谷市)


宮塚古墳(熊谷市)


吉見百穴(吉見町)


永明寺古墳(羽生市)

御墳印ホームページ
https://gofunin.jp/
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