鶴ヶ塚古墳は加須市町屋新田にある。
南を手子堀川が流れ、その向こうには東北自動車道が通っている。
高速道路以外は田園地帯だ。
江戸時代に新田開発された地域である。
天和7年(1622)、代官の大河内金兵衛久綱が、
町屋の岡戸三左衛門に命じて開発。
新田開発されるまでは、荒地で誰も住んでいないようなイメージだが、
古墳が存在しているのだから、
往古から人類未踏の地だったわけではあるまい。
かつて集落だった場所も、時代によって人が住まなくなることは珍しくない。
一度拓けた場所が、そのままずっと続くとは限らない。
古墳を造成した人々が住んでいた集落は、
時代を経てなくなってしまったのかもしれない。
さて、鶴ヶ塚古墳は円墳だ。
前方後円墳の可能性もあるようだが、
現在は円墳として残っている。
詳細は不明。
靱形埴輪が出土しているが、
これ以外に古墳を物語る副葬品はいまのところ発見されていない。
墳頂には大神社が祀られている。
だから現存しているのだろう。
とはいえ、南側を流れる手子堀川によって一部が削られている。
鶴ヶ塚古墳以外にも古墳はあったはずだが、
現在は1基しか見当たらない。
周囲は湿地帯。
新田開発をするときに古墳を削り取り、
湿地を埋め立てたのかもしれない。
ちなみに、大神社は岡戸三左衛門が伊勢神宮から勧請したものと伝えられる。
境内には浅間神社や天神社、稲荷神社などの石祠が合祀されている。
鶴ヶ塚古墳を「稲荷塚」と呼ぶ人が多いというが、
この稲荷神社が由来している。
なお、境内には樹齢300年を越える松の大木が3本あった。
これは徳川将軍の日光参拝の折に、
三左衛門が随行したその褒美としてもらった松と伝えられるが、
枯死のためいまはない。
昭和56年の伐採というから、
松が消えてから40年近くが経っている。
鶴ヶ塚古墳は謎の多い古墳だ。
今後の調査によって何か新しい資料が発見され、
謎のベールが少しでも消えるだろうか。
たった1基のみとなってしまった鶴ヶ塚古墳は、
今日も孤高に町屋新田で横たわっている。
手子堀川と鶴ヶ塚古墳(埼玉県加須市)
南を手子堀川が流れ、その向こうには東北自動車道が通っている。
高速道路以外は田園地帯だ。
江戸時代に新田開発された地域である。
天和7年(1622)、代官の大河内金兵衛久綱が、
町屋の岡戸三左衛門に命じて開発。
新田開発されるまでは、荒地で誰も住んでいないようなイメージだが、
古墳が存在しているのだから、
往古から人類未踏の地だったわけではあるまい。
かつて集落だった場所も、時代によって人が住まなくなることは珍しくない。
一度拓けた場所が、そのままずっと続くとは限らない。
古墳を造成した人々が住んでいた集落は、
時代を経てなくなってしまったのかもしれない。
さて、鶴ヶ塚古墳は円墳だ。
前方後円墳の可能性もあるようだが、
現在は円墳として残っている。
詳細は不明。
靱形埴輪が出土しているが、
これ以外に古墳を物語る副葬品はいまのところ発見されていない。
墳頂には大神社が祀られている。
だから現存しているのだろう。
とはいえ、南側を流れる手子堀川によって一部が削られている。
鶴ヶ塚古墳以外にも古墳はあったはずだが、
現在は1基しか見当たらない。
周囲は湿地帯。
新田開発をするときに古墳を削り取り、
湿地を埋め立てたのかもしれない。
ちなみに、大神社は岡戸三左衛門が伊勢神宮から勧請したものと伝えられる。
境内には浅間神社や天神社、稲荷神社などの石祠が合祀されている。
鶴ヶ塚古墳を「稲荷塚」と呼ぶ人が多いというが、
この稲荷神社が由来している。
なお、境内には樹齢300年を越える松の大木が3本あった。
これは徳川将軍の日光参拝の折に、
三左衛門が随行したその褒美としてもらった松と伝えられるが、
枯死のためいまはない。
昭和56年の伐採というから、
松が消えてから40年近くが経っている。
鶴ヶ塚古墳は謎の多い古墳だ。
今後の調査によって何か新しい資料が発見され、
謎のベールが少しでも消えるだろうか。
たった1基のみとなってしまった鶴ヶ塚古墳は、
今日も孤高に町屋新田で横たわっている。
手子堀川と鶴ヶ塚古墳(埼玉県加須市)
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