クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

上杉謙信は鶴岡八幡宮で激怒した? ―戦国コトノハ―

2014年12月30日 | コトノハ
 「吾家従来下馬無礼とて、大将と一同に下馬し、互に色代仕る事、
 先祖式部太輔助隆源頼義に相約する流例にして、鎌倉公方代々の間も其旧規更に
 違変の義なし、毛頭私に構る挙動にあらず」(中略)
 「先以て速に下馬仕り、平伏すべし」
 (『北越軍談』より)

このコトノハは、成田長泰と上杉謙信のやりとりである。
永禄4年(1561)、謙信は小田原城を攻めたあと、鶴岡八幡宮を参詣した。
そして、そこで上杉憲政から関東管領職を譲渡されている。

事件が起こったのはそのときだ。
関東諸将が馬から下りて拝賀の礼を尽くしているのに、
長泰だけが下馬しない。
嫌でも目に付く。

案の定、謙信は長泰を咎めた。
すると長泰は特に悪びれもせずに、上記のコトノハを言ったのである。
すなわち、我が家では下馬がかえって無礼であり、先祖代々そのようにしてきた。
決して自分独自によるものではない、と。

謙信はそのコトノハに激怒する。
昔はいざ知らず、いまは自分の幕下なのだから下馬して平伏せよ、と言う。
それでも長泰は下馬しようとしなかった。
羽生領を広田・河田谷(木戸)氏に安堵した不満の表れでもあったのだろう。
謙信は長泰を馬から引きずり下ろす。
そして、長泰の額を扇で打擲したのだった。

この一件により、長泰はさっさと忍城に帰ってしまう。
それは謙信からの離反を表明するものだったのだろう。

この長泰の行動によって、謙信から離れていく国衆たちが続出。
かくして、関東管領に就任したばかりの謙信だったが、
肩書きだけでは関東諸将の心は掴めないのだった。

打擲事件は、『成田記』や『北条記』などにも載っている。
ただ、関東に下向していた近衛前嗣の書状によると、
長泰は上杉方に人質を送っていることから、
離反はしばらく経ってからのようである。
この事件の真偽は定かではないが、
今日まで語り継がれている。

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