クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

町屋新田でたった1基のみ残った古墳は? ―鶴ヶ塚古墳―

2016年08月02日 | 考古の部屋
鶴ヶ塚古墳は加須市町屋新田にある。
南を手子堀川が流れ、その向こうには東北自動車道が通っている。

高速道路以外は田園地帯だ。
江戸時代に新田開発された地域である。
天和7年(1622)、代官の大河内金兵衛久綱が、
町屋の岡戸三左衛門に命じて開発。

新田開発されるまでは、荒地で誰も住んでいないようなイメージだが、
古墳が存在しているのだから、
往古から人類未踏の地だったわけではあるまい。

かつて集落だった場所も、時代によって人が住まなくなることは珍しくない。
一度拓けた場所が、そのままずっと続くとは限らない。
古墳を造成した人々が住んでいた集落は、
時代を経てなくなってしまったのかもしれない。

さて、鶴ヶ塚古墳は円墳だ。
前方後円墳の可能性もあるようだが、
現在は円墳として残っている。

詳細は不明。
靱形埴輪が出土しているが、
これ以外に古墳を物語る副葬品はいまのところ発見されていない。

墳頂には大神社が祀られている。
だから現存しているのだろう。
とはいえ、南側を流れる手子堀川によって一部が削られている。

鶴ヶ塚古墳以外にも古墳はあったはずだが、
現在は1基しか見当たらない。
周囲は湿地帯。
新田開発をするときに古墳を削り取り、
湿地を埋め立てたのかもしれない。

ちなみに、大神社は岡戸三左衛門が伊勢神宮から勧請したものと伝えられる。
境内には浅間神社や天神社、稲荷神社などの石祠が合祀されている。
鶴ヶ塚古墳を「稲荷塚」と呼ぶ人が多いというが、
この稲荷神社が由来している。

なお、境内には樹齢300年を越える松の大木が3本あった。
これは徳川将軍の日光参拝の折に、
三左衛門が随行したその褒美としてもらった松と伝えられるが、
枯死のためいまはない。
昭和56年の伐採というから、
松が消えてから40年近くが経っている。

鶴ヶ塚古墳は謎の多い古墳だ。
今後の調査によって何か新しい資料が発見され、
謎のベールが少しでも消えるだろうか。
たった1基のみとなってしまった鶴ヶ塚古墳は、
今日も孤高に町屋新田で横たわっている。


手子堀川と鶴ヶ塚古墳(埼玉県加須市)



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